闘技場の少女
闘技場の中央に、ローブを着た少女と、甲冑を全身に余すところなく身に纏った大男が対峙している。エイナスは観客席で名も知らぬ少女の勝利を心から願った。
魔法使いーー処女のみが扱う事ができる魔法力を戦争の道具とする為に生み出された存在。彼女達は紛れもなく戦争の被害者だった。100年以上続いた戦争が停戦条約によって終結し、対立していたイスタニアとガーランド両国は利用価値の薄らいだ彼女達を元中立地帯の街オラクリアの闘技場に集めた。オラクリアに建設された闘技場は、互いの国に戦後も根強く残る怨恨から国民の目をそらさせる目的で作られた娯楽施設だった。その闘技場の目玉賞品、兼闘技者が彼女達、集められた魔法使いだった。
彼女達を倒す事ができれば、多額の賞金が得られ、生かして勝利できたならば少女の所有権すら与えられるーーと国中に喧伝された。
この賞金と賞品に、戦争が終結し仕事が無くなった傭兵や兵士達はこぞって飛び付き、魔法使いと戦う権利を得る為に互いの血を闘技場の地面に染み込ませた。そして上位となった闘技者は魔法使いの少女達に勝負を挑んだ。
だが、結果は圧倒的だった。
戦争の道具として育った彼女達の攻撃魔法は凄まじく、防御魔法のシールドは戦斧の一撃すら通さない。そして彼女達に人を殺すためらいは一切無かった。相手の闘技者は容赦なく肉塊に変えられ、観客達も一方的な殺戮を次第に飽き始めた。
そんな状況の転換点となったのが今エイナスの目の前にいる大男の登場だったという。この大男グスタフは一体どうやったのか既に三人の魔法使いの少女を倒しているらしい。
グスタフの後ろの出入口から二人の少女が現れた。左の少女は大剣、右の少女は大盾を重そうに担いでいる。そして驚く事に二人は一糸まとわぬ裸だった。
二人はグスタフに剣と盾を渡すと出入口に戻っていく。
エイナスは隣の観客に尋ねた。
「なぜあの子達は裸なんだ?」
「あの二人は、グスタフに負けた元魔法使いさ。グスタフは二人で客を取っているらしいから、その宣伝なんじゃないか?」
「客?娼婦として働かせているのか?」
「魔法使いでは無くなった少女なんてその位の使い道しかないだろう。結構高いらしいが、貴族達は魔法使いを抱いてみたいという好奇心からグスタフの顧客になっているらしいな。」
「・・・。」
「まあ今日の試合は魔法使いが勝つにせよ、グスタフが勝つにせよ、ただでは終わらんね。楽しみだよ。」
そう言うと隣の観客は闘技場に向き直った。
グスタフは巨大な大剣を鞘から抜き放った。その大剣はエイナスが見たことも聞いた事もない奇妙な形をしていた。
大剣の先端から中央部分まで赤ん坊の頭が入りそうな幅の大きな割れ目があり、剣先はまるでフォークのようだった。全長は2mほどもあるその奇妙な両刃の大剣をグスタフは軽々と片手で構えた。さらに左手には巨大な体躯を覆い隠すほどの盾を持っている。
常人では考えられぬほどの膂力がなければこの装備は実現できない。
魔法使いの少女は目の前の脅威をただ冷たい目で眺めていた。そして杖を静かに握り締めると誰にも悟られぬよう何かを唱えた。
ーー試合開始ーー
グスタフは盾を前方に構えつつ、全力で少女めがけて突進した。
少女は試合開始前に最終節直前でストップしておいた詠唱の残りを素早く唱えて、極大の火球を生み出す。ディレイキャストを利用した最速最大級魔法がグスタフに正面から当たった瞬間、激しい光と熱、遅れて爆発音が闘技場を覆った。粉塵と爆煙が巻き上がり、火球が直撃したと思われるグスタフの姿は見えない。エイナスは『勝負あり』と思ったが、そう思っているのはこの闘技場にエイナスただ一人だった。
収まりつつある煙の中から巨体が躍り出た。グスタフは巨大な盾で火球を受け止め、全身鎧で爆発を凌いだのだ。だがエイナスとは違い、少女は油断などしていなかった。火球を放った後、休む事なく続けていたアイススピアの詠唱を終え、一本3mにも及ぶ長大な氷の槍をグスタフに向けて連続発射する。グスタフの強固な大盾に鋭い氷の槍が幾本も突き刺さった。貫通時に減速しているとは言え、凄まじい衝撃が全身鎧を打ち付けた。それでもグスタフは前進を止めない。エイナスはグスタフの戦法が盾と鎧が壊れる前に魔法使いに肉薄することであると気がついた。グスタフはボロボロになった大盾を投げ捨て、大剣を体の正中線上に縦に構え、恐ろしい速さで飛来する氷の槍の軌道を大剣を当てる事でわずかに左右に反らす。人体の急所のみを守った捨て身の特攻だ。グスタフの肩を氷の槍が貫き、鮮血が男の後方に舞った。
少女の顔に初めて恐怖の色が浮かんだ。血に恐れをなしたからではない。少女は既にグスタフの大剣の間合いに入っていたからだ。
「つかまえたぞ!!!」
と叫びながらグスタフは大剣を真横に薙ぎ払った。
その剣速は速く、回避は不可能だ。
少女は真正面から受け止めては防御シールドの損耗が激しいと考え、少しでも衝撃を軽減しようと大剣の動きと同方向に跳んだ。
バキッっという鈍い音がして少女の体が4m程吹っ飛んだ。少女は何とか外傷は無かったが、まだ立ち上がる事はできない。
グスタフはすかさず追撃を開始する。倒れた少女に容赦なく大剣を降り下ろす。防御シールドが大剣を弾き返す鈍い音が連続する。一撃ごとに大剣は少女の体に迫っていく。少女の魔法力が少なくなってきているのは誰が見ても明らかだ。あと一撃で防御シールドが打ち破られるというタイミングで少女は最後の反撃に出た。残りの魔法力を全て使ってサンダーボルトを唱えたのだ。大剣を降り下ろそうというグスタフの全身鎧をいかづちが撃ち抜いたーーーかに見えた。
「雷を最後に持ってきたのは失敗だったな。この鎧は絶縁処理済みだ。」
そう言うとグスタフは少女の無防備な腹部を硬い具足で蹴り飛ばした。
少女は悲鳴を上げる間もなく失神し、観客から大きな歓声が上がった。
意識を失い仰向けになっている少女に立ったまま跨がったグスタフは大剣を逆手で持ち直し、少女の首の上に振りかざす。
エイナスは青ざめた。まさか、まさか、まさか、ーーーーー。
「止めろ!!!もう勝負は着いている!!!殺すんじゃない!!!」
そんなエイナスの叫びも虚しく、大剣は真下に落下し少女の首を両断した。
少女の体と首が大剣によって切り離されたのを見てエイナスは強い吐き気に襲われ、そして観客席の床に嘔吐した。前のめりに倒れこむエイナスの頬を涙が伝った。
「兄ちゃんしっかりしなよ。あの子まだ生きてるぜ?」
隣の観客はエイナスの背中を叩いて言った。
エイナスは闘技場の少女を良く見直した。大剣の二つに別れた剣先は地面に垂直に突き刺さっているが、少女の首は大剣の真ん中の割れ目に挟まれており、少女の首は切断されていなかった。
安堵し落ち着きを取り戻しつつあるエイナスに隣の観客が言う。
「あの子運が良いよ。前の子は降り下ろしの時に動いたせいで御陀仏だったからな。いや、これから始まる事を考えたらあれで死んでいた方が幸せだったのか?」
これから?なんの事を言っている?試合は終わりだろ?
そんなエイナスの思いも空しく試合は止まらなかった。
グスタフは腰の後ろに装備していたナイフで少女の服を切り裂いていく。その手際はまるで服飾職人や熟練の外科医を思わせるほど鮮やかだった。あっという間に少女を全裸にしたグスタフは次に自分の甲冑を外し始めた。
エイナスは言った。
「まさかここであの子を犯すのか?」
「そうだよ。どうせ魔法使いのままじゃ賞品にできないからな。ショーも兼ねた一石二鳥ってわけだ。」
ふざけるな。お前らもあの大男も狂っている。
エイナスは席を立ち上がり闘技場へのフェンスに走った。
フェンスには極大魔法の直撃すら跳ね返す結界が張ってある。だが、俺のダークエスケープなら結界を越えられる!
観客達は試合に集中し、詠唱を始めたエイナスに気付きもしていない。
突然、何者かに肩を掴まれた。エイナスは振り向く。
「クライン!どうしてここに?」
クラインと呼ばれた身なりの整った初老の男性は静かに言った。
「エイナス様。失礼ながら後をつけておりました。それでこれからどうするおつもりで?」
「離してくれクライン!俺はあの子を助ける!!」
クラインは首を振った。
「いけません。」
「なぜだ!!」
「確かにエイナス様ならばこの場は切り抜けられましょう。しかしその後はどうするのです?犯罪者として追われ続ける事になりますぞ?」
「だからといって目の前の少女を見捨てろと言うのか。」
クラインは悲しみを目に宿しながら、しかし断固として言った。
「そうです。」
「な・・・?」
「エイナス様、全ての人間を救う事などできません。今日の我々には彼女を助ける準備が無かった。」
「・・・。少女一人救えないなんて、俺の力はなんの為に・・・。」
「あの少女も死んでしまうわけではありません。娼婦とするためこの後に治療魔法も受けられるでしょう。あの子は後日きっと救えます。」
「わかった・・・。」
と力なくエイナスは答えた。
「行きましょう。これ以上ここに居ても意味がありません。」
エイナスとクラインは闘技場を後にする。
闘技場ではショーが始まり観客から歓声が上がる。
少女の絶叫が後ろから聞こえた。
「クライン。俺はあの男を殺そうと思う。」
エイナスは言った。
エイナスはクラインが今まで見たことがない悲壮な表情をしていた。
イスタニア王国南東部タウルス州領主の長男としてエイナス・フェルンストは育った。母親はエイナスが物心付いた時には既に居なかったが、性格は歪んでしまったりもせず、素直で優しい少年として家中の者や領民達から慕われていた。
エイナスは運動よりは読書が好きな少年で、15歳になる頃には領内の本という本を読破してしまった。エイナスはさらに刺激的な本を求めたが、この時代のイスタニアは紙自体が貴重で、書籍として出版される文献はごくわずか、領主の息子という裕福な立場のエイナスにしても新しい本は手に入りにくく、彼の知識欲は高まる一方だった。
領主の父が外交の為、屋敷を長期間離れる事になったとき、エイナスは屋敷にある開かずの間へ侵入する事に決めた。父や従者の行動から開かずの間は禁書を集めた保管場所なのではないかと考えたからだ。
執事のクラインが居なくなった隙をつき、あらかじめ調べておいた書斎の棚から鍵を拝借し、開かずの間の扉を静かに開ける。中には本や文献がそこかしこに積まれていた。
禁書ーーーーとはイスタニアにとって不都合な事実や、民衆に知られたくない事実、そして事実とは言い難い妄言で民衆を煽動してしまう内容が記載されていると検閲官に判断された書籍を指す。
エイナスは手当たり次第に禁書を読み漁った。反社会的描写、毒物の製造法、疫病の研究書といったどれもがエイナスに未知の刺激を与えてくれた。エイナスは紫色の豪奢なカバーがかけられた一冊の本に手を伸ばした。題名は『男性魔法使いを誕生させる研究』と書かれている。著者は100年戦争の英雄エヴァ・スクリーズという魔法使いで、確か10年程前に亡くなったはずだ。
『ーー魔法は男女の契りを交わした事のない処女のみが使用できることは、女性のみが子供を産めるのと同様に周知の事実であるが、私はある転換術式を発見した事で男性が魔法を使える可能性を見いだした。ーー』
このような出だしで始まる研究論文の様な物だった。男性が魔法を使えるようになれば戦争のあり方すら一変し、世界の情勢は大きく変わることになるだろう。エイナスが手にしているのは禁書中の禁書だった。
『ーーただし女性が魔法使いになる為に生まれもった高い素質が必要な様に、男性が魔法使いになる場合も高い素質が求められるだろう。ーー』
つまり誰でも魔法使いになれるわけではないということか。
『ーー魔法使いの素質は母方から受け継がれる。恐らく母親が元魔法使い、もしくはそれに匹敵する素質があるものの子供でなければ男性は魔法を使えないだろう。ーー』
じゃあ僕は駄目なのかな。エイナスは記憶にすら存在しない母親を思い浮かべる。父に何度母親について尋ねても、どのような人だったかすら教えてくれた事は無かった。
『ーー最後に転換術式の精製方法をここに示すーー』
転換術式自体はエイナスでも試してみることはできそうだった。
必要な材料や工具を取りに一度部屋をでる。そして苦労して集めた材料で転換術式の発動を試みた。もしエイナスに素質がなければ術式は発動せず何も起こらない。ちょっとした冒険心で行った実験だったが、エイナスの術式に予想外の異変が起き始めた。
「信じられない。」
術式の異変は研究書に書かれた発動中の現象そのものだった。
はやる気持ちを抑えながら精神を集中させ意識を手のひらに集める。淡い魔法の光がエイナスの手のひらに揺らめいた。
エイナスは自分が魔法を使えるようになったことよりも、母親が魔法使いであった可能性が極めて高いという事実に驚いた。だから父は母親についての一切を秘密にしているのだろうか。
エイナスは次に自分がどの属性に素質があるのかを確認するため属性判定術式に取りかかった。この術式で浮かび上がる色が自分の属性を表す。
エイナスは浮かび上がった色を見てうなった。
色は漆黒だった。
つまりエイナスは闇魔法使いなのだ。
闇魔法、死と狂気のイメージがエイナスに浮かぶ。闇魔法の魔導書がこの禁書保管庫にあるだろうか。2時間程かかって探し回ると研究書のあった本の山の近くに運良く魔導書も積まれていた。
エイナスは記載されている闇魔法を確認する。
『テンプテーション ー 誘惑』
『ペインキャンセル ー 痛覚無視』
『ペインインクリーズ ー 痛覚増大』
『ペインリバーサル ー 痛覚反転』
『アーマーブレイク ー 防具破壊』
『デッドマンズハンド ー 死者の手』
『スケープスケアクロウ ー 身代案山子』
『ダークエスケープ ー暗黒回避』
『ファントムイリュージョン ー 亡霊幻影』
『ヴァージンアゲイン ー 処女再生』
これが全てだった。そのどれもがエイナスが想像していた魔法とは全く異なる使いどころのわからない物でエイナスを落胆させた。攻撃魔法の一つすら存在しないラインナップなのだ。唯一の治療魔法である『ヴァージンアゲイン ー 処女再生』は24時間以内の性交を完全に無かった事にする(対象は女性限定)というもので、ふざけるのもほどほどにしろと言いたくなった。
エイナスは闇魔法に心底落胆してしまったが、基本魔法の防御シールドが使えると知ると喜んだ。後はまともな攻撃方法さえあれば良いのだ。
エイナスは今まで運動嫌いの読書少年だったが突如として剣術道場に通い始めた。領主の父は驚いたが剣術に真剣に取り組む息子を喜んだ。
少年にありがちなヒロイックな願望(英雄願望)が自分を突き動かしている。とエイナスは内心自覚していた。
だが本当は、母親が今も生きていれば、魔法使いとして世にでたエイナスを見つけてくれるのではないだろうかと期待してしまっている事にエイナスは気づいていなかった。
秘めた想いを胸に、領主になる修行の旅に出たエイナスがオラクリアの闘技場にたどり着いたのは2年後のエイナス17歳の時だった。
グスタフと少女の戦いから三日後、エイナスは闘技場の闘技者として登録を行った。グスタフと戦う為には、まず下位の男性闘技者の数々を打ち負かして上位クラスに上がらなければならない。エイナスの初戦は兵士あがりの凡庸な男だった。試合開始の合図とともに男が切りかかって来た。その太刀筋は鈍く、エイナスは魔法を使うまでもないと判断した。男の上段切りを右にかわして男の左肩を長剣で突いた。グチュッという肉を裂く感触が手に伝わり、剣先が肩甲骨に突き刺さって止まった。エイナスは剣を引き抜き、これで終わってくれれば良いがと思った。しかし、この程度で試合は終わる筈もない。観客はどちらか一方の死を望んでいる。審判もそれをよく判っていて少なくとも観客がある程度盛り上がる決着となるまでは試合を止めない。
エイナスとの実力差を身をもって感じ取った男だったが、降参すら存在しないこの試合に退路はない。残った右腕で剣を振り上げ、必死にエイナスを攻撃する。
すまない、後で治療魔法代は出してやる。と考えたエイナスは男の突きを剣で撥ね飛ばし、男の手首を切り落とした。
茫然とする男の、無くなった手首から血が吹き出た。両腕が使用不可。男は戦闘不能になった。吹き出る血に少し盛り上がった観衆を見て、つまらない試合だったなと思いながら審判は決着を言い渡した。
男はエイナスと逆の出入口に運ばれていく。エイナスは自分の出入口から円形の闘技場の反対側へ走った。
エイナスは係員の男に声をかけた。
「すまない、今の試合で負傷した男は?」
「あ~、あんたさっき勝った人?駄目だよ、闘技場の外でとどめはさせないルールなんだから。」
「そうじゃない、彼の治療費を払うから彼に治療魔法を頼む。」
「お兄さん奇特な人だね。それともそういう契約だったのかな。たまにいるんだよ、勝敗の八百長で儲けようって人。」
「いいから早くしろ!」
「じゃあ呼んでくるけど、代わりに今度八百長するときはよろしくな。」
係員は治癒魔法使いを呼びに行った。
床に敷かれた薄汚い布にさっきの男は寝かされていた。止血もされておらず顔面は蒼白、既に失血性ショック症状が出ていた。
「なんで止血くらいしてやらないんだ!!」
そう言うとエイナスは持っていたハンカチで男の傷口の上部を縛った。そして傷口を心臓よりも上の位置に持っていった。
15分後、ようやく治療魔法を使える少女が現れた。
白のコスチュームに身を包んだ少女だった。
「ごめんなさい、別の予約が入っていて遅くなっちゃった。」
と少女は笑って頭を下げた。
エイナスは短く言った。
「この男の治療を頼む。金は俺が出す。」
「いいですけど、もう手遅れなんじゃないかなぁ。私の経験からなんですけど。」
「いいから!」
「死んじゃっても治療費は貰いますよ?」
そう言うと少女は切り離された男の手首を持ち治療魔法で接着し始めた。
「おおっ!くっついた!私すごくないですか?」
少女はこの場に似つかわしくない満面の笑みを浮かべた。
「左肩も頼む。」
「はいは~い。あれ?治らないぞ?あ~死んじゃったのかぁ。」
どくんとエイナスの心臓が鳴った。
「治療費はそうですねぇ、10万クランになります。」
先の試合の賞金が3万クラン。法外な治療費だ。
「わかった。これでいいか。」
少女に10万クランを渡す。
「毎度あり~。お兄さんも今度戦う時は治療の予約をお薦めします!ただ予約料があるんですけどねっ。無傷で勝っても死んじゃっても予約料は頂いちゃうよ?」
「そうするよ。」
じゃあね。と少女は言うと次の仕事に駆けていった。
エイナスは男の死体を横目に闘技場を後にした。死後の引き渡し先は闘技者登録の際に必須だ。引き渡し料も登録時に先払いする決まりになっている。これ以降はエイナスは関わらない。
エイナスはつい3日前にグスタフを殺すとクラインに宣言した。だが、初めて実際に人を殺してみると何か得体の知れない恐怖が体にまとわりついて離れない。
「あの男も覚悟していたはずだ。」
「やらなければ、死んでいたのは俺の方だった。」
そんな言い訳が脳裏によぎる。だが、
「少女を救うために罪もない男を殺した。」
「お前がそれをする必然性はあったのか。」
という自責の言葉が拭いきれない。
エイナスは重い足取りで宿屋に向かって歩き出した。
エイナスは次の戦いまでの間、宿で読書に耽っていた。オラクリアは元中立地帯であるためガーランドで出版された本も多く売られている。それらは非常に高価ではあったが、エイナスはその未読本達の購入を躊躇わなかった。エイナスは剣を取った今でも生粋の本好きだった。
たまには外で読んでみるか、天気もいいし。ふと思ったエイナスは宿屋を出て落ち着いて読書に専念できる場所を探して歩き出した。人混みを避けるようにして歩いていくと自然と町外れの森に来ていた。森に少し入った所に大きな切り株がまるで椅子のように存在している。ここに座って本を読んだら気持ち良さそうだ。エイナスは切り株に座って本の世界に没頭していく。時折聞こえる鳥のさえずりと木々の香りがエイナスの心を癒していった。
「そこ、私のお気に入りの場所なの。出来たら譲って貰える?」
突然話しかけられ驚く。見上げると、今まで見たことも無いほど可愛らしい少女が一冊の本を胸に抱えて目の前に立っていた。歳は14歳位だろうか。ブラウンの綺麗な髪、大きなターコイズブルーの目、白い肌と利発そうな唇。そして着ている白のドレスは少女の可愛さをこれでもかというくらいに引き立てていた。
エイナスは慌てて言った。
「ごめん。知らなかったんだ。別の所で読むよ。」
エイナスが近くの小さな切り株に座り直したのを見て少女はお気に入りの大きな切り株に腰を下ろし本を開いた。
エイナスは本に集中しようと思ったが、少女に意識が行ってしまうのか、小さな切り株の座り心地が良くないのか、どうにも集中できない。
エイナスは少女に話しかけた。
「悪いんだけど、そっちで一緒に読んでもいいかな。こっちはなんだか座り心地が悪くてさ。」太ももをさすりながら少女に近づく。
「別にいいけど。私の森ってわけじゃないし。」
少女は本から目を話さずに答えた。
エイナスは少女の隣に座った。気になって少女の読んでいる本を見てしまう。その文章はエイナスが屋敷で読んだことのある『真夏の夜の残響』だった。
「それ、真夏の夜の残響だよね。俺もその話好きだよ。」
少女の読んでいるページが前半だったので、あまり内容について話すのはやめておく。
少女は一瞬読むのを中断して言った。
「私はこの本嫌い。何度も読んでいるけどやっぱり嫌い。」
読み返しだったのか、それなら。
「どうして?最後は素敵なハッピーエンドじゃないか。」
「こんな奇跡は私には起きてくれないから。」
「・・・じゃあ、他のを読めば?いい本は他にもたくさんある。」
「これしか持っていないの。友達が置いていったこの一冊だけ。」
エイナスは少し考えて言った。
「俺、宿屋に泊まっているんだけど、部屋が買った本だらけになってしまってさ。良かったら好きな本を君にあげるよ。」
「そんなの悪いよ。本は高いもの。」
「遠慮はいらないんだけど、それなら貸すってことにする。読み終わったら返してくれればいい。」
「本当にいいの?」
初めて少女はエイナスの方を見た。
エイナスは笑って言った。
「もちろん。」
エイナスは久しぶりに笑った気がした。
「俺はエイナス・フェルンスト。サンセット通りの宿屋に泊まってる。いつでも尋ねてくれていいから。」
「私はセリス。セリス・マルケイン。」
「もう、行かなくちゃ。」
そう言って少女は本を閉じて立ち上がった。いつの間にか太陽がオレンジ色に輝いていた。
セリスは夕陽を白いドレスに写しながら、農道を町に向かって歩いていく。その姿は高名な画家が描いた絵画のように綺麗だった。
エイナスは下位闘技者達を次々と打ち破っていった。故郷のタウルス州剣術道場の師範は無名ではあったが、その腕はイスタニアでも有数の達人であったらしい。師事したエイナスの剣の腕は下位闘技者など軽く凌駕しており、魔法を使わなければいけない危険な場面は訪れていなかった。しかし、相手を殺さずに試合を終える事ができたのは2回に1回程度。それもそのはず、致命傷を与えなければ決着が許されないのだから。エイナスは今日も闘技場のシャワーで返り血を洗い流し、宿に帰る。宿に帰ってからも念入りに風呂に入るが、こびりついた血の臭いが離れてくれない。
森での約束の後にセリスがエイナスの宿を直接訪れることは無かったが、森の切り株で何度も会うようになった。自然とセリスが来そうな時間帯を選んで森に赴いていたからかもしれない。
エイナスはセリスが好みそうな本を数冊持っていきセリスに貸し出した。そしてセリスが本を読み終わると感想を二人で言い合った。そんな時間がエイナスにとって何よりもの救いだった。
3か月後、エイナスが上位闘技者に認定される日がついにやって来た。認定式は観客がいない闘技場で行われる。そこには魔法使いも数名参列することになっている。エイナスは目標である少女達に会えることを喜んだ。
認定式の日。エイナスは闘技場の支配人から上位闘技者の証である銀のタグを受け取った。支配人の魔法使いの少女達の紹介が始まった。
「上位闘技者となったエイナス・フェルンストにはこの者達に挑戦する権利が与えられる。」
少女達がエイナスの前に歩み出た。驚いた事にその中の一人はエイナスがよく知っている少女だった。
「セリス・マルケイン!彼女は火属性を得意と・・・。」
支配人が何かを言っているがエイナスは聞こえなかった。セリスは魔法使いだったのか?状況に思考がついていかない。
セリスは驚きと悲しみが混じった表情で言った。
「どうしてエイナスがここにいるの?」
エイナスは言った。
「俺は君達を・・・ここから救い出す為に来たんだ!」
エイナスは認定式が終わった後、セリスをどう助け出すか状況を整理していた。トントンとドアをノックする音がした。深刻な表情をした執事のクラインだった。
「エイナス様、問題が発生しました。」
「何があった?クライン。」
「グスタフは次にセリス様に挑戦すると闘技場に申告したそうです。」
「なんだって!?」
「試合は5日後の日曜日に予定されております。」
どうする?グスタフを闘技場の外で暗殺するか。いやそれは最後の手段だ。先ずは・・・。
「クライン、奴を買収して試合の申告を取り下げさせろ。それができなければ1週後にずらさせるだけでもいい。優先権は俺より奴の方が高い。買収以外に道はないんだ、金額に糸目はつけるな!」
金にこだわる奴のことだ、買収に乗ってくる可能性は十分ある。
「わかりました。もし1週間後に試合をずらす事しかできなかった場合は・・・。」
「俺が5日後にセリスと戦う。」
クラインはグスタフと交渉する為に出ていった。
4時間程経ってクラインが宿に戻ってきた。
「申し訳ございません。残念ながら申請をずらす事しかできませんでした。」
「よくやったクライン。十分だ。引き続き締め切りの2日後まで他の闘技者の動向に気を配れ。俺は上位闘技者の中で一番序列が低いんだ。他の者に割り込みされるようならどんな手を使ってでもそれを阻止しなければいけない。」
「かしこまりました。」
2日後の締切日が到来し、セリスと戦うのは確定した。エイナスはまだ出来ることが残っていないか考える。
「治療の予約をしておいた方がいいな。」
セリスは魔法使いだ。無傷で勝つなんて恐らく出来ないだろうし、少しでも保険が必要だ。
さっそく闘技場に出向く。今日は試合は行われていないはずだ。
闘技場の治療受付には怪しげな係の男が座っていた。
「兄ちゃん、いい子入ってるよ!」
いい子?治療魔法使いの事か。
「3日後の治療の予約をしたいんだが。」
「3日後だな。この中から選んでくれ。」
女の子が椅子に座っている絵が数ページ連なった薄い本だ。絵は殆ど実物と言ってもいいくらいの精度で表現されている。
写し絵か。魔法を応用して作った絵があるとは聞いていたがもう世の中に出回っているんだな。というかなんだこれは。
「おい、この子達はなんで片手で目線を隠してるんだ?」
「そりゃ、あんた、その方が会ったときにドキドキするだろ?」
「いや治療にドキドキとかいらないんだが。」
「兄ちゃん、もしかして冷やかしかい?」
男は疑いの目を向ける。
「違うけどさ。じゃあ、お薦めはどの子なんだ?」
「どの子も可愛くてお薦めなんだがな。新人のミントちゃんはどうだ?ロリ巨乳で今大人気!さらにお得な事に上位闘技者は指名料無料だよ。」
写し絵からミントちゃんを探す。確かに巨乳だが、絵の下にかかれたプロフィールを見るに、治せる怪我のレベルは大した事ない。というか巨乳とか治療に関係無いしどうでもいい。そもそも『未経験』ってどういう意味だよ。
「この未経験ってどういう意味だ?」
「それは今までこの業界で働いてなかったってことさ。」
「なるほどな、料金との兼ね合いでそういう子を好む闘技者もいるってことか。だけど俺は熟練者が良いな。」
「お兄さんはテクニック重視派かぁ。」
「まあな。」
「それだと、レイナちゃんとかヴィヴィアンちゃんかなぁ。」
「こないだ見た子は切断された腕を一瞬でくっつけてたんだけど、あの子位のレベルはいないのか?」
「それきっと当店一番人気のリーナちゃんだよ。可愛くて腕もピカイチ!ただね~高いよ?」
あの子はリーナっていうのか、あの時は良く見てなかったけど、確かに可愛かったような気もする。
「問題ない。金に困ってはいないんだ。こんなところで出し惜しみして死んでも馬鹿らしい。」
「いよっ!さすが上位闘技者!太っ腹だね。この後料金と治療の説明を本人から受けられるけど、聞いていくよな?」
「そうだな。聞いておくに越したことはないだろう。」
男は頷いてから、後ろを向いて言った。
「4番ルームにお客様入ります。リーナちゃん準備お願いしま~す。」
4番ルームと呼ばれた治療室に入る。中にはベッドが1台置いてあるのみで、余り広くはない。
10分程待ってドアを叩く音がした。
「リーナで~す。ご指名ご予約ありがとうございま~す。」
ドアを開いて現れたのは、あの時の少女で間違いなかった。
「あれ~?お兄さんどっかで見たような気がしますよ?」
「3ヶ月位前に闘技場の通路で会ったよ。」
「なるほど~。じゃあ、そこのベッドに座ってください!」
エイナスは言われた通りにベッドに座る。リーナも隣に座った。 距離が・・・近い!!。腕に胸当たってるし。
「これ料金表です!」
リーナは持参のポシェットから一枚の紙を手渡した。
「フムフム。かすり傷1万クラン。刺し傷2万クラン。火傷・凍傷3万クラン。腕の接合5万クラン。足の接合8万クラン。輸血治療12万クラン。リーナのスペシャルお手当て・・・50万クラン!?」
「あっ、それ最近始めたやつです。リーナ、叶えたい夢があってお金が必要なんですよ。標準治療も他の子よりは高いんですけど、ほとんどお店に取られちゃうんです。だから秘密のオプションなんです。リーナ頭いいですよね。」
「つまり、この分は直接リーナが受け取るってこと?それってまずいんじゃないか?」
「ここだけの秘密ですよっ。」
「まあ言わないけどさ。で、どんな内容なんだ?リーナのスペシャルお手当てっていうのは?」
「え~、それ聞くんですか?」
「知らないと50万クランも出せないだろ。」
「む~。試合が終わった後のお楽しみってことで。」
「怪我治すのに楽しいわけあるか!」
「怒っちゃやだよぉ。」
どうもこの子といると調子が狂うな。なんというか苦手なタイプかもしれない。
「ごめん。怒ったわけじゃないんだ。君には期待してるよ。」
「ほんとに?うれしいかも。」
泣きそうなったり笑ったり忙しい奴だな。
突然、リーナの懐中時計のタイマーがジリリと鳴った。
「あっ!そろそろ時間だ!」
「ああ、それなら帰るか。」
「延長しないんですか?」
「なんだ?延長って?」
「・・・。」
「じゃあ、当日待ってますよ。ばいば~い。」
リーナが手を振って見送ってくれる。
待っていてくれるリーナには申し訳ないができればここを使いたくないのが本音だ。
エイナスは夢を見る。最近みるようになった夢。調度オラクリアに来てからかもしれない。
夢はいつもどこかの村の集会所で始まる。
「ガーランドの奴らそこまで来ているぞ!!!包囲され始めている!!!」
「くそっ、このままではこの村は全滅だ!何とか戦えないもの達が逃げる時間をかせがなくては!」
男達の焦りの声が響く。
「だめだ、絶対に勝ち目は無い。相手は正規軍だぞ?」
「そんな事はみんな分かっている。僅かな時間の為に命を捨てれる奴がどれだけいるかだ!」
議論はまとまらず、状況を打破する案は何一つ出てこない。
リーダーと思われる男も発言せずただ皆の意見を黙って聞いていた。
ついには押し問答のような意見すら出てこなくなると重い口を開き決断するように言った。
「この中で、残って戦える者は手を挙げてくれ!強要はしない!」
次々と村人達の手が上がる。中には少年と言っても差し支えない年頃の者達までいる。
リーダーの男は挙手した者達の顔を一人ずつ見ていく。そしてある少女を見て言った。
「君は駄目だ。君はまだ15歳位じゃないのか?それに赤ん坊を連れているじゃないか・・・。」
少女はどこからかこの村に流れ着いた旅の者だった。不運な事に戦禍に巻き込まれてしまったのだ。
村人の視線が集まった少女は口を開いた。
「私は皆さんに黙っていた事があります。私は魔法使いなんです。」
村人に動揺が走った。
リーダーと思われる男が言った。
「ということはその子は君の子供じゃないのだね?」
「いえ、この子は間違いなく私の子供です。」
視線を感じてか、ぐずりだす赤ん坊を少女があやす。
「ならどうして魔法が使えるんだ?」
「それはーーー言えません。でも魔法は本当に使えます!」
少女は手のひらに魔法力を集めて村人に見せた。
「おおっ、これはまさしく魔法だ!!」
「もしかしたら俺達やれるのか?」
「希望が見えてきたぞ!!」
先程まで絶望が支配していた集会所に希望の光が差していた。
「すまない。君の事情はこの際聞かない事にしよう。手をかしてくれるのだな。」
「はい・・・。」
少女は手に抱いた赤ん坊を暫しの間見つめてーー男に答えた。
「やったぞ!奴ら退却しやがった!」
「信じられない!奇跡だ!」
村人が歓喜に包まれている。
リーダーの男が少女に言った。
「この村を救ったのは全て君の力だ。一体なんて礼を言えばいいのかわからない。我々にできる事ならなんでもしよう。なんならこの村にずっと居てくれたって構わない。」
村人たちも口々に少女に感謝の言葉を述べる。殆どの者が泣き出してしまっていた。
「私はここに留まる訳にはいきません。かわりにこの子を・・・エイナスをここで育ててくれますか?」
「もちろん構わないが、この子は君の大切な子供なのだろう?一体どうしてなんだ?」
「この子は私と一緒にいても幸せになれない運命なのです。だから、預けられる信頼できる人を・・・ずっと探して旅をしていたんです。」
「そうか、ならば私の命に代えてもこの子を立派に育てよう。」
「ありがとう。あなたを信じています。ロイ・フェルンスト。」
少女は泣き出してしまった。
「もういくのか?◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯。」
どうしてだ?母さんの名前がどうしてもわからない。顔も殆どぼやけてしまっている。
「これ以上いると、離れられなくなってしまいます。」
行かないでくれっ!!!頼む!!!
俺を置いていかないでくれ!!!
何度叫ぼうとしても声が出ない。これは夢なのだ。
俺はっ!!!
ベッドから飛び起きる。
寝ていた筈なのに全力で走った後のように息があがっている。
体は汗にまみれていた。
この夢は願望なのか?それとも過去にあったことなのか?
「今日は試合の日ーーーか。」
セリスとの試合が数時間後に迫っていた。
エイナスとセリスの試合が行われる闘技場に多くの観客が集まった。
下位クラスを破竹の勢いで勝ち上がったエイナスだったが、観衆の誰もがエイナスに勝機はないと思っていた。エイナスはグスタフに感化され上位初戦に魔法使いを選んでしまった無謀な若造というのが一般評価だった。観衆に提示された賭けのレートはセリス1.2対エイナス7。賭けが成立するギリギリのオッズだ。
エイナスとセリスが闘技場に入場した。エイナスはセリスを見た。
魔法使いは試合中全力を出す事を義務付けられている。もし手を抜いて負けたと発覚した場合、賞品にすらならずに処分されてしまう。だからセリスには必ず・・・。
セリスは微笑みながら言った。
「エイナス。私を殺していいよ。あなたを殺す位なら死んだ方がいい。」
違う。そうじゃない。
「君はいつも戦う時に自分に暗示をかけているんだろ?今回もそれを使うんだ。」
これはクラインに調べてもらった事だった。
「そんな事したら、あなたを殺してしまう!」
「俺を信じろ。絶対に君を救う。」
「もう私はたくさん人を殺してきた!救われる価値なんてない!」
「それは君が望んでやったことじゃないだろ?」
「・・・なんでこんなことするの。」
「助けたいから。そしてそれは俺にしかできない。」
「・・・わかった。エイナスを信じるよ。」
セリスは自分に魔法を使った暗示をかける。
戦争の道具として育てられた少女たちでも普段の精神状態で戦う事などできない者が多い。
それでも生き残る為に目の前の相手を葬り去るしかなかったセリス達は一切の感情を放棄した『殺人装置』になるしかなかった。そうでもしなければ自分の心が壊れてしまうのだから。
セリスの心から、優しさ・躊躇い・愛・倫理感といった感情が抜け落ちて行くのをエイナスは確かに感じた。
「ーーーーセリス!!」
エイナスの言葉はもうセリスに届かない。
試合の合図が無情にも鳴り響いた。
セリスの周囲に次々と火球が現れる。
「ファイアーボールか。」
クラインの報告書にあったセリスの得意魔法だ。ひとつひとつの火球の殺傷力は他の魔法に比べてそれほど高くはないが、当たり所が悪ければ致命傷となる。エイナスはセリスにファイアーボールを詠唱された場合どうなるかを事前にシミュレートしていた。もしエイナスが防御シールドを使ってファイアーボールを防いだ場合、次々と速射される火球になすすべもなく追い詰められ、反撃の間もないままシールドを破られる。
「対抗策はこれしかない。」
火球がエイナスに向かって弓矢以上の速さで連続発射された。
エイナスは長剣を正眼に構え数瞬後に到達する火球を待ち受けてーーー、一切の無駄が無い太刀筋で火球を切り裂いた。
呼吸を整える間もなく、後に続く火球の数々を下段斬りから中段斬り、そして袈裟斬りに連係させて一息に切り飛ばす。
「どうした?ご自慢の攻撃は通用しないようだぜ?」
はったりだった。防御シールドを長剣に集中させ反作用で火球の軌道を変えているに過ぎないエイナスは一撃でも捌くことに失敗すれば、甚大な被害を被る。もしこの攻撃を続けられれば、追い詰められるのはエイナスだ。
幸いな事にエイナスの虚勢を信じたセリスは火球の速射攻撃を断念し、他の攻撃に移ろうとした。セリスに僅かではあるが隙が生じる。
「おぁぁぁ!!!」
気合いと共にエイナスが間合いを詰める。
エイナスはセリスの防御シールドに風穴を空けるべく、渾身の突きを繰り出すべく身構える。
だが、セリスは回避行動すらとっていなかった。何かが不自然だった。
「しまった。」とエイナスは思った瞬間、エイナスの足元から炎が巻き起こる。
「サークルフレイム。」
わずかな隙はセリスの陽動だった。
この場に留まれば足から焼かれる!退路も無い。それなら!
「デッドマンズハンド!!」
地中から生えた手を足場にして高く舞い上がる!
召喚された手はすぐさま焼き尽くされたがエイナスは炎の届かない位置まで浮上していた。
「はあっ!!!!」
セリスの防御シールドに一閃を加え、反対側に着地する。
「よし!やれるぞ!」
薄氷を踏むような戦いでもセリスに一撃を見舞う事ができた。エイナスは勝利への確かな手応えを感じた。
この時、エイナスは決して油断したわけでは無かった。だが、魔法使いと初めて戦うエイナスはその脅威を正確に見積る事は出来ていなかった。
セリスはエイナスの着地に合わせて杖の先端から炎の鞭を伸ばし、振るった。無詠唱の常時発動魔法の存在をエイナスは想定していなかった。
「こんな魔法があるのか!」
突然現れた炎の蛇をエイナスはとっさに剣で払う。しかし、炎の蛇は自ら意思を持っているかのように軌道を変えてエイナスの右腕に巻き付いた。
「うぁぁぁぁぁああああ!!!」
右腕に火傷の鋭い痛みが走った。炎の蛇はしっかりと腕に食い込んで振り払えない。このままでは右腕を失うのは時間の問題だ。
エイナスは決断するしかなかった。
「スケープスケアクロウー身代案山子」
拘束時の回避魔法だ。
エイナスの体が、木で出来た案山子に変わった。そして実体は案山子から分離し、するりと後ろに倒れこんだ。
「ここで終わるわけにはいかないんだ!」
自らを鼓舞し、次の手を打たなければならない。
案山子はエイナスの剣を持ったまま炎で燃え尽くされる。エイナスは武器の長剣を失った。
誰もがエイナスは窮地に追い込まれたと思った。
「セリス。君は強いよ。もう出し惜しみは出来ない。」
高速詠唱ーー。
「ペインキャンセルー痛覚無視」
右腕の火傷の痛みを無くす。筋肉の中まで焼かれてしまった訳ではない。痛みさえ無くせば問題なく動く。
エイナスは反撃の手順を組み立てる。
闇魔法が他の属性魔法に比べて勝っている点。それは詠唱の短さと詠唱に必要な魔法力が少ない事だ。手数で相手を翻弄し、意表を突く。それがエイナスの考え出した闇魔法使いの戦い方だ。
「ファントムイリュージョン!!ー亡霊幻影」
エイナスの姿がいくつにも増えていった。すぐさまセリスは炎の鞭を振り回して幻影を掻き消していくが、セリスがエイナスの居場所を見失っているのは間違いない。
「デッドマンズハンド!!ー死者達の手」
闘技場の地中から恐ろしい数の手が生える。そして防御シールドの薄い足元から密かに伸びた手がセリスの足首を掴んだ。
「ひっっ。」
セリスがたじろんだ。戦闘に不必要な感情を捨て去る暗示。しかし、恐怖は戦闘に必要な感情だった。恐怖心を全て取り払ってしまったら相手の攻撃内容を判断することができない。
セリスの最低限残された恐怖心が悪夢の様な光景に反応したのだ。
幻影の中からエイナスはセリスに飛びかかった。狙いはセリスの手にしている杖だ。右手に魔法力を圧縮し、杖を殴りつける。
そして拳が触れた瞬間に魔法力を流し込み、セリスの魔法力と混ぜ合わせて暴走させれば!
バキンという音と共に杖が弾けとんだ。これで炎の鞭は使えないはずだ。
「まだまだ!!」
両手両足に魔法力を集める。そしてセリスの防御シールドに打撃を打ち付ける。頑強な凶器と化した両手両足で左鉤突き、右正拳突き、左中段蹴り、右踵落とし、・・・とセリスの移動を封じ込めながら防御シールドを削り取る。
エイナスが使用しているのは魔闘拳技と呼ばれる拳技で、50年ほど前に一人の女性魔法拳士が考案した近接格闘術であった。
魔闘拳技は魔法力で強化した手足で敵を攻撃する技法なのだが、そもそも魔法力があるのは男性より体術に劣る女性だけであったので、後継者が現れず一代のみの技法として世の中からほとんど忘れ去られてしまった。
エイナスは魔法使いと戦う方法を模索する中で、この廃れてしまった格闘術を取り入れることに決めた。
闇魔法という攻撃に向かない魔法しか使えないエイナスにとっておあつらえ向きの攻撃方法であったし、大抵の魔法使いは接近戦を苦手とする点を逆に突くことができる。まさに一石二鳥だった。
セリスも近接戦闘はどちらかと言えば苦手な方だった。懐に入ったエイナスの連続攻撃になすすべが無くうずくまってしまっている。
エイナスはセリスのうつむいた顔を確認した。
セリスの唇が動いていた。そしてその魔法は・・・。
「まさか!自爆するつもりか!」
爆縮魔法。
まず周囲の酸素が一瞬で燃焼され薄くなった。
集められた燃焼エネルギーがセリスとエイナスの間の一点に集約され圧縮される。
そして広範囲破壊魔法のエネルギー球体が臨界に達し、弾けとんだ。
防御シールドを全力で展開しながらセリスを安全圏へ突き飛ばす。
放射状に発生した熱線がシールドに食らいついた。
自分も少しでも発生源から離れなくては。
突き飛ばしたセリスの方に走る。
「しまった!足を!」
熱線が脚部の防御シールドを突き破っていた。
爆発が収まり意識が戻る。エイナスは気を失っていた。その長さは1秒なのだろうか、10秒なのだろうか。エイナスにはわからない。
わかるのは10メートルほど離れているセリスが極大魔法を詠唱していることだ。
右足の筋繊維を熱線で破壊され、もう歩く事すらできない。
意識を失っている間にセリスは何秒詠唱していたんだ?
考える時間も無い。できる事はただひとつ。
「ダークエスケープ!!!!!ーー暗黒回避」
エイナスの体の下に真っ黒な穴が出現する。
セリスの詠唱が終わった。
「さようならーーー。」
極大の熱波がエイナスに到達する。
早く穴に逃げ込まなければ命は無いというのに穴はまだエイナスを飲み込める大きさに広がっていない。
エイナスはとっさに右手に全ての防御シールドを集中させ熱波に向けてかざす。
すさまじい熱波が防御シールドを一瞬で削り取る。だが、あと1秒も耐えきれば穴が飲み込んでくれるはずだ。
0.3秒後。
右手の指から手のひらの半ばまで焼ききられる。
0.7秒後。
手のひらから手首まで炭化する。指は既に存在しない。
エイナスは地獄とも思える時間を必死に耐える。
セリスの極大魔法による熱波が静まったあと、闘技場に残っていたのはセリスただ一人だった。観客の誰もがエイナスは焼き付くされ死体すら残さずに死んだと思った。それほど極大魔法の威力は絶大だった。
全ての魔法力を使い果たしてセリスはしゃがみこむ。使っていた微小な魔法力さえなくなり暗示は効果を失っていた。
「エイナス?」
セリスはエイナスを探す。
セリスの肩が震えた。
審判員がセリスの勝利を宣言しようとした。
「俺の勝ちだよ。セリス。」
セリスの背後からエイナスが這い出てきた。右腕の肘から先は既になく、傷口は炭化していた。
エイナスは無力化したセリスの後ろで次々と呪文を詠唱する。
「デッドマンズ・ハンドー死者達の手」
地中から伸びた手がセリスを押さえつける。魔法力の無いセリスは抗う事はできなかった。
「アーマーブレイクー防具破壊」
セリスの衣服が下着も含めて一瞬で破れ落ちた。
「ペインリバーサルー痛覚反転」
エイナスは自分に魔法をかける。無くなった右腕と、右足の激しい痛みが快感に変わる。
「ごめんな。君にペインキャンセルをかける魔法力はもう無いんだ。」
押さえつけられたセリスの体に覆い被さる。
最後の力を振り絞って自分にテンプテーションをかける。
あとはテンプテーションに組み込んだ術式が俺を動かし勝利に導いてくれる。
意識が混濁していく。
「エイナス。」
「母さん?もしかして母さんなの?」
「あなたが女の子を救えるほど立派になって私は嬉しいよ。」
「そうだよ。俺は魔法使いになって強くなったんだ!だから俺はあなたも守ってみせる。一緒にいても不幸になんてならない。」
「ありがとう。」
「会いたいよ。一目だけでもいいんだ。」
ピンク色の天井がぼやけた視界に浮かぶ。
ここは治療室か?セリスは?俺は生きてるのか。
「あっ、起きましたかぁ?もうほとんど怪我は治ってますよ。」
この声はリーナか。そうだ。試合の結果は!
「セリスは?俺は勝ったのか?」
「お兄さんは勝ちましたよ!そういうルールなので勝ちにしないとお客さんが納得しないですからね。」
勝負は俺の勝ち。いやそれより確認しなければいけないことがある。
「セリスは無事なのか?」
「うーん。特に怪我はなかったですよ?ああ、あれは怪我に入れてないです。」
「そ、そうか。で、なんで俺は裸なんだ?」
「試合中に自分で脱いだの覚えて無いんですか?」
「・・・ああ。」
「それで右腕なんですけど・・・。」
「やっぱもうだめだよな。」
右腕は肘のあたりから無くなっている。これではいくら優秀なリーナの治療魔法でも、もう元には治らないだろう。これから先、右腕無しで戦うのか。さらに厳しい戦いになるだろうな・・・。
「いえ!実はお兄さんの試合を見ていてすごいアイデアが浮かんだんです!」
「どんな?」
「あの手がうじゃうじゃ~って出るやつ、やってもらっていいですか?」
「ああデッドマンズハンドな。」
言われた通り死者達の手を呼び出す。
「う~んどれにしようかな?あ、どんどんいろんな手を出してください!」
「わかったよ。」
「あ!!!いいのあった!これにします!」
「この手?」
「それ引っこ抜いてください。」
エイナスは言われた死者の手を引っこ抜いてリーナに渡す。
「まずは細胞組織を蘇生させて。」
エイナスはポカンとリーナの動きを見つめている。
「血液の変換と拒絶反応を抑える魔法をかけます。」
「・・・・・・・?」
「あとは、こうです。くっつけ~くっつけ~、くっついちゃった!」
「はぁ!!!嘘だろ!右腕が戻ってる!」
右腕が元の自分の手では無いことは感じるが、違和感のないほど自然に接合されている。そして動く。自分の思った通りに!
「どうですか?リーナ凄くないですか?」
「凄い!リーナ!君は本物の天才だ!」
「でしょ?」
「しかも恐ろしい程の早さだった!君は間違いなく歴史に残る治療魔法使いだよ。」
「ご満足頂けたようで何よりです。ちなみにこれリーナのスペシャルお手当てです。」
「ありがとう!50万クラン喜んで払うよ。」
「毎度あり~。因みに他の治療費等と合わせて85万5000クランになります。」
「現金で今無いんだけど、後でいい?賞金からとかでも?」
「いいですよ。85万クランも持ち歩いてる人そうはいませんし。」
「よし!体も全快したしセリスの所に行こう!」
リーナが小声で言った。
「ほんとはスペシャルお手当ては別のだったんですけどね。」
「何か言った?」
「何でもないです。早く行ってあげてください。」
「セリス入るぞ?」
セリスはベッドに静かに寝ていた。
「まだ起きていないのか?」
セリスは黒色のドレスを着せられている。
セリスに一切の魔法力は感じられなかった。
「ごめんな。セリス。今すぐ治してやるからな。」
24時間以内の性交を無かった事にする魔法。この魔法の存在がエイナスの作戦を後押ししたのだ。
「ヴァージンアゲインー処女再生」
これで治ったのか?セリスからかすかに魔法の力を感じるようだが。
「ちゃんと治ってるといいけど。」
正直気になる。後で聞くことも恐らく出来ないし、確かめるならセリスの寝ている今か?
「すまん。これは治療行為の一部なんだ。」
セリスのドレスの裾をめくる。
可愛いらしいパンツが目に入った。
「何してるの?」
セリスはいつの間にか目を覚ましていた。
「あっ、これは違うんだ・・・。」
何と言い訳すればいいのかわからない。
「別にいいんだよ?」
「えっ?」
「私はエイナスのものなんだから。」
二人の間に沈黙が流れる。
「あのさっ、君を治療したんだ。君にしてしまった事を無かった事にする闇魔法があってそれを使ったんだ。だからまた魔法を使えるし、あれは忘れていいんだよ。」
「そうなんだ・・・。」
セリスはエイナスが考えていたより全然喜んでくれない。
どうしてなんだ。
「ーーー何でエイナスは私を救ってくれたの?」
「君を自由にする為だよ。」
「自由?」
セリスはエイナスの言葉を理解できているのだろうか。
「そうだよ。もう君は誰かの言いなりに戦う必要は無いんだ。好きなところに住んでもいいし、誰かと恋愛したり、子供を作ってもいい。試合には俺が勝ったけど、君を俺のものになんかにしない。君は自由なんだ。」
「じゃあ・・・・。」
セリスは真剣に考えながら言った。
「私はあなたの側にいるよ。」
「だから、君は好きにして・・・・」
セリスがエイナスの言葉を遮る。
「私の自由にしていいんでしょ?それなら、あなたの側にいさせて。 」
「なんで・・・。」
「それが今、私が一番したい事なの。」
セリスの瞳を見つめる。
セリスは自分の状況を理解した上で真剣に言っているのだった。
「一緒に帰ろう。」
エイナスはセリスに手を差しのべる。
セリスはその手を強く握った。