203 『運び屋』へと至る道(その4)
たとえ数年に満たない付き合いだとしても、雪から見た荻野睦月が非常に極端な男だということは、短い間でも嫌という程に理解させられた。
『昨夜レースに勝たくせニ……何で朝から一人で車弄てるヨ?』
『……絵美に相手して貰えないんだから、仕方ないだろ』
工具片手にボンネットを開け、勝利を手にしたばかりの車を点検している睦月に、チームに加わったばかりの雪は少し離れた場所に腰を降ろしたまま声を掛ける。
『情けナイ……これが私等のチームを倒した『走り屋』かと思うと、ホント情けナイネ』
『ご期待に沿えなくて悪かったな……』
声量的に聞こえているからだろう。睦月は雪の方を見ず、エンジンの上に身を乗り出したまま話を続けてくる。その間にも、整備の手が止まる気配はなかった。
『大体、年がら年中イケメンでいられるかよ。普通に疲れるわ』
『……誰モ、お前がイケメンだとは言てないネ』
『うわ~、事実だったとしても腹立つ~』
だが、不細工ではないと雪は思いつつも、口にすることはしない。
生まれも育ちも日本で、中国どころか海を越えたことすらないとはいえ、同じ黄色人種である以上、美醜の基準にそこまで差はなかった。だから雪にとって、睦月の外見は『无可无不可』という印象に留まっている。
けれども……不思議なことに、その男に惹かれる女が絶えないのもまた事実だった。
(……マ、私が言えることでもないけどネ)
自分もまた、その一人だという自覚はある。ただ、他の女達と同様に行動に移せる程、雪の気持ちは大きくなかった。
気の合う人間とは思えても、惹かれる異性とまでは思えない。
それが、睦月に対する雪の気持ち、本心だった。
『……一つ、聞いていカ?』
『何だよ?』
工具を取り換えるついでか、睦月がこちらへと振り返ってくる。その顔に向けて、雪は姿勢を変えずに問い掛けた。
『人間は完璧な生き物じゃナイ。それを本当の意味で理解できた奴だけが前に進めるネ。この不条理な世界で人生を送る、ってのはそういうことヨ』
これまで……自分は、『日本に生まれた中国人』として生きてきた。
日本人として暮らすことも、もう中国の文化に馴染むこともできない。この世に生を受けたその瞬間から、周囲と違う生き方を強いられてきた。
その境遇をこれまで享受してきた影響が、大きく出てきているからだろう。日本人とは異なる中国語脳と、日本語として教えられた『協和語』という似て非なる言語。その環境下で暮らしてきたからこそ、周囲の人間から『差別』を受けざるを得なかった雪は本能的に、『人間は完璧な生き物ではない』と悟っていた。
これは、日本人や中国人といった人種はもはや関係ない。本能的に異物を排除しようとする『人間』の性質そのものである。
『そんなふざけた世界デ……お前は何デ、前に進めてるネ?』
だからこそ、雪の眼に映る男は、これまで『差別してきた人間』とは完全に一線を画していた。
『お前だテ、他の奴とは違う生き方をしてきたはずヨ。なのに何で、我を通し切れるネ』
『……単に、やることが決まってるだけだよ』
本人にも覚えがあるのだろう。持ち替えた工具で肩を叩きながら、『どうでもいい』と嫌でも思い知らされる口調で、睦月は答えてきた。
『俺だって、ただの人間だ。疲れて立ち止まりもするし、気分転換で寄り道することもある。盛大に失敗もすれば、努力の方向性を完全に間違えた時だってあったさ……だけどな、』
未だに腰掛けている雪を見下ろしたまま、睦月は答えを発した。
『俺には夢が、生きていく上での目標がある。それを目指す為の努力をこれまで積み重ねてきたし、これからも積み上げていく。それが俺の生存理由であり……死ぬまで続けていくと決めた、唯一の自己実現だ』
そう言い残し、睦月は車弄りに戻ってしまう。
(本当に、そうなのかな……)
そこでようやく、雪は腰を上げて、睦月の傍に歩み寄って行く。
『ソレ、周りが何も言わなかたカ?』
『質問は一つじゃなかったのかよ? まあ、いいけど……』
変に細かく言うものの、整備する様子を覗き込んでくる雪に構うことなく、睦月は作業と話を続けてきた。
『お前が考えていることは、大体分かるよ。自分磨いてた方が有意義なのに、いちいち他人を下げなきゃ気が済まない馬鹿な暇人共の相手をするのに疲れたとかだろ? ああいう連中って本当、何で時間をドブに捨ててるんだろうな……事の大小問わずに余計な問題抱えるだけで、敵増やす以外に何の意味もないのに』
境遇は違えど、似た状況は経験しないまでも見たこと位はあるのだろう。
雪が言わんとしていることを理解した上で、睦月はエンジンに目を落としたまま言い切ってくる。
『まあ、俺から言わせれば…………『だからどうした?』ってところだな』
現に睦月は、雪が傍で手元を覗き込んできていても、一切気にすることなく整備作業に没頭していた。
『結局は俺個人の人生だ。誰が何を言おうとも……最後に自分で我を通さなきゃ、何の意味もないだろうが』
その言葉通り、雪が見ている中でも睦月は手元を狂わすことなく、車の整備を続けていくのだった。
ヒュ……パシッ!
「……何?」
「そんな睨む必要ないネ。こっちは休憩ヨ休憩」
昼食を済ませ、仕事用のスポーツカーを運転してまた整備工場に戻ってきた姫香はその近くに腰を降ろし、睦月の帰りを待っていた。今はここの工場長と正式な売買契約を結んでいるだろう間に、雪と紹介された女が寄って来る。
『じゃあ、改めて……こいつは久芳姫香。俺の女で会社の従業員。んで、こっちが洪雪。この整備工場の従業員で、『走り屋』時代の顔馴染みだ』
二人の紹介を簡単に済ませた睦月は、この整備工場の工場長と直接商談をしに奥へと入っていった。その本人が運転して持ち込んだ車を売りに行く中、緘黙症で話せないからと席を外した姫香に雪が投げ渡してきたのが、自動販売機で売られていた紅茶だった。
「ちょとお前に興味があてネ。今のあいつの女がどんな奴なのカ、テ」
「どうもこうも……名刺の通りよ」
別に中国語で話しても構わなかったのだが、雪の方は日本語で話し掛けてきていた。それに合わせて、姫香も紅茶のペットボトルを手に持ったまま立ち上がり、同じ言語で返す。
「そういうあんたこそ、睦月とはどうだったのよ? 昔に関係があったとかじゃないでしょうね?」
「それはまったくないネ」
自分の烏龍茶の蓋を開けようとした手を止めた雪は、そのまま持ち上げて数回、空を切って返してくる。
「そりゃ男として見たことはあてモ、彼女持ち相手に口説く程じゃなかたネ。良くて『気の合う友人』程度ヨ」
「…………本当に?」
「嘘ついてどするネ」
それが本当だということは、雪の顔色と声だけでも十分に理解できた。それでも納得できないからこそ、暇を持て余していたこともあってだろう、姫香はあえて話に乗ることにした。
「そもそもあの男、昔から『往者不追、来者不拒』とかほざいてたくせニ、自分の女すらまともに抱けてなかたヨ。その愚痴を指の数以上も聞いたネ」
「何でそういうところだけアホなのよ、もう……」
思わず掌で、顔面を覆う姫香。そこに追い打ちをかけるかのように、雪は言葉を重ねてくる。
「ついでに言とくト、誰かと付き合てた間も他の女を抱いてたネ。とは言てモ、強姦までした相手は喧嘩売てきた馬鹿だけアルけド」
「それは知ってるし、今でもやってる」
「いつまでモ、学ばない男ネ……」
今度は雪の方が、呆れた口調でペットボトル片手に腕組みをしてくる。
「それで、姫香言うたカ? お前は何デ、アイツと居るネ?」
「……惚れた弱み、ってやつよ」
指先でペットボトルを弄びながら、姫香は運転してきたスポーツカーにもたれかかった。
「生きる理由も死ぬ理由もない中、どうしようかすら考えもしなかった時に世界へと引っ張り出してきたのが睦月だった。最初はそれだけだったんだけど……」
そう言い、姫香が取り出したのは雪にも見せた、自らの名刺だった。
「……実際に惹かれたのは、この名刺の肩書きを得る少し前よ」
その肩書きを得る為に、姫香は短時間かつ的確に行動し、睦月に結果を示した。その後もただ漫然と受け入れず、『走り屋』達が行っていた度胸試しを自らも実践し、その結果も突き付けてやった。
ただ……睦月の隣に居たいという、想いの為だけに。
「私は一度、睦月に拒絶された。その現実を受け入れるのが嫌だったから、行動に移した……その結果、ってだけよ。この肩書きを含めた現状は」
とはいえ、姫香の悩みが全て解決したということは、一切ない。
「まあ、未だに悩みは尽きないけどね。緘黙症もあるし、それに……」
そう言い、姫香は雪から受け取った紅茶のペットボトルを投げ返した。
「……紅茶は嫌いだたカ?」
「飲めないのよ。体質的に」
車のドアを開け、中から自前の水筒を取り出した姫香はその中身に口を付けながら説明する。
「生まれた時からずっと、化学調味料とは縁のない生活送ってきたから、身体が受け付けなくなってるのよ。だから悪いけど、その紅茶も飲めないわ」
「ア~……生海苔を食べられない外国人的なアレカ?」
「……言ってしまえば、そんなところね」
人種によっては、特定の食物を消化するのに必要な腸内細菌を持ち合わせていない場合がある。日本人がよく食べる生海苔を国外の人間が受け付けられないのが、顕著な例だろう。
そのことを姫香や睦月達は、一種の『化学調味料』アレルギーだと認識していた。
「病院で治せれば良いんだけど、そもそもアレルギーの類はよくて対症療法しか受け付けてないでしょ? 緘黙症は当てがあるけど、体質はそうもいかないし……」
そうぼやく姫香に、返された紅茶のペットボトルにも口を付けながら、雪は少し考えてから告げてきた。
「お前…………漢方とかは試したカ?」
その質問に、姫香は別の意味で無理だと答えた。
「効く、効かない以前に、信用できる相手がいないのよ。一応探したり、自分で調べたりもしてるけど……そもそも東洋医学自体、科学的根拠の薄い知識も混じってるから精査が面倒臭いし」
「マァ……それはたしかに」
その点に関しては、雪もまた同意見だと肯定してくる。
「結局は、信頼できる専門家が見つかるかどうかネ……」
「本当、ままならないわ……」
とはいえ、信用と実績程、仕事における信頼性を判断する材料として無視できるものはなかった。
(睦月、早く帰ってこないかな……)
良い機会だからと、睦月が戻ってくるまでの間、姫香は雪に昔のことを聞いてみることにした。
「『走り屋』時代の睦月に、何て名前の女達が近付いてきてたの?」
「それ聞いてどするネ……?」
一方、睦月は車の売買契約について、工場長の肩書きを持つ女性と商談を済ませていた。
「駐車場は一台分余ってるから、売れたら次も買い取ってあげるわよ」
「ありがとうございます……」
この整備工場の工場長こと重綱沙織にそう言われ、礼を述べる睦月。本来であれば喜ばしいことなのだが、ほぼ使用していないとはいえ、やはり思い入れのある車を手放すことに対する喪失感の方が上回るのか、その声に張りがなかった。
「あれ? 断捨離とかが苦手なタイプだったの?」
「……そんなところです」
沙織にそう答えてから、睦月は署名した契約書を押し返した。
「まあ、思い出補正のせいで無駄に値段吹っかけて売れなくなるよりはいいですけど……やっぱりどうしても、もっと高値になるんじゃないかと思ってしまって」
「その考え、改めた方が良いわよ? 社会経験がないくせに学歴とかで自己評価が膨れ上がってる新入社員みたいで痛々しいから」
「……気を付けます」
何ものにも縋らないことを信条としている睦月にとって、沙織からの指摘は耳が痛くなるものだった。
「じゃあ、売れたら連絡ください。また持ってきます」
「ええ、良いわよ……あ、それで荻野君。ちょっといい?」
「はい?」
商談が済み、早く引き上げようかと応接室のソファから腰を上げた直後、睦月は沙織に呼び止められた。
「近いうちに仕事を頼みたいんだけど……お願いできる?」
「構いませんよ。内容と報酬次第ですけど、こちらの都合が付く限りは」
少しでも資金を稼ごうと、睦月は車を売りに来たのだ。その上で仕事の依頼も得られるのであれば、それこそ渡りに船である。
「それにしても……『運び屋』のことを知った上で、依頼しているんですよね? 何かあったんですか?」
「ちょっと、ね……杞憂に終わるのなら、それでいいんだけど」
どこか憂いを秘めた眼差しで、沙織は視線を逸らすのだった。




