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今となってはどうでもいいことに思える。
スカーにもまた、思い出したくない記憶があった。
毎日会社に通い、同じように働き、馴染みの店で煙草をふかしつつ酒を呷ることを楽しみとする日々。単調であったが、人生などこんなものかと思っていた。
長く働くと、部下もできる。色々な奴がいた。業績はいいがスタンドプレーが多く協調性のない人間。常に自分の傍にいて、おそるおそるながら仕事だけはきっちりこなす人間。
まったく自己主張のない人間もいた。そいつは周りから良いように扱われていて、無用な仕事を多く押し付けられていた。
ある日、その部下を酒に誘った。部下はいつものように勧められるまま酒を飲んでいたが、それでも話をすることはできた。これで少しでも改善すればいい。そんなお節介を焼いてみた。
変わらない日常。ある日、それが変わった。
酒を酌み交わしたはずの、その部下の裏切り。そしてプロジェクトの崩壊。
何が起きたのか、何故そうなったのか、見当もつかなかった。
責任者には責任が問われた。多大な損失だった。
誰を憎んでいいのかも分からなかった。考え抜いても答えは出なかった。
どこを向いても闇しか見えなくなった。
やがて、なにもかもがどうでもよくなり、自ら命を絶った。
何が原因だったのか。落ち度はあったのか。どうすればよかったのか。
今となっては、どうでもいいことに思える。
―――
目の前で銃弾を浴び、スカーは倒れ、そして動かなくなった。
隊長であるはずのスカーを、アリスは容赦なく撃った。ミントのように混乱の中で向けたものとは違う、それはまったく躊躇のない引き金だった。
「改めて自己紹介しよう、クレイジーボアだ。喋る獣人を見るのは初めてだろう」
動く左腕でリボルバー拳銃を抜き、クレイジーボアはアリスに語る。
「私がクレイジーだとするなら……さしずめ、お前は“冷血”アリス、と言ったところか」
アリスは小銃を構えたまま、真っ黒な瞳でこちらを見据えている。すぐさま撃つ気は感じられない。今のところ。
「罪の意識? いや、違うな。天使を撃ったことで、少なからず“エラーが生じた”か」
長くは持つまい。
「敵や味方である前に、我々には共通項がある。陳腐な言葉でいえば“魂”がある。造り物ではない、どこかから移された魂がな」
これは、誰かの手により仕組まれた、何も知らぬ魂同士がぶつかり合う戦場。
「この戦争の根幹を成すルール。それが魂の存在」
天使も獣人もそうして狂い、葛藤し、戦い続けていく。故にどんな猛者であっても戦いの中で成長して強くなる過程がある。初めから強い者など、いない。だが。
「だが、お前にはそれが無い。姿こそ天使だが、他の者とは決定的に違う」
アリスの存在は、云わば“チート”だ。
いかな禁忌を冒したか“初めから強い”“最強系天使”を生み出す為の明確なルール違反。
「魂を偽装し、潜り込まされた天使。あるいはこう呼び換えてもいい。――“bot”と」
―――
いまだアリスは微動だにしていない。
「……だが、一つ気になるところがある。お前は言った。“私を見るな”と。――それは、偽者の、作り出されたものではない……本来の記憶か?」
その瞬間、ぴくり、とアリスの身体が動く。
クレイジーボアは察する。無からbotを作り出せるとは思えない。複製? 改竄? いずれにせよ、そうであるならばベースにした個体があるはずだ。優秀な戦闘能力を持つ天使の、元の魂があった頃の記憶がきっとある。単なる憶測。しかし今はこれに賭ける。
「目を覚ませ。本来のお前に。命令に従うだけの紛い物ではない、その感情を思い出せ」
銃口を下げぬまま、クレイジーボアはアリスの目を見つめ、じりじりと近寄っていく。その目の奥は未だ深い闇に包まれており、心を読み取ることは出来ない。
「……は」
アリスが口を開いた。
「私……は」
いけるか。
「そうだ。もっと思い出せ。お前は機械人形などではない。本当の、お前自身が心の内に秘めたものの正体を明かせ」
互いが互いを知り得ぬ戦場。倒すべき、排除すべき敵とだけ教えられ、ただ衝動と本能のままに戦う戦場において、説得はもっとも縁遠い行為だ。いつの頃か、クレイジーボアはそれを志しはじめた。戦わず、お互いが分かり合うことでこの戦争を解決するという“狂気”に目覚めた。狂っていると罵られても構わない。糸口があれば、誰であれ説得できるはずだ。例え歪な紛いものであっても、一片の心さえあれば。
そうすることでしか、この連鎖は止められないと信じた。
「私は」
「お前は誰だ」
おもむろにリボルバーをホルスターに納め、クレイジーボアはさらに近寄っていく。
「……私……」
「命令や役目ではない、お前自身の心はどこにある」
「私……を」
きゅう、とアリスの瞳孔が縮まる。
「――私を見るな」
クレイジーボアが跳んだ。懐まで一気に距離を詰め、膝を繰り出してアリスの小銃を弾き落とす。さらに間髪入れず、その腕を掴んで捻りあげる。
「私を……私を……!」
「違う! 飲まれるな、アリス! 抗え! 封じ込められた魂を解放しろ!」
「私を、見るなあ!」
「お前の心はどこにある! 本当の心は!」
暴れるアリスの腕をぎりぎりと締め上げながら、クレイジーボアは耳元で叫ぶ。締め上げるたび、自らも肩口からの出血がひどくなっていく。意識が霞む。だが倒れるわけにはいかない。誰だ。幾多の魂を偽りの身体に込め、非道な戦いの場に放り込もうとしているのは誰だ。この少女の魂を傀儡にして冒涜したのは一体誰だ。
「言え!」
「……は……」
「答えろ、アリス!」
「……は、い……じょ」
骨を外す音がして、アリスの腕がクレイジーボアからするりと抜けた。
「――排除します」
跪かせるようにクレイジーボアの膝裏を蹴り、その流れのままアリスはホルスターからリボルバーをかすめ抜く。銃口がクレイジーボアの頭頂部に押し付けられる。
「命令変更。“任務の邪魔をする者は全て排除します”」
慣れた手つきで撃鉄を起こし、アリスは一瞬の迷いもなく引き金を引いた。
―――
要塞内は静けさを取り戻した。
地面には、天使と獣人の死体が一体ずつ。
眉一つ動かすことなく、アリスは外した肩を元に戻す。
手にしたリボルバーを無造作に投げ捨てる。倒れた天使からホルスターをいくつか取り外し、自らの身体に巻き付ける。後腰部と右太腿に一丁ずつ。マガジンを取り外し、弾薬の種類も気にせずに詰め込む。遠くに滑り落ちた小銃を拾い、スリングを肩にかける。
動かなかったはずの羽をふわりと動かし、右掌を見つめ、ゆっくりと開閉する。
――自分は何者か。
思考エラー。思考する必要性は無し。
ノイズを上書きするように、命令を繰り返す。
任務の遂行を最優先。邪魔をする者は排除。
はい
エラー。
アリスはその場に倒れ込み、すうすうと眠りだした。
その寝顔は、まるで無垢な天使のようで。




