VIII
“ねこちゃん”。彼女はそう呼ばれていた。そう呼ばれた記憶があった。しかし、その記憶は彼女にとって忌むべきものでしかなかった。
――思い出したくなかった。
あるのは“あの二人”に囲まれた思い出だ。二人は彼女を部屋で飼っていた。“飼っていた”という言葉が適切かは分からない。少なくとも二人にとってはその認識であったが、当の本人には別のものに思えた。第三者から見て適切な言い方をするとすれば“監禁”だ。
二人は狂っていた。一刻も早く逃げ出したかった。だがそれは叶わなかった。意思と裏腹に身体が動かなかった。逆らえばどうなるか、分かっていたからこそ、本能が抵抗を許さなかった。永久とも思える時間が続いた。
そして、いつの間にかねこちゃんは戦場に放り込まれていた。どうしてそうなったのかは分からない。一つだけ確かなことは、ようやく自由になれたということだけ。死と隣り合わせの、命がけの自由。それでも彼女は自由を謳歌していた。天使として順応するのにそれほど時間はかからなかった。やがてねこちゃんは他人から頼られ、分隊長を任されるまでに成長した。それは初めての経験ではあったが、けして悪い気分ではなかった。
何度目かの戦場を渡った末のある日、彼女のいた戦線は崩壊し、天使達は獣人に蹂躙し尽くされた。組み伏され、痛めつけられ、欲望の滾りを注がれ、無惨に死んでいく部下達を前に、ねこちゃんはしかし何も出来なかった。みんなは私が守る、などと言っておきながら、いつかの記憶のように身体が動かなかった。
死を覚悟した。だが獣人達は彼女を殺さず、自分達の基地へと連れ去った。
そこから何をされたか……は、やはりよくわからなかった。思い出そうとしても脳が拒否する。おぼろげに覚えているのは、獣の臭いに満ちた部屋で、全身という全身をくまなく弄り倒されたことだけ。痛みと屈辱に何度も悲鳴を上げた。死んだほうがマシとすら思えた。結局、自分は何処に行ってもこうなる運命なのだ。運命じみた諦観が、ねこちゃんを支配した。
そして、彼女は彼女でなくなった。
改造され、獣人としての特性を得た天使。天使でも獣人でもない“何か”。エメラルドのような艶やな緑髪はショックで真っ白になった。素性を隠す為に紙袋を被せられ、首筋に刻まれた番号で呼称された。ナンバー731。こうして彼女は生まれ変わった。
……意識はあった。呪われた身体。望めば自ら命を絶つことも出来ただろう。だが彼女は獣人に服従した。生前の記憶がそうさせた。目の前の恐怖に対する根幹的な感情。“こうすれば命が助かる”。いつの間にか、彼女はそうでなければ生きられないと刷り込まれてしまっていた。
今の自分は、素性の分からぬ後天的試製特異種“ペーパーバッグ”。かつての味方を殺す為、かつての敵であった者に服従する裏切者。
それがペーパーバッグの正体だった。
―――
服従の相手が変わっただけで、本質的には何も変わってない。頭では理解していたからこそ、彼女は感情を殺してきた。
未来などない。いつか戦場で果てるまで、二度と思い返すまいとしていた。
……それが、今になって。
「お前は、あいつを知っているにょか! 答えるにゃ!」
狂ったようにハンマーを振り回し、ペーパーバッグは叫ぶ。長らく失っていた言葉が、感情と共に溢れ出す。アリスは眉一つ動かすことなく、それを冷静にいなしていく。
「にゃああああああああっ!」
あいつが。あいつらまでが、ここにいるのか。ペーパーバッグの目が血走る。ロングハンマーを水平に振り払う。鉄塊はアリスを捉えることなく、勢いのまま壁を砕く。
二人の歪んだ愛情。それに耐えるのが、どれだけ苦痛だったか。
怒りに支配されてなお、ペーパーバッグはアリスと対等に戦っていた。ロングハンマーが振るわれるたび、古い石造りの壁や床が砕け、破片が飛び散っていく。
「……」
紙一重でハンマーが避けられ、アリスのナイフが閃く。
「ぎにゃ!」
左手の甲を切りつけられ、ペーパーバッグを痛みが襲う。アリスがそうであったように、ペーパーバッグもまた痛みの感情を取り戻していた。遠心力にまかせたロングハンマーが手を離れ、遠くへと飛んでいく。懐に飛び込んだアリスは続けてナイフを突き立てんとする。ペーパーバッグは素早く片手持ちの小振りなハンマーを取り出し、釘抜きの部分でこれを防ぐ。一進一退の攻防。
「答えるにゃ、天使。そのタグはどこで拾った。ここにいるにょか。もう一人はいるにょか。どこにいるにょか。黙っていにゃいで、答えるにゃ」
アリスは無言のまま、じっとペーパーバッグを見る。答えはない。
感情を取り戻したペーパーバッグは考える。タグを持っていたということは、一人はこの戦場、あるいはこの世にいないのだろう。ならばもう一人はどうだ。既にいないか。いや、きっとまだ生きている。そして、ここにいる。そんな予感がする。
この天使から聞き出せるか。知らないのか。それとも覚えていないだけか。どちらにせよ、答えは出まい。
「ふっ!」
鋭い前蹴りがアリスの腹部を突く。アリスは咳き込みながら後退し、しかし素早く体勢を立て直す。
「……そにょ目がムカつくにゃ」
ペーパーバッグは歯ぎしりし、アリスを睨む。ナイフの刃が冷たく煌めく。
二人は同時に地を蹴り、再び近接戦に入る。
「お前」
ペーパーバッグは掌でハンマーを反転させ、釘抜きでアリスの頬を狙う。ナイフによって傷ついた頬を、無骨な鉄の爪が容赦なく抉る。アリスは痛みに呻くも、追撃をナイフで防ぐ。開いた傷から血が滴り落ちる。
「……目を見ればわかる。何も考えてにゃい目にゃ。悔しくにゃいにょか。利用されるだけ利用されて、良い様に使われる。それでお前はいいにょかにゃ」
数日前に相対した時から、よく覚えている。こいつの目は自分と似ている。最初はそう思っていた。おそらく、同じような境遇なのだろう。
「……」
だが違う。この天使は感情を簡単に戻されることなく、一方的な空虚に支配されきっている。自分は違う。望めば逃げられる道があったかもしれない中で、最終的に自分がその道を選んでしまったのだ。
――少しだけ、羨ましかった。
「…………そうやって、すました顔でぇええええええッ!」
ペーパーバッグがハンマーを振るう。アリスはかわす。続けて振るう。ナイフが閃く。かわす。振るう。避ける。振るう。
自分は畜生だ。こうにゃる前も、こうにゃった後も、服従する相手が変わっただけ。どこまでいっても畜生扱いされ、にゃおかつそれを思い出してしまう。憎くて、悔しくて、どうにもにゃらにゃい。
一瞬にょ隙をついて、ナイフが肩を裂いた。血が迸り、たたらを踏む。
「冗談じゃにゃいにゃ」
刺し違えてでも殺すか。いや。こにょ天使には、そんにゃ価値もにゃい。
じりじりと後退し、窓縁に手をかける。相手は動かにゃい。
「この戦争がどうにゃるかにゃんて、知ったことじゃにゃい。獣人も天使も関係にゃい。戦場は自由。だから今こそ目的を果たす。私をコケにした奴らを、一人残らず殴り殺してやるにゃ」
窓から身を乗り出す。
「一生やってるにゃ、こにょポンコツ」
そう吐き捨てて、飛び降りた。




