205 『運び屋』へと至る道(その6)
日本の気候の特徴として、夏場に雨が降ることは珍しくない。だが、太平洋側から吹く風が山脈を越えていく中で空気が乾燥する為、日本海側の降水確率は極端に低くなる。けれども、それはあくまで湿った空気が流れてこない場合の話だ。
滅多にあることではないが、大気の状態が不安定になれば、夏の日本海でも雨は降る。むしろ、山脈越えの最中でも乾燥しきれなかった湿潤の空気によって生まれる天候により、局地的に高い降水量となることが多かった。
(ついてないな……)
その大雨という最悪の天気を引き当てた日に限って、睦月は仕事用のスポーツカーで日本海側に来てしまった。不幸中の幸いにはなるが、天候に左右されやすい外国製ではなく国産車にして本当に良かったと、こういう時は常に思い知らされてしまう。
(外車だと水回りとか電気系統とか、とにかく日本と相性が悪いからな……)
その土地の環境や芽吹いた文化にもよるのだろうが、結局のところ、国が違えば思想も違う。日本にとっては最適解でも外国では合わないこともあるし、逆もまた然りだ。
だからこそ、日本で活動するのであれば、輸入する分高価になる上に手間の掛かる外国車よりも、あえて国産に拘る方が良い時もある。要するに、何事も適材適所があるということだ。
『次のニュースです。新しく就任した総理は暁連邦共和国に対して首脳会談の意向を示した件で続報です。その意向に対し、暁連邦共和国の労働党中央委員会は対話について否定的な考えを表明し……』
(……現在の総理は相手が逃げ出す程、有能なんだな)
日本の総理大臣が暁連邦共和国と会談するとなれば、拉致問題の話題は決して外せない。
けれども、歴代総理がこれまでいくら掛け合っても、いつものらりくらりと返され、解決の糸口は見いだせなかった。そんな中で睦月が知る限り唯一、会談の場すらもたれなかったのが、今ラジオで流れている渦中の人である。
(たしかあの国、また別の国と友好関係を築こうとしていたよな? そっちの話を優先させるつもりなら『延期』でも良いはずなのに、『拒否』を選んだってことは……勝てないと踏んだか)
三十六計逃げるに如かず、とはまさにこのことだ。
危機的状況に陥るだけだと分かるのなら、事前に逃げ出して仕切り直すのもまた手だ。それこそ、どうでもいい場面に遭遇した睦月であれば、迷わず選択するだろう。
ただし…………政治家等の国家権力がものを言う職業であれば、話は違ってくる。
何せ、一端とはいえ国を動かす立場にいるのだ。
王とも呼べる存在が率先して動かなければ国民はついてこないが、その先導者が迷えば国営は停滞して立ち行かなくなり、果ては国そのものが崩壊してしまう。
だからこそ、国という大きな共同体を先導する者には『後の結果を予測して対処する聡明さ』か『確固たる信念で迷わず前へ出るカリスマ性』のどちらか、もしくはその両方が求められる。それこそ、帝王学という学問が生まれる程に。
(これであの国、ますますメッキが剥がれてきたな……話術では勝てないと踏んで、会談の拒絶を選んだんだから)
少なくとも、現状で会談をしても勝てないと考えているのは間違いない。でなければ、これまで通りに臨んだ上で煙に巻くはずだ。
「そういえば姫香、お前…………表音文字に対応したメッセージアプリをスマホに入れてるか?」
まさしく、話が聞こえていないまま、スマホに熱中している姫香のように、だ。
そして、それが振りだということは、さすがの睦月もとっくに気付いていた。
(そうだよな……何で気付かなかったんだ、俺)
今は廃村となった田舎町を後にしたあの日、ただ一つの違和感があった。当時は脱出に気を取られていた上に、次々と起きた出来事のせいで完全に後回しにしていたが……ここまで来てしまえば、もう目を逸らすことはできない。
豪雨の中、目的地へと着いた睦月はエンジンを切ると、懐のショルダーホルスターから自動拳銃を抜き、弾倉の残量や簡単な動作確認を行ってから、姫香の方を向いた。
「ここで待っててくれ。何かあれば自己判断で動いていいが……余程のことがない限り、車から出るな」
そう命じる睦月だったが、姫香の方は特に気にすることなく、スマホの画面に視線を落としたまま、ひらひらと手を振ってくる。
……到着する前に睦月から発した質問には、応えなかったくせにだ。
しかし、睦月は気にすることなく後部座席から一本の傘とウエストホルスターを手にしてそのまま下車する。
「…………っし!」
軽く声を出し、気合を入れ直した睦月は差した傘の下でウエストホルスターを身に着けると、かつて秀吉と訪れた日本海岸沿いの塩害に蝕まれた廃ビルへと向かって歩き出した。
(さて、何が出てくるやら……)
姫香はたしかに、睦月の女なのだろう。けれども、それが裏切っていない証拠にはならない。しかし、これまで敵対するような行動は一切見せてこなかった。それどころか、地元を出る前と同じ関係が違和感なく続いている。
…………たった一つの矛盾を除いて。
(本当、さっさと問い詰めれば良かったよな……まあ、いまさらか)
廃ビルの中に入り、雨風を凌げるようになった睦月は傘を畳むと、すぐ傍の入り口近くに立て掛けた。そして改めて、ウエストホルスターに納められている残り二丁の自動拳銃の動作確認も手早く済ませていく。
(そう……気付かないはずがないんだよ。あいつなら)
人間には大なり小なり、『恐怖』という名の危機察知能力が眠っている。
中には才能とも、弛まぬ努力の結晶とも、辛い人生経験の賜物とも、理由は様々だが……稀に、その能力が常人よりも突出して秀でてしまう人間が存在する。現に、睦月にはその危機察知能力を逆手に取った反攻狙撃を得意とする、『殺し屋』だか『傭兵』だかがあやふやな者が知り合いに居た。
そして……その危機察知能力が優れているのは、久芳姫香も例外ではない。
(…………よし)
全ての自動拳銃に異常がないことを確認した睦月は、かつて秀吉に案内された通りに、隠し扉の傍へと歩き出す。そして予想通り、すでに誰かが入り込んでいる地下へと、ゆっくりと足を踏み入れた。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか……)
ウエストホルスターから抜いた自動拳銃を右手に持ち、誰かが点けたであろう照明の下、静かに足を進めていく。
この場に、睦月が身を隠す為の物は存在しないが……それは、相手も同じだった。
「まさか、お前が待ってるとはな…………『喧嘩屋』」
「…………」
歩いて数分もしない通路の端、かつて秀吉が施錠した扉の前に、郁哉は腰を降ろしていた。そして睦月が近付くにつれ、無言で立ち上がると静かに睨み返してくる。
「……で、どこまで話を聞いてきた?」
睦月の問い掛けに対し、郁哉は一度だけ右手を挙げると、親指で背中越しにある扉を指してきた。
「後ろにある奥の手と……久芳姫香が裏で誰と繋がっているかを、な」
そして取られる無形の型。だが、『喧嘩屋』にとってはすでに動きやすい姿勢……戦闘態勢に移っていることは見て取れた。
「お前こそ、一体いつから気付いてたんだよ?」
「あ~…………できれば、聞かれないままでいたかったんだけどな。若干恥ずいし」
会話とは裏腹の郁哉の行動に対して、睦月も自動拳銃の銃口をゆっくりと持ち上げながら答える。
「俺が田舎町出る日にさ、親父が猿芝居打って『公安に追われている』状況をでっち上げたんだよ。ご丁寧に追っ手付きでな……ただ、」
拳銃を用いた実戦で、相手を狙う距離として想定されているのは大体が5m前後、遠くとも10m位だ。
これは相手の方が先に距離を詰めていたり、不意を突かれたりする場合が多い為の不可抗力が原因の一つでもある。それに、じっくり狙える射撃競技であればまだしも、実戦でゆっくり構えていてはその隙に、自分の生命が刈り取られてしまう。
二者間の間に広がる10m以上の距離。その、火蓋が切られる境界に至るまで、睦月と郁哉は歩みを止めない。
「いくら猿芝居でも、どれだけスマホ中毒だろうと…………姫香が襲撃に気付かないわけがないんだよ」
実際、秀吉と話している途中だった睦月ですら気付いたというのに、当の本人はスマホにうつつを抜かしたまま、ようやく逃げ切ったタイミングで疑問を投げかけてきたのだ。
「そのことに後で気付いてから、ずっと裏切りの可能性を考えていたよ。だけどな、あいつは『運び屋』を一発で潰せる弱みを握ったまま、一向に使う気配がない。まったくと言っていい程、敵意がないんだ。そうなると……考えられる可能性は一つだろ?」
その弱みを、かつて握っていたのは二人。姉として慕っている『鍵師』の朔夜と……睦月の実の父親、荻野秀吉だった。
「姫香は親父と繋がってる。暁連邦共和国に喧嘩を売る時に息子を都合良く利用できるよう、弱みを得た時に対価として協力させられてる……確証はないが、まあ大体そんなとこだろう」
そう考えれば、睦月が公安警察相手に逃走劇を繰り広げている間もずっとスマホを弄っていたことに説明がつく。
……最初から、全部知っていたのだ。
だからこそ、姫香は気にすることなく睦月の運転に身を委ね、余計な反撃を掛けて無益な遺恨を残さないよう、あえて手を出してこなかった。
「その証拠に、あいつ俺のスマホは勝手に見るくせに、自分のは触らせもしないんだぞ? スマホ中毒の影響で元々手放す機会も少なかったが、ある時期を境に徹底しだしたんだ……丁度、俺が表音文字を勉強し始めた頃からな」
たしかに睦月は、韓国語は話せても表音文字を読み書きすることはできない。しかし、できないままでいる理由もなかった。
人間は成長する生き物だ。AIに頼るという手もなくはないが、それとて実際は、膨大に蓄積された量の情報を効率良く活用しているに過ぎない。性能の出来に差があるだけで、情報の蓄積をしなければならないのはどちらも一緒なのだ。
逆に言えば、AIと共に勉強する癖を付ければ、活用方法次第では勉強時間の短縮にいくらでも繋げられる。
たとえば……目的の表音文字に対してAI翻訳により語彙力を補いつつ、細かい部分を自身の語学力で補正し、大雑把でも内容を把握する使い方もあった。
何かの試験ではなく、時間を掛けてでもただ文章を理解したいのであれば、それだけで十分事足りる。そして現在、睦月はそれができるまでに成長していた。
だからこそ、姫香は自身のスマホを睦月に触らせようとしてこなかった。
メッセージアプリに残されている表音文字を、秀吉もしくはその関係者とのやり取りの証拠を押さえられない為に。
「勉強し始めたのは単なる気紛れだったから、特に隠しもしなければ見せもしていない。ただ……ずっと一緒に居たんだ。気付く機会なんて、腐る程あっただろうさ」
韓国語自体はすでに使えていたし、何より結果を出していない以上、努力する過程なんていちいち話していても仕方がない。だからあえて姫香には聞かずに、最初は独学で表音文字について勉強していたのだが……それがかえって、警戒させてしまったのだろう。
もっとも、睦月にとっては、敵対さえされなければ特に気にすることではなかったが。
そう、結局は目的に対して、努力の方向性さえ間違えなければいい。だから姫香は、睦月が表音文字を勉強することは止めようとはせず……確認だけに留めるつもりだったとはいえ、奥の手に近付いた途端に行動を起こしてきたのだ。
「まあ、それはこの際どうでもいい。俺が問題にしているのはこっちだ」
背後に控える奥の手へと続く扉の前に立ち、郁哉は睦月に言い放ってきた。
「『運び屋』の奥の手の話を聞いた上で言うぞ……ふざけるな」
話している間に、二人の距離はもう一桁へと近付いていく。
「たしかに、『運び屋』にとっちゃ有益かもしれない。でもな……どう考えても、お前の目的から外れてるぞ、これはっ!」
郁哉の考えも理解できる。現に、当時秀吉から扉の先を見せられた睦月もまた、似たような感想を抱いていたのだから。
「分かるよ。たしかに奥の手は、『運び屋』のスタイルそのものから外れている。だけどな……それが成長しない理由にはならない」
狭い通路、近接戦闘に特化した『喧嘩屋』から逃げ切れる保証はないが、同時に自動拳銃の、機関拳銃の弾幕を避け切れる手段も手元にないはずだ。
どちらにとっても有利で、どちらにとっても不利。その状況の中、刻一刻と引き金が絞られていく。
「お前は奥の手を使って、『運び屋』としての俺が弱くなる可能性を危惧してるんだろ? むしろ逆に、俺個人を強くしようとは思わないのか?」
「俺の目的は知ってるだろ? 『運び屋』としてのお前に勝つことだ。なのに……自分の強み捨てようとしてる馬鹿を助けろ、ってか?」
そこで初めて、郁哉は拳を握った。
「昔からそうだったが、少しは筋を通せよ…………ふざけるのも大概にしろ馬鹿野郎っ!」
二人の距離が、10mを切る。その瞬間、郁哉が床を踏みしめると同時に、睦月も自動拳銃の銃口を向けた。
カチッ、と金属部品が擦り鳴る音を響かせながら。




