33話 佐伯紫苑
どれだけ酷い顔をしていたのかは俺自身はわからない。 俺の傍まで駆け寄ってきた佐伯は少し息が上がっていて、心配そうな顔で俺を覗き込んだ。
「何かあった? この世の終わりみたいな顔してるけどどうしたの? 」
「い…… いつから…… 」
「え? 」
動かない喉から絞るように出した問いに、佐伯は不思議そうな顔で俺の腕を掴んだ。
「私を大声で呼ぶから…… え? 貝塚君じゃないの? 」
横から聞こえてきた押し殺す笑い声に、俺は可動部が錆びたロボットのように振り向く。 藍と吹石副会長が顔を押さえて失笑していた。
「え? え? 」
佐伯は二人と俺の顔を見比べて困惑している。 そりゃ訳分からないよな…… 俺だって訳が分からん!
「大丈夫だよ紫苑、ちょっと燈馬が暴走しただけだから 」
暴走!? お前らがハメたんだろうが! とは佐伯の前では言えない。
「暴走ってどういうこと? 」
「ウチだけ名前で呼ばれてるのもどうかなって思ってさ。 紫苑は名前で呼ばないのって聞いたら発狂したわけなのよ 」
発狂って…… 佐伯は俺を真正面から見つめてプウっと頬を膨らませた。
「発狂だなんてひどいよ貝塚君! 私の名前、そんなに変? 君もバカにするの!? 」
「ち、違う! そんなことは全然思ってない! 」
『じゃあなに?』と結構本気で怒っている様子の佐伯に、名前で呼びたいけど怒られそうだったからと苦し紛れの言い訳をする。 素直に紫苑と呼びたいと言えば良かったと後悔するのは後の話だ。
「中学校であだ名付けられて虐められてたの知ってるクセに! 」
佐伯の目には涙が滲んでいた。 なんだそれ…… 虐められていたなんて知らないぞ? 藍も吹石副会長も、佐伯の急すぎる感情の変化に唖然としている。
「な…… なんで紫苑って名前が虐められるんだよ? 」
「それをここで言う!? また私を一人にしたいの? また私だけ仲間外れにしたいの!? 」
「ちょっと紫苑、そうじゃないんだって! 」
「藍は黙ってて! 」
佐伯は藍に怒鳴りつけて俺を睨んでいた。 予想もしない佐伯の一面…… 感情のコントロールを失った彼女に今は何を言っても無駄らしく、彼女の中では既に俺は悪者になっているようだった。
「そうやって男子が余計な事をするから私の友達まで騒ぎ立てるの! いつもそう! 男なんて大っ嫌い! 」
そう吐き捨てて佐伯は門に走り出していった。
「待って紫苑! 」
藍が慌てて佐伯を追いかけ、門の前で佐伯を引き留めている。 ここで帰したら全てが終わってしまう…… そんな気がして、背中を向けて俯いている佐伯に力いっぱい叫んだ。
「ふざけんな! 俺はずっと紫苑って呼びたかったんだ! 誰が好きな女を名前で虐める奴がいるんだよ!? もしお前を虐める奴がいるんなら俺が絶対許さねぇ! 」
佐伯に俺の言葉が届いたかどうかは分からない。 無我夢中で何を口走ったのかも分からない。 背中を向けたままの佐伯はしばらくその場で俯いていたが、やがてこちらを見て頷いた藍と一緒に静かに門を出て行った。
「なんなんだよ…… 」
ただ見送る事しか出来ずに、俺は頭を掻きむしる。
「ごめんなさい、余計なことをしてしまったようね 」
吹石副会長は門を見つめたまま俺に謝ってきた。
「…… いえ、元はと言えば俺が言い訳なんかするからこうなったんです。 副会長が悪いんじゃありません 」
「少し落ち着きましょうか。 お茶を用意させるわ 」
くるりと背中を向けた副会長は、そのまま花壇の中を通って家の裏手に歩いていく。その様子を見ていた俺に『こっち』と手招きして、申し訳なさそうな柔らかい笑顔を見せていた。
案内してくれたのはL字に建つ吹石家の真ん中のウッドデッキがある中庭だった。 ウッドデッキは綺麗に整備され、白い丸テーブルと椅子が置かれていて、吹石副会長は椅子を引いて俺を招いてくれる。 申し合わせたようにメイドさんがすぐにティーセットを持って来て、俺達の目の前でコーヒーを挽いてくれた。
「紫苑ちゃん、中学校で虐められていた事実は知っていたの? 」
「いえ、全然知りませんでした。 なんで紫苑という名前で虐められるのかさっぱり分かりません 」
思い返せば、中学校時代の佐伯の周りには友達と呼べる人がいなかったような気がする。 印象も今とは違って、どちらかというとクールビューティなイメージだった。 周りを必要以上に寄せ付けず、静かに学校生活を送る佐伯に、いつの間にか目が離せなくなっていた。
「何か根が深そうな気もするけど、燈馬君の中学校時代の友達は何か知らないのかしら? 」
「佐伯について聞いたことはないです。 俺自身、あまり友達っていないですから 」
シスコンと言われ始めてから、俺に小中学校で友達と言える人はいない。 それこそよく虐められてもいたし、菜のはさえ守れればそんなことは気にしなかった。 むしろ菜のはが虐められてると聞いた時にはよくケンカしに行ってたっけ。
「名前で虐められた…… というのなら、おシヲさんとか塩昆布とかかしら。 小学生の男の子なら言いそうなものね 」
「それ、ひどくないですか? 副会長も虐めてたクチとか 」
「私にも身に覚えがあるからよ。 私はみどりだから、ミトコンドリアとか黄緑とか…… 覚えたての言葉でね。 ちょっと私の気を惹きたい男の子が言っただけのことだったのだけれど、そういうのって周りが面白がってエスカレートするのよ。 私の場合、家柄もあったから尚更だったのかもしれないわね 」
ひでぇ……
「君も蒼仁と同じ顔をするのね。 嬉しいわ 」
フフッと副会長は笑って俺の眉間を指先でなぞった。 意外な行動にピクッと反応してしまったkど、無意識に眉間にシワを寄せて一点を見つめていたらしい。
「人それぞれだと思うけど、呼び方というのは親密度の証だと私は思うの。 君が藍を呼び捨てにするように、紫苑ちゃんもそれを望んでいる…… とは思わない? 」
「それってどういう…… 」
副会長はコーヒーカップを一口あおってからため息をつく。
「鈍感君は嫌われるわよ? 中学校で虐められて、高校に入って同郷のあなたと友達になった。 藍だけが名前で呼ばれ始めたのに、自分にはそれが未だないのは何故? って紫苑ちゃんは考えていたのかもね 」
「あ…… 」
「そりゃそこで勘ぐらない女はいないわ。 それでなくても君と藍は仲がいいんだもの、特別扱いしてるって勘違いするわよ。 そこで君が紫苑ちゃんの名前を発狂したって聞いたらどう思う? 」
そうか、中学校でのことがあるから余計に気にしていたのかもしれない! 俺はすぐに席を立って副会長に頭を下げた。
「ありがとうございます! 俺、行ってきます! 」
「うん、頑張ってね。 そうそう、ついでに…… 」
背中にかかる副会長の声に踏みとどまって振り返る。
「わたしもみどりちゃんでいいわよ? 」
「無理です! 二ノ宮会長に殺されます! 」
クスクスと笑う副会長にきっぱり断って、俺は勢い良く吹石家の門をくぐった。 左右を振り返っても佐伯と藍の姿は見当たらない。 藍のことだから佐伯に付き添っているだろうと判断して藍にメールを打つ。 と、俺のスマホには既に藍からの位置情報が送られてきていた。 まったく、おせっかいにも程がある…… これだけお膳立てしてもらわないと動けない自分の情けなさに腹が立ってきた。
「くっそぉー!! 」
藍が送ってくれた位置情報が示すのはすぐ近くの公園。 佐伯に…… いや、紫苑に何を言うべきかなんてとうに決まっている。 すれ違う通行人の目など気にせず、もつれそうになる足を懸命に動かして俺は公園へと走った。




