契約
牢にに入れられ、暫く経った。
私が入れられた独房は酷い有様だった。通路から微かに届く明かり、苔むした石壁、水たまりの出来た地べた、そして全体から漂う悪臭、まるで下水道だった。手足に石枷をつけられ投げ入れられた私は受け身も取れずにびしょ濡れになった。この水たまりがなんなのかは考えたくない。
ここまで酷い有様は生まれて初めてだと実感できる。痛い、臭い、冷たい、気持ち悪い。投げ入れられた時に口の中に水が入って、反射的に吐き出そうとするが猿轡越しに染み入ったので咳き込んでも咳き込んでも醜悪な味が口から離れない。こんな時に限って、朝何も食べてないことを思い出す。五感全てが、不快な感覚に襲われてる。救いは薄暗いことで、あまり辺りを見えずに済んでいること。階段を登って運ばれた記憶がないのでここも多分地下だ。
だがそんな事は何の気休めにもならない。手足が自由に動かせないから歩くことが出来ない。たとえ外せても鉄格子が私の行く手を阻む。よしんばそれが空いてたとしても、出て左、明かりがきている方に気配を感じる兵士から逃げられない。第一そもそもどこへ行けば出られるかも分からない。八方塞がり、打つ手無し、助けもない、そして明日には殺される。見張りの兵士が交代する物音が、時間の経過を告げてくる。何もかもが如何しようも無く、私が出来ることと言えば泣きわめくこととか、絶望してただ惚けるぐらいだろう。だけど、私がそのどちらも行わなかったのは、私に向かって近づいてきている存在を感じたからだ。
兵士ではない。見張りの気配とは違うし、その存在を捕らえているのは私の霊感、と言うべき感覚。つまり私に向かって来ている存在の正体は幽霊。何故霊が私に近づいて来ているのか、そもそも何でこんな場所にいるかは分からない。確かなのは、それが私に残されてるたった一つの希望だと言うこと。子供の歩きより遅い、幽霊の移動にしては早い速度で、それは私の独房の前に現れた。
その霊は男性だった。無精髭を生やし、長髪は荒れ果て、草臥れた衣服を纏った金髪碧眼の男。身長はクラスの男子より高く見える。生前は整っていたと思われる美形が、唇は荒れ、頬は痩せこけ、目の下にクマが出来る有様だ。彼は恐らく餓死したのであろう。その想像を絶する死に方をしたと思われる姿。しかしそれは逆にその魂が健康であることの証明であった。死者の魂は脆い。死んだ直後の魂は死後の姿をするが、時間がたつほど見た目がぼやけ、あやふやになり、特徴を無くして行く。そのうち人魂に姿を変え、放っておけばどんどん小さくなりやがて消える。つまり私は彼が死後二、三日も経っていない新鮮な魂だと推測する。
『女の子か…可哀想に…』
死者の魂は本来生きた人には見えず、その声も聞こえない。だから彼はただ何となく呟いたのであろう。だけど私は見えるし、聞こえる。だから本来合うはずのない目が合い、幽霊は不思議そうに喋った。
『私が見えるのか、いや、そんなはずはない…』
『いいえ、ちゃんと見えますし聞こえますよ』
私が言葉を返すと幽霊は驚いた顔で私を見る。猿轡をされた私でも、相手が霊であるならば意思の疎通は可能だ。霊が肉体も持たずに話すのであれば、私も魂で話せばいい。死者との対話は、死霊術の初歩だ。
『君はどうして、わたしのことがわかるのかい?』
自身が兵士とは意思疎通が出来ない事は分かっている様子、死者である実感もあるようだ。そんな彼に私は
『それは私が死霊術師だからです』と答える。
本来人に隠したい私の正体は、死者に対しては語らなければ話にならない前提条件だ。幽霊は衝撃を受けつつも、どこか納得した表情をしている。彼から『…なるほど』と言葉が漏れる。私が牢に入れられた理由も理解したようだ。
『ですが私はそれ以前に、この世界とは別の世界のの人間です』
私が放った言葉に幽霊は再び驚く。そのまま私は、自らの身に起こった事を話す。
私の世界では、学生であった事、クラスメイトと一緒に、この世界に連れ去られた事、勇者として魔王を倒して欲しいと頼まれた事、鑑定石で死霊術師であることがバレたこと、数人に助けられながらも捕まり、ここに入れられた、一通りの流れを話した。
『なるほど、災難だったな』
意外なことに、彼は理解を示した。おそらくこの世界の敵といってもいい私に同情をするとは、生前はかなり人情深い人だったのであろう。もっと私に嫌悪を感じると思ったが、これならば話は早い。
『何か、望みはありますか?』
予想外の私の問いかけに、幽霊は言葉が詰まった。しかしそのまま私は喋り続ける。
『貴方が私の契約に応じ、僕になるのであれば、私はこの牢獄から抜け出せます。そして、貴方の生前の願い、未練を晴らすことができます』
確かな意思を持って語りかける。この契約こそ、私がここから脱出出来る唯一の方法。私は独りでは無力であるが、従える死者がいれば話は別だ。戸惑う幽霊に、もう一度尋ねる。
『彷徨える者よ、貴方の望みは何ですか?』
少しの静寂の後、彼は答えた。
『…故郷に、帰りたい。父と母はもういない、だが妹がいる。いつか必ず、英雄として名を馳せて帰ると誓った。もはや叶わぬ誓いだが、彼女はまだ私を待っているに違いない。せめて、せめて一言、妹に謝るまでは、死んでも死に切れない!』
激情が溢れる。死者の強い思いこそ、何よりも強い私の武器になる。
『我が名は東雲聖子、御霊よ、その思いを晴らしたくば、汝の名によって我が契約に答えよ!』
彼が答える
『我が名はモーリス、これより我が主の僕、我が主の剣となる!』
私とモーリスが仄かに輝き、彼との魔力の繋がりが生まれる。私の魔力を受け、彼の姿が無残な餓死者から麗しき騎士へと変わる。
契約は成った。これで私は、この世界で戦うすべを得た。