ろくでなし青春回想
甲高いアラームの音で夢から覚め、徹夜明けの身体がゴリゴリと軋む音がした。
舌の奥には、寝落ち前のひと踏ん張りで飲み干した缶コーヒーの苦みがまだ残っていて、大変に不快な朝であった。
手探りでアラームを止めつつ、のしのしと寝ぼけ眼で洗面所へ向かい、口をすすいだ。
ふと、鏡を見ると、昨日より五年は老け込んだように見える私の顔がうつろな目で見つめ返した。深く刻まれた目の下の隈と、伸び切った無精ひげは、どこか父の面影を感じさせる出で立ちで、私は少し傷ついた。
今年で三十になる。私も老いるわけだ。
そんな感傷を振り払うために、日光を浴びて生気を養おうとベランダへ出てみると、生憎の曇天であった。
空は灰色に染まり、遠くの工業地帯から立ち上る煙を一様に吸い込んでいるように見える。
全くついていない。私は大きなため息をついた。
理不尽に積み重なる仕事を必死にやっつけ、ようやくありつけた仮眠から叩き起こされた私に、お天道様は日の光一つ与えてはくれないのだ。
私は憂鬱な気持ちで、ベランダの柵に寄り掛かり、眼下に流れる小川を眺めた。
西の山から流れ来るその川もまた、空の色を反射させ、灰色の蛇のようにうねうねとその身をくねらせている。
仄暗く揺れる川面に、大小の黒い影がいくつか見えて、あれは鯉の親子だろうかと、夢見心地で考えたりした。その、川沿いに伸びるアスファルトの土手には、河津桜が咲き誇り、この時期にはちょっとした観光スポットとして賑わいを見せている。
昼になれば老人の散歩道、夜になれば若者の酒場。そうして、朝のこの時間は、地元の高校生の通学路として、その姿を変えてゆくのだ。
私は、何となく桜の土手を歩く学生服の集団を眺めていた。
毎日の通学でもう見飽きたのか、見事な桜の花には目もくれず、皆急ぎ足で学校へと歩を進めている。
しばらく眺めていると、一人の女子生徒が勢いよく桜の中を駆け走り、一人の坊主頭の男子生徒の背中にカバンをぶつけたのが見えた。男子生徒は前方によろめいた。
それから、二人はその場で、二言三言何かしらの言葉を交わした後、横に並んでまた歩き始めた。
あれが彼らなりの挨拶なのだろう。私は体の奥がむず痒くなるのを感じた。羨ましかったのだ。
私には、高校時代の思い出という物が何一つ残っていない。それだけ無駄な青春を過ごしたという事だろう。その時代のことについて思い出そうとしても、まるで靄がかかったように、そこの記憶だけが抜け落ちているようだ。
ただ、一つの記憶を除いては。
空はいよいよ雨模様に変わり、パラパラと細かい雨が降り始めた。
小雨と、桜の花びらが舞い降る土手を、学生たちはいそいそと歩き続ける。それは、とても遠い景色のように思われた。
それに似た景色を、私の遠い記憶の中に見出したからだ。
あれは、高校の卒業式の日であった。
※
私たちの通っていた高校は、丘の上にひっそりと佇む平凡で目立たない高校だった。
特別に偏差値が低いわけでも、高いわけでも無く、どこかの部活動が目立った活躍をしているわけでも無く、卒業生や在校生の中に有名人が居るわけでも無い。特別なことは何一つなかった。
それでも、一般的な高校としての教養を学ぶことはできるし、学生も先生も皆真面目な者ばかりで、不自由さを感じることは何も無い。しいて言うなら、登校時に校門前のやけに長い坂を登らなければいけなかったが、それを辛いと感じるのは、入学してからせいぜい一ヶ月くらいなもので、習慣化してしまえば何も問題は無かった。つまりは、究極的に普通の高校だったのだ。
だから、私自身もそんな高校に特別な思い入れは何もなく、卒業式の当日だって、いつものように登校し下校するだけだと思っていた。それが人生で最後の行為なのだと考えても、感慨深く思うような事は無かったのだ。
しかし、実際に卒業式の会場に行ってみると、校舎は想像していたよりもはるかに卒業式らしい出で立ちになっていて、まるで意図的に「今日卒業するのだ」という事実を実感せざるを得なくしているようだった。
殺風景な見慣れた体育館の壁には紅白の垂れ幕が隙間なく掛けられていて、ステージの上部には国旗と校章と県旗が掲げられ、その上には「第三十五回卒業証書授与式」と書かれた横看板が吊るされていた。
同級生たちは皆、胸元に造花のコサージュを付けていて、普段ジャージしか着ていない保健体育の教師は、微妙にサイズの合っていない黒のスーツを身にまとって、居心地が悪そうな顔をしていた。
目に映る何もかもが、「卒業」を実感させ、その所為で同級生の何人かは入場した時点で涙を流していたが、そんなものも見慣れてしまえば、普通の高校の普通の卒業式の、平凡な一コマに過ぎない景色となって、私は退屈に思った。
卒業式が進むに連れて、鼻をすする音や、ポケットティッシュやらハンカチを取り出す音が徐々に多くなってきて、気が付けば私の周りの人間は皆、目に涙を浮かべてステージの上の一部始終をただ黙って見つめていた。
皆は今、何を考えているのだろう。この三年間の、体育祭とか文化祭とか、修学旅行の思い出とか、部活動の大会のこととか、そんなことを一つ一つ思い出しては、目に涙を浮かべて寂しさに浸っているのだろうか。
そう考えると、私一人が死んだ魚のような目をして、ただ茫然とステージを眺めているだけなのがとても悲しい事のように思えてきて、この時にも私は、この三年間の思い出を引き出そうと試みたのだが、何も思い出すことは無かったのだ。
思い浮かぶのは、教室の窓際の一番隅の席に座って一人で本を読んでいる自分の姿だけだった。
体育祭にも、文化祭にも、修学旅行にも私の姿は無く、ただそれに参加したという事実が存在するだけで、この三年間に過ごした時間はそこだけがぽっかりと空白になっているようだ。
「校歌斉唱。卒業生、起立」
司会進行の教頭の声は、相も変わらず事務的なままで、私はそれに少し安心した。
同級生がゆっくりと立ち上がるのに合わせて、私もその場から立ち上がる。
ピアノの前奏が流れ、皆が歌い始めると、その歌声はどれも涙で震えていた。
私はとても居たたまれなくなった。
まるで私だけが、皆と違う三年間を過ごしていたような、そんな違和感を覚えた。
何もない、平凡な高校の普通の学生で居たはずだったのに、そこから抜け出そうとしている今、私だけが皆と違ったのだ。
卒業式が終わると、しとしとと雨が降りだした。
そういえば、朝の天気予報で雨が降るというようなことを言っていた気がしたが、あいにく私は傘を持っていなかった。
雨が止むまで教室で待機していようかとも思ったが、その日ばかりは教室内は賑やかだった。
卒業アルバムの余白にメッセージを書き合ったり、黒板に落書きをしたり、担任教師と記念写真を撮るために小さな行列を作ったりと、そんな卒業式後の教室の雰囲気をごく自然にクラスメイト達は創り出していた。
そんな空間に私は馴染める気がしなかったので、仕方なくそのまま坂の下のバス停まで歩いて行くことにした。
厚い雲が、太陽を遮り、空は薄暗かった。幸いにも、雨はそこまで強く降っておらず、髪がしっとりと濡れるくらいの小雨だったので、傘が無くても不快感を覚える事は無かった。むしろ、満開の桜が咲く校門前の坂道を、小雨に撫でられながら歩くのは気持ちが良かった。
校門前の坂には私以外誰もいなくて、しとしとと雨が地面を叩く音と、自分の使い古した革靴の鳴らす足音以外はほとんど何も聞こえなかった。
まるで、世界が私一人を置いてどこかに行ってしまったような感じがした。
卒業式が終了して五分もたたずに帰路につくのは、私くらいなものだろう。そんなことを考えながらしばらく歩いていると、カーブを曲がった数メートル先の坂道を、同じ高校の女子生徒が一人で歩いているのが見えた。
私よりも先に帰路についた生徒がいたとは考えもしなかったので少し驚いたが、もしかしたら卒業式の手伝いをしていた在校生なのかもしれないと考えて、それ以上は何も気にすることなくそのまま彼女の数メートル後ろを歩いていた。
私たちはそんな微妙な距離を保ちながら、互いに黙って桜の花びらが小雨に打たれて舞い散る中を傘もささずにひたすら歩き続けたのだ。
しばらくして、坂の中腹位まで来た頃、彼女は不意にぴたりと立ち止まってから、突然、クルンとバレエのターンのように振り返り、彼女の凛とした目が後ろを歩く私の目をまっすぐに捉えた。
ターンの余韻でふわりと舞った彼女の黒い髪は、やがて彼女の肩の上に吸い寄せられるようにして落ち着き、その可憐な一連の動きに、私は一瞬、息をのんだ。
彼女の胸元には私と同じ造花のコサージュが刺さっていた。
彼女は振り返ったまま私の瞳をじっと見つめていたので、私も仕方なく彼女の数歩後ろで立ち止まり、しばらく私たちは霧雨の中、そのまま見つめ合っていた。
「どうして、ついてくるんですか?」
突然、彼女はいささか不機嫌そうな声で私にそう言い放った。
「つけているわけじゃないよ。行き先が同じなだけだ。そこのバス停まで行くんだろう?」
私は少し呆れて、誤解を解くために顎先でバス停の方を指しながらそう返した。
彼女はこくりと頷いた。
「なんなら、先を歩こうか?」
私がそう言うと彼女は、まあいいですけどと言いながら、また前を向いて歩きだした。
少し変わった子だなと思った。同じ高校の同級生にこんな子がいるなんて今日まで知らなかったのだ。
多分向こうだって、私のことを知らないだろう。
私はまた、例によって彼女の後ろを、今度はゆっくりと距離を開けながら歩いた。
どうせ下のバス停でかち合うのだから、執拗に距離を開ける必要は全く無いのだけれど、そうしたほうが良い気がしたのだ。
またしばらく歩いて、私が坂を下り終わった頃には、彼女は坂の脇にある屋根付きのバス停のベンチに腰を掛けていた。
彼女は、小雨に濡れた肩までの黒い髪を、ポケットに入れていた水色のハンカチで丁寧にはたいてから、自分の腕時計とバス時刻表を交互に見比べて、小さくため息をついた。
「後20分は来ないみたいね」
彼女がため息交じりに吐き出したその言葉は、独り言なのか、それとも私に言った言葉なのかよくわからなかったので、「そうか」とあいまいな返事をしてから、私もバス停の中に入り、彼女の一つとなりのベンチに腰掛けた。
我々は、そのまま一言も発することなく、ただ小雨と桜の花びらが舞う外の景色を眺めていた。
雨は先ほどよりも弱くなっており、遠くの空からは太陽の光が微かに漏れ出していた。
その光が、弱々しく降り続ける雨の、一粒一粒をキラキラと照らしていて、何となく幻想的な光景をバス停の外に映し出していた。
私たちは相変わらず黙ったままだったが、それでも不思議と気まずさを感じることは無かった。
「ねえ、高校生活って、楽しかった?」
しばらくして、彼女はふと思い立ったようにそうつぶやいた。
今度のそれは間違いなく、私に向けた言葉だった。
「特別楽しいという事は無かったかな。だからと言ってつまらなかった訳でもない。今日の卒業式は少し退屈だったけどさ」
私は正直にそう答えた。彼女はそれを聞くと、バス停の外を見ながら「ふうん」と興味なさそうな返事をした。
「君はどうだったの?」
「私も、同じような感じ」
遠くの方でバスがやってくるのが見えてくると、彼女はベンチから立ち上がったので、私もそれに続いて立ち上がり、バスの到着を待った。
バスの中は閑散としていた。
ソファ型の優先席におばあさんが二人で並んで座って、静かに何かを話し合っていたけれど、それ以外の乗客は私たちの他にはいなかった。
私は二人掛け用の椅子を選んで、どっさりとそこに座り込み、鞄を自分の横に置いた。
彼女は私の一つ後ろの席を選んで、私と同じようにその席を独占した。
運転手が、私たちがしっかりと席に座ったことを確認するとバスは低いエンジン音を立てながら重い腰を上げるように、ゆっくりと動き始めた。私はふいに眠たくなって口の中で小さくあくびをした。
私たちが先ほど下ってきた坂を、バスが通り過ぎる時、坂の上を何人かの生徒が歩いているのが見えた。まだ雨は少し降っているらしく、何人かは小さな傘を差していて、また何人かは傘を差さずに自転車を押しながら歩いていた。皆楽しそうな顔をして、何かを話しながらゆっくりと坂を下っているようだ。
そんな光景を眺めていると、やはり私は、普通のちゃんとした高校生ではなかったのではないかと思い始めた。
私も、本当はあの景色の中の一部として今日を迎えるべきだったのではないか。それが普通の高校生の姿なんじゃないか。そんな事を考えていると、少し寂しくなった。
後ろに座っている彼女もその光景を眺めて、似たような事を考えていたのか、また小さな声でぽそぽそと話し始めた。
「私ね、高校時代は人生で一番楽しい時期だって色んな大人達に言われていたから、きっとそういうものなんだろうなって思って、この高校に入学したの。でもね、さっぱり分からなかった」
彼女のその淡々とした声には、どこか哀愁が漂っていた。私は何か言葉を返そうとしたが、うまく言葉にできなかったので、そのまま黙っていた。
「あなたも、あまりこの学校に馴染めなかったみたいだね」
彼女は、今度は同情するような口ぶりでそう言った。
どうしてそう思う? と私は平気な風を装って聞き返した。
「いや、何となく。だって、卒業式の日に一人で帰るのなんて、私とあなたくらいなものでしょ」
彼女はどこか自嘲気味にそう答えた。私は少し考えてからゆっくりと言葉を吐きだした。
「正直なところ、今思えばそういう風に振り返ることはできるけれど、実は今日まで、自分がこの学校に馴染めていなかったことにすら気付いていなかったんだ」
「へえ?」
彼女は拍子抜けしたようで、間の抜けた声を出した。
「それが普通だと思っていたんだよ。実際に何も不自由を感じなかったし、クラスメイトだって自分に対して好奇な目を向けることは無かった」
「それはただ、みんながあなたを腫物扱いしていたからじゃないの?」
「そうかもね。」
彼女の容赦ない解釈に、私は笑いながら同意した。案外、そうだったのかもしれないと納得もしたからだ。
「あなたって、少し変わってるね。人と馴染もうとは思わないの?」
「意図的にそうしているわけじゃないよ。積極的に馴染もうと思わないだけで、こうして今、君と話しているように人と関わることを拒んでいる訳じゃない」
君もそうだろう。と私が言うと、彼女は小さく首を横に振った。
「私は、馴染もうとしても馴染めなかったの。どうしてなのか解らないけど、この三年間はまるで違う国に来ているみたいだった。それくらいみんなが異質に見えたし、私自身もみんなからしたら異質だったのかもしれない」
後ろの席の、彼女のその寂しそうな声は横の窓に反響して、後ろから私の耳もとで囁いているように聞こえた。
「でも、こうして話せているじゃないか」
私は、そう言葉を返して、何だか無性に寂しくなった。
「うん。だから不思議」
彼女は、力ない声音でそう呟いた。
そうして二言三言、私たちは言葉を交わして、また黙り込んだ。
バスは相変わらず、小さな声で話し続けるおばあさん二人と、私たちを乗せたまま静かに走り続けていた。
そんな静かな中にいると、このバスは、紅白の垂れ幕とか、涙交じりの校歌とか、坂の上の楽しそうな生徒たちとか、そういう外の物から一切隔離されて、どこか遠くの、誰も知らないところへ私たちを運んでいるように思えた。決して、嫌な気持ちはしなかった。
私はもう一度、小さくあくびをして、外の景色を眺めた。
雨はもう止んでいて、西の空には小さな虹が掛かっていた。
私はその時、孤独を知った。
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