VI
「なんだってんだよ、これは」
レイチェルが見たのは、地獄とも思える光景だった。
一体の獣人が頭部を撃ち抜かれて死んでいる。その隣には、全身に銃弾を浴びてスカーが倒れている。――そして、近くには血の海に沈んだミントの死体。
胸の水晶は粉々に砕かれていた。
廊下中に漂う饐えた臭い。何がどうしたというのか。しばらく思考を巡らせても、何も浮かばなかった。生きている者は一人もいない。その事実があるだけだ。
「はは。ははははは」
自然と、笑い声がこぼれた。やがてレイチェルは考えるのを止めた。虚ろな瞳は宙をさまよい、ある一点に定まった。
ミントだ。ミント。――ミント、だったもの。
半分ほど閉じられた瞼からは、光を無くした瞳が虚空を覗いている。土気色になった唇と、そこにこびりつく乾いた血。まるでゾンビのようだ。レイチェルは下に目線を移す。掻きむしった痕。血まみれのはだけた胸元。そして砕けた水晶の近くには、死体になってなお存在感を保っている双房がある。
引っ込みがちだが献身的で腕のいい“M”だった。いつも誰かの傍にいた。だがそれは自分ではなかった。そして欲求を刺激するような身体を持っていた。
ようやく機会に恵まれたと思ったら、これだ。
「……はは」
異様な興奮を覚えた。
「こうなっちゃ、もうどうしようもねえな」
肩にかけた狙撃銃がするりと地面に落ちる。
それを拾うこともなく、レイチェルはミントの死体へと吸い寄せられていく。
彼女は……“彼”は、狂気の最中にあった。
「いっぺん、やってみたかったんだ」
―――
暗視ゴーグルをつけた三体の獣人が、廊下を進んでいた。
重要拠点である侵入した天使達を奇襲し撃破するのが、ブラックタイガーに命じられた彼らの役目だった。いずれも多く経歴を持つ手練の特殊部隊だ。その手には、以前にここに来た天使達から奪った短機関銃が握られている。形こそバラバラだが、いずれも弾薬は統一されたものであり、知性の高さをうかがわせている。
「……」
「……」
ハンドサインをかわし、統率のとれた動きで進んでいく。
「……!」
一体の獣人が何かを見つけ、角に身をひそめた。
――誰かいる。
――動いているか?
――動いている。
――気付いているか?
――気付いていない。
――確認せよ。
角から半分ほど身を乗り出して確認する。
――なんだありゃ。
獣人は目を疑った。獣人が一体、天使が二体死んでいる。そしてもう一体、生きた天使がいる。天使の死体に馬乗りになっていた。
こちらに気付く様子はない。一心不乱に、身体を動かしている。
何をしているのか。
―――
天使に“そういう機能”があるかどうかは誰も知らない。
レイチェルはただ欲望のままに衝動を叩きつける。ミントの死体が、がくがくと乱暴に揺さぶられる。
「はは……はははは……」
何もかもがどうでもよくなった。戦場がどうなろうと、この戦いがどうなろうと、知ったことか。どうせ勝ち続けたところで、明るい未来があるわけでもない。
「お前はッ……どうだったんだよ、ミント……ッ!」
息を切らしながら、物言わぬ骸に話しかける。直前に何を想って死んだのか“それ”はもはや何も答えない。興味もなかった。
水分を失いつつある肌は、古いゴムのように弾力に欠けていた。レイチェルは構わずに手で触れ、指先に力を込め、猛りをぶつける。
「はは。ひひひひひ」
自分は誰にも振り向かれぬ存在であった。罵倒も期待も鬱陶しいだけだった。だからこそ、ただ己の快楽のみを享受すべく動いた。ここは戦場。何をやっても許される。この場所こそが全て。利用され、利用するだけの関係。それが天使の間柄であるはずだ。
ミントは、レイチェルに“利用される”のを拒んだ。それが鼻についた。
胸元に顔をうずめる。饐えた臭いが鼻をつき、鋭く欠けた水晶の一片が頬を切る。砕けた水晶を噛み、吐き捨てる。
「こうなっちゃ、抵抗も出来ねえよなあ」
血走った目を輝かせながら、ミントの頬を掴む。ぶに、と嫌な感触。髪に指を通す。艶やかなはずの髪は、埃と血に濡れていた。
倒錯的な興奮を覚える。息が上がり、鼓動が早くなってくる。
「お前も災難だよな。死んでまで、こんなキモい奴に圧し掛かられてよ。でも悪いのはお前だぜ。“誰かが守ってくれる”って縋るんなら、それ相応のものを差し出すべきだ。お前はそれを怠った。つまりは甘チャンだったわけだ」
口をついて言葉が出る。もはやその性格を取り繕うこともなくなった。周りには誰もいない。あるのは死体だけだ。
「はははは。ひひひひひひ。ははは……は」
身体が熱をもつ。息が上がる。叩きつける。欲望のたけを放つ、その一歩手前。
後ろから、殴打。
―――
「があっ!」
角付きの天使が苦痛に呻き、その場に転がった。三体の獣人は互いに目配せをし、内の一体が近くに落ちた狙撃銃を蹴り飛ばす。
「て、てめえ……」
「……」
どうやら本当に気付いていないらしかった。あまりにも愚かな油断だ。獣人は手にした伸縮式のバトンで天使を続けざまに打擲する。
「この……がっ……ぐっ、この野郎……止めやがれ、てめえら……うぐっ!」
一体が天使の腹に踵をめり込ませる。天使の身体から力が抜ける。もう一体が、次に頭を掴む。
掴んだまま、近くの壁に天使を引きずって行く。そして獣人は天使の頭を片手で持ち上げ、壁に向かって顔面を叩きつけた。
「があああああああっ!」
壁に叩きつけられ、角の先端が折れた。続けて、二度、三度と打ち付ける。砕け散った角の破片があたりに飛散する。四度。五度。六度目により力を込め、強かに打つ。
立つ力もなくなった天使がその場にへたりこみ、四つん這いになって咳き込む。鼻からの出血が地面に滴り落ちる。
「……」
「……」
無理やりに裏返し、ボロボロになった顔を見る。口元からは、血の跡が顎へと一本の線を引いている。舌を噛んだか。
「……はひっ!」
突然、天使は頭を押さえて苦しみだした。後ろに控えていた二体の獣人が咄嗟に短機関銃を構えたが、制する。
「はひっ、はひ、……あたま、頭が……うがああああッ!」
スコープごしの冷徹な目で、獣人は天使の悶える様を見据える。角付き、あるいはアンテナ付きの天使はこれまでも相対したことがあった。“頭のそれ”を破壊された天使は、おおよその場合、すぐに激しい頭痛に苦しみだす。
「つっ、角っ、私の! 俺の角がっ……頭の中がっ、情報が……勝手にぃ……ッ! やめ、やめりょ、ひゃめ……ッ!」
やがて舌が回らなくなり、立っていることもままならなくなったように崩れ落ちる。しばらく悶えた後、ぴたりと天使の動きが止まる。
虚空を仰ぐ瞳。
「はひゃ」
そして笑いだす。
「はひゃひゃ。っひひ。はははははは。ひひひひひひひひひひ」
獣人は肩を蹴り、再び天使を転がす。天使は笑うのを止めない。
「なぁんらってんらよぉ、おまえら」
おもむろに天使が喋り出す。呂律が回っていない。しかし天使は構わずに不明瞭な言葉を口にする。
「ようやくわかっひゃお。おまえらがなにかんがえてふかって、ぜーんぶ」
「……」
「おまえらも、おれとおなひだ。あいてがじぶんたちとおなじらってしりながら、なんのためらひもなくころす」
血混じりの涎が飛ぶ。
「だから、おれはまひがってない。こんなばしょにくれば、だれあってそうなふ。おまえらもおれをめちゃくちゃにしたくてたまらない。そうだろお?」
「……」
「ころしたり、ころされたり、やったり、やられたり。ぜーんぶすきほうだい。うひゃ。いま、ぜーんぶわかっひゃ。な、たのひいだろ。これが、ほんとうの“ゲーム”りゃ。な。な? ひ、ひ、ひゃっ、ひゃひゃひゃひゃひゃ!」
笑い出すなり、天使は身体を起こして勢いよく掴みかかってきた。獣人の一体が冷静にそれを避け、足を払い仰向けに転倒させる。
「ぐふ」
後頭部を打ち、天使は再び地に転がされた。続けて獣人は天使の黒髪を手荒く掴み、引きずり寄せる。
――何を言っていた?
――わからん。
――それで、どうする。
――どうするって。
――こいつは狙撃手だろう。
――このまま楽にするのも惜しい。
――わかった。では行くか。
――了解。
――了解。
「ひゃひゃひゃ。でも、どうせいつかみんな死ぬ。みんな。俺も、おまえも。はは。ひっひゃひゃひゃひゃひゃ」
そして三体の獣人は狂乱に喚く天使を連れ、闇へと消えていく。
タガの外れた天使の笑い声だけが、いつまでも要塞内に響いていた。
―――
その後、レイチェルの姿を見た者は誰もいない。




