9話 貝塚家の事情
楓、名字を教えてくれよ
ダメ、それはできないの……
名前も教えてくれないなんて…… それなら俺じゃなくても良かったじゃないか!
あなたじゃなければダメだったのよ! だってあたし……
という夢で目が覚めた。 なんだこれ…… 俺欲求不満なのか?
「女連れ込んでベッドに寝かせて、いい御身分ね 」
結局ベッドの縁に寄りかかったまま寝てしまった。 目の前には勉強机の椅子に座って足を組んでいる楓が、俺を軽蔑した目で見下ろしている。 パンツ見えてるぞ……
「どこ行ってたんだよ。 なんで逃げ出した? 」
「…… だって怖かったんだもん 」
「怖かったじゃねーんだよ。 せっかく自分の言葉で伝えられるチャンスだったのに、なんなんだよ 」
言いたい事はいっぱいある。 でもまた逃げられる前に、昨日楠木…… じゃなかった、藍と相談した事を聞き出さなきゃならない。
「どうでもいいけどよ、お前苗字くらい名乗れよ。 それとも覚えてないのか? 」
「失礼ね、ちゃんと覚えてるわよ! でもダメ 」
「なんでだよ! こんだけ協力してやってるに、それこそ失礼だろ! 」
楓は困った顔で押し黙ってしまった。 藍の読みが当たりっぽいな…… でもどうして隠す? もう死んでるんだから関係ないだろうに。
「どうしてそんなに苗字にこだわるの? あたしは楓って名前なんだからそれでいいじゃない 」
「よくねぇよ。 俺は女子はみんな苗字で呼んでるんだから 」
「…… そんなこと? 」
楓はキョトンとしている。 え…… 俺なんか変な事言った?
「てっきり苗字であたしの居場所を探るのかと思っちゃった。 なんだそんなことか…… そっかぁ 」
楓はクスクスと笑い出した。 そんなことと言われてイラっとしたが我慢我慢。
「探ったって仕方ないだろ。 どうせお前はもう死んでるんだから 」
「死んでないわよ! ちょっと眠ってるだけ…… 」
はあ!? じゃあ幽霊じゃなくて幽体離脱とでもいうのかこの女は?
「そ、そんな顔しなくてもいいじゃない。 色々と訳アリなんだから 」
「冗談じゃねぇぞ! 生きてるって言うんだったらすぐに起きろ! ここに来て謝れ! 二ノ宮会長に自分で告れよ! 」
「それが出来るならこんな事しないわよ! なによあたしの事何もしらないくせに! 」
ダメだ、感情が抑えきれない!
「ああ知らねぇよ! なんにも話してくれないから当然だろうが! 力を貸せって言うから貸してやったまでは別にいい! なんだあの暴走っぷりは!? 佐伯や藍にまで迷惑かけて、おかげでこっちは散々なんだよ! 」
「テンパっちゃったんだからしょうがないじゃない! 見抜かれてたとはいえ、二ノ宮先輩とお近づきになったのよ? なれちゃったのよ!? その先を期待してなんで悪いの!? 」
大粒の涙が楓の頬を伝っていた。 泣くのは卑怯だろ……
「どうしたのおにいちゃん!? 」
怒鳴り声を聞いたのか、菜のはが勢いよくドアを開けて飛び込んできた。 しまった…… 幽霊とケンカしてたなんて言えない。
「ご…… ごめんねー菜のはちゃん! 燈馬と醤油かソースかで争ってたんだ! 」
突然掛布団を蹴り上げて藍が菜のはに抱き付いた。 そりゃこれだけ怒鳴れば藍だって起きてて当然か。
「え!? え? しょ…… ソース? 」
「ウチは醤油だからね! 覚えておいてよ燈馬! 」
藍は俺に舌を出し、菜のはの背中を押して部屋を出ていく。 突然の振りだったので呆気に取られてしまったけど、菜のはを閉め出す演技だと気付いて心の中で頭を下げた。
「なによ、幽霊が怖いって歳じゃないでしょ。 シスコンもいい加減にすれば? 」
その言葉に一気に頭に血が上る。
「うるせぇよ、殺すぞオマエ 」
ビクッと楓の表情が凍り付く。 怒鳴っちゃダメだ…… 藍が気を利かせて菜のはを護ってくれたんだから、それを俺が壊しちゃいけない。
「お前にも事情があるように、俺らにだって事情があるんだ。 菜のはに幽霊は禁句だ、覚えとけ 」
「…… 」
どうして? という顔と泣き顔が入り混じって複雑な表情になってる。 少し説明した方がいいか……
「ウチは母親が小さい頃に亡くなってるんだよ。 菜のははその現実を受け入れられなくて、幽霊だとしても母親に会いたい。 当時の記憶が残ってるから、幽霊の話を聞くとパニックを起こすんだよ 」
「え…… 」
「多少は大丈夫だろうけど、それでもしないに越したことはない。 俺がシスコンと言われるのは構わないけどな、菜のはを害する奴は許さねえよ 」
徐々に楓の表情が曇り、やがてシクシクと泣き始めた。
「ごめんなさい…… 」
根は悪い奴じゃないのは分かってるけど、居座られても困るのは確かだ。
「んで、お前はこれからどうするんだよ? 」
「ぐす…… ごめんなさい…… 」
少し脅しすぎたか……
「二ノ宮会長と話する場は作ってやるから 」
「…… ぐす…… ふぇーん 」
声を上げて泣き始めてしまった。 あぁ…… 話が進まない上に虐めてしまったような罪悪感にかられる。
「おにーちゃん! ちょっと! 」
階段下から菜のはの怒鳴り声が聞こえた。 藍の抑えもそろそろ限界か。
「とにかく、逃げないで一度会長と話をしてみろよ。 話した感じは、あの人は悪い方向には考えてないと思うから 」
俺は楓を横目に階段を駆け下りる。 真下では腰に手を当てて仁王立ちする菜のはが、眉を吊り上げて俺を待っていた。
「お兄ちゃん! 」
「はひー! 」
「お兄ちゃんだって醤油派でしょ! 」
は? なんのことか分からなかったけど、藍の捨て台詞を思い出して苦笑いする。
「どうして急に目玉焼きにはソースになるの? まぁケンカするほど仲がいいとは言うけど、怒鳴るなんて…… 」
階段を下りた先で正座をさせられて菜のはの説教が続く。 リビングの入口をチラッと見ると、藍がゴメンという顔で様子を見ていた。
「聞いてるの!? お兄ちゃん! 」
よそ見をしたのがバレました。 そこから更に30分説教が続き、最後には仲直りの証に藍とデートすることを約束させられて、菜のはの機嫌は直ったのだった。