8-4:ある水曜日
・ある水曜日
水曜日に来る方は、いつも上品だ。
ほかの来る人たちが傍若無人なことからしたら、大変ありがたい方だ。この方なら、いくら来られてもウェルカムである。
「あたくし、君に怒りを覚えますわ」
「どうしてですか?」
その言葉を水に流せなかった。
「君、小説を書く気がないわね」
「たしかにないです」
「なんでもいいから書くように言ったはずよ」
「それが難しいのですよ、やはり」
彼女は流れるように言う。
「君が心に思ったこと、怒りに思ったことをとりあえず書くだけでいいのです」
「でも、怒りに覚えることがないのです」
「そんなことはないわ。どんな人間にも怒りの感情はあるはず」
「そんな余裕がないのです」
「どういうこと?」
彼女は深水のように静かな表情。
「毎日のようにいろいろな女性が来て、大変なのです。いちいち怒りを覚える余裕がないのです。正確にいうと、たしかに怒りを覚えることもありますが、いろいろとするうちに怒りがなくなってしまうのです」
「つまり、リアルが充実しているということね」
「リア充ですか?」
「あえてその言葉は言わなかったのに」
彼女は水面が揺れるかのようにつぶやいた。
「どうしてですか?そんなに抵抗感があるのですか?」
「その言葉、一般的じゃないかもしれないの。そう言う言葉は小説に書いたら、書いた当時は面白いかもしれないけど、数年後に読んだらただ単に意味がわからない言葉になる可能性が高いのよ」
「そんなところ気になります?」
俺は言葉が澱んだ。
「気になるわよ。昔の小説を読んだら、巻末付近に脚注がつきまくっているわ。とても読みにくいわ」
「そうかもしれないですけど、それは小説の話であって、今は会話ですけど」
「ずーっと小説を書いていたら気になるのよ。だから、仕方ないじゃない」
「うーん。まるでミイラ取りがミイラですね」
「どういうこと?」
ぴくりと眉毛が動いた。
「怒りを収めるために小説書いていたら、小説関係で怒りを覚えることです」
「たしかにそうね」
動きが止んだ。
「そうでしょ?小説を書かない人にイライラしたり、小説を書くときに気なることにイライラしたりと、たいへんですね」
「そうね。たいへんね」
「そのことを小説に書いたらいいのかもしれませんね」
「そうね、書いてみるわ」
「でも、俺はもう書きたくありません。許してください」
「わかったわ。許しましょう」
静かな水面に水滴が落ちて波紋が広がったように、俺の気持ちは広がった。
「そんな簡単に許していいのですか?」
「ええ。君の言うことはなんでも許すわ」
「でも、そんなことが許されるのですか?」
「許すって言っているでしょ。怒るわよ」
怒っているじゃないか。




