思いもしない
七瀬君と付き合うお試し期間もついに最終日を迎えた。
私の予想に反して七瀬君は今日まで頑張ってきていた。この調子なら今日も無事乗り越えられると思う。そうしたら晴れて正式に付き合うことになるけど、そうなったら一体彼はどれほど喜ぶのだろうか。
私は屈託なく笑い喜ぶ七瀬君を想像して、思わず頬が緩んだ。まったくしょうがない、特別な私を好きになるのはわかるけど、あそこまで従順だと素直に褒めたくなってしまう。
鏡を見て自分のにやけた表情を正す。
まだお試し期間は終わっていないのだ。私がこんな調子では七瀬君まで浮かれて何かやらかしてしまうかもしれない。
しっかりと自分の表情を確認して、私は家を出た。いつもより自分の足が軽く感じた。
「おはよう!七瀬君!」
「織江さん、おはよう。」
「ふふ、いつも迎えありがとうね。」
「いいんだよ。僕が一緒に登校したいだけだから。」
学校の最寄駅で降りると改札前で七瀬君が出迎えてくれる。まだ遠くでも私を見つけると笑顔で手を振ってくる七瀬君を見ると、家を出る前に気をつけたはずの表情が、また緩んでいくのを感じた。
ここ何日か私は少しおかしい。七瀬君が嬉しそうにしているのをみると、何故か私も嬉しいようなそんな感情になることがある。初めの頃は七瀬君が嬉しそうにしていても何も感じなかったのに、どうしてなのか戸惑った。
まぁきっと、こんなに従順な、まるでペットのような存在がいるこの状況が面白いだけだろう。
まるでペットと言ったけど、本当にそうなのだ。私を見ると駆け寄って来る。私の後に嬉しそうに付いてくる。七瀬君の見た目も合わさり子犬のようで可愛らしいのだ。
…いや、可愛らしいはちょっと言い過ぎたか。
そんなこんなで私は上機嫌だった。だから、今から提案するこれもただの気まぐれ、
「そうだ、今日の放課後、どこか寄ってかない?私甘い物でも食べに行きたいな。」
「いいね。放課後一緒に行こう。」
七瀬君が私の誘いを断るはずがない。なんていったって彼は私の事が好きなのだから。もちろん二つ返事で嬉しそうに了承する七瀬君。断るなんて万が一にもない、と言わんばかりの満面の笑顔だ。きっと私からの誘いで喜びに震えているだろう。
七瀬君は甘いものは好きだろうか、私が好きなのだから、きっと七瀬君も好きなはずだ。だって、七瀬君は私のことが好きだから、何でも合わせてくれる。今日でお試し期間も終わるわけだし、お祝いと言ったら、やっぱりケーキだろうか。だったら、あのカフェ。いや、あのお店の方が七瀬君は入りやすいかも…
私は放課後に二人で行くお店を考えながら、楽しい放課後に思いを馳せる。うん、きっとあのお店なら七瀬君も気に入るだろう。まぁ私のおすすめのお店を七瀬君が気に入らないわけがないんだけどね。
すっかり私の日課になった七瀬君との登校は一人の時よりも、なんだか景色が綺麗に見えて時間も早く感じられた。
学校に着いてからも七瀬君は、私のためにそつなく行動していく。
授業に積極的に参加し、模範のような態度で授業を受ける。それでこそ私に相応しい。休み時間もすぐに私のところに来て一緒に時間を過ごしてくれる。ここ最近、私は七瀬君と一緒にいる時は他の人達を遠ざけるようにしていた。別に私が二人きりでいたいわけじゃない、あくまでも七瀬君の気持ちを尊重しているだけだ。私の気遣いをわかってか、七瀬君も私だけを見てその他大勢のことはまったく意識していないようだ。そんなに私が好きなのかと少し笑ってしまう。
何もかもが順調で、私はとてもいい気分だった。
昼休みに七瀬君からのメッセージを受け取るまでは…
「ごめんなさい。いつもの席取れなかったです。減点になると思うけど、小さめのテーブル席なら一応取れました。よければ待っています。」
始め私はメッセージの意味がよく分からなかった。何度も何度も読み返し、ようやく内容が頭に入ってくる。
席が取れなかった。減点…
私は自分が冷静なのか、慌てているのか、それすらもわからない。ただただそわそわして、考えをまとめるために、取り敢えず人目につかないところに行きたかった。
やみくもに歩いて気がつくと校舎裏にいた。もう一度七瀬君から来ていたメッセージを見る。何度見ても書いてあることは変わらない。
なんで、今までできていたのに、なんで今日に限って⁉︎
今日だっていつものように早く教室を出て行ったのに、どうしてできなかったの⁉︎一度減点したことだ。できなければまた減点しないとおかしい。これじゃあ正式に付き合えないのに、なんで⁉︎
七瀬君はちゃんとわかっているのだろうか、私のことを好きなんじゃないのか、なんで最後まで必死にやらないのか。
だんだんとイライラしてきて私は、近くにあったゴミ箱を蹴飛ばした。派手な音を立ててゴミが散乱する。
私の気分は治らない。積み重ねてあった掃除用具も蹴飛ばす。
散らばった箒を取り壁に叩きつける。何度も、何度も…
「ハァ、ハァ…」
気がつくと、手に持った箒はとっくに折れていた。周りの惨状も酷いものだった。
荒れている息を深呼吸して落ち着ける。呼吸を整えながら、私はどうすればいいか考えをまとめる。
今回の件は減点にする。しないとおかしいから、だけど七瀬君には頑張りを認めてチャンスをあげるというのはどうだろう。また明日、最終日だけをやり直させてあげるのだ。しっかりとできたらお試しは合格。晴れて私と付き合えるというわけだ。
うん、七瀬君も泣いて喜ぶに違いない。それで行こう!
考えがまとまった私は先ほどまでのイライラを忘れて晴れやかな気分で歩き出す。そうだ、七瀬君には放課後に伝えよう。七瀬君もどうなるのか、きっと今はハラハラしているだろう。放課後まで待たされて、チャンスをもらえるとわかったら、嬉しさ倍増のはずだ。
我ながらいい考えだ。私はウキウキしながら荒れた惨状をそのままにして校舎裏をあとにした。
放課後になるまで、私は何かと用事があるふりをして七瀬君を避け続けた。その度に落ち込んだような表情をする七瀬君。私はそんな彼の表情を見るたびにゾクゾクっと身体が震えた。すぐにでも、大丈夫。チャンスをあげるよ。と言って安心させてあげたい気持ちと、このまま今の表情を見ていたい気持ちがぶつかり合う。
放課後だ。そこまで焦らされて疲れ切ったあとにチャンスをもらえると知ったときの七瀬君はきっと、最高の笑顔を見せてくれるはず、それを想像するだけで、私はニヤついてしまう自分の表情を抑えるのに必死だった。
放課後
これまで避けられても律儀に私のところに来る七瀬君。
私は「…ちょっとついてきて。」とだけなるべく素っ気なく伝えて席を立つ。向かう先は屋上だ。十日前に七瀬君が私を呼び出した場所に今度は私が七瀬君を連れて行く、やり直すチャンスを与えるために。
屋上に二人きり、振り返って見ると七瀬君は息苦しそうな様子で胸を押さえていた。その姿を見ているだけで、庇護欲をそそられる。大丈夫、あと少し、あと少ししたら安心させてあげるからね。
「七瀬君、なんでここに着いてきてもらったか、わかる?」
「…予想はついてます。昼休みの件だよね。」
「そう、昼休みのこと。ちゃんとわかってたんだね。」
「前に学食の席を取れなくて減点したよね。今日も七瀬君はそれができなかった。前と同じことなのに減点しないのはおかしいから、今日も1点減点ね。これで…」
「僕の持ち点は、」
「そう、これで持ち点はなくなったの。お試し期間を乗り切れなかったね。残念だけど、これでお終い…」
そこまで聞くと七瀬君は胸を押さえたまま俯いてしまう。表情は見えないけど、最高に悲しい表情をしているに違いない。私はここしかないというタイミングで話を切り出す。
「だけどそんな七瀬君にチャンス…」
「……あ、」
いきなりのことに思考が止まってしまう。
何? 何だ?
私の言葉を最後まで聞くことなく七瀬君は踵を返して走り出していた。
「ちょっと⁉︎ 七瀬君!話を‼︎」
呼び止めようとするも、もう七瀬君は校舎に入り階段を下って行こうとしていた。追いかけようと私も走り出すと、中から大きな音と悲鳴が聞こえてくる。
嫌な予感がして私も急いで校舎に入る。
階段の下に倒れている七瀬君が見えた。
そんな、
どうして、七瀬君は無事なのか、怪我は、
様々なことを考えてしまい思考がまとまらない。七瀬君のところに駆けつけようとするが、足が震えて動かない。急がないと行けないのに、私はまったく動くことができなかった。
自分でも驚くほどに私は動揺していた。その間にも人だかりは大きくなってくるが、誰もが物珍しそうに眺めるだけで、介抱したり救急車を呼ぼうとしない。私はそれに段々と怒りが込み上げてきた。
無能どもが、私の七瀬君になにかあったらどうする気なのか、早く救急車を呼ぶんだよ‼︎
怒りでようやく思考と身体を動かせるようになった時、偶然通りかかったのだろう。涼が七瀬君に駆け寄って救急車を呼んでいた。下手に触らず電話の指示に従っている涼。そのうちに先生たちもやってきて、騒ぎを収束させようとしていた。
結局、私は七瀬君が救急車で運ばれていくまで、眺めていることしか出来なかった。