待ち人に寄り添って
木々の葉が全て落ち切る前に私の心に強烈な色を持って開いたこの気持ちを、なんと言えばいいだろう。いくら美しい言葉で表そうとも、きっと澄むことはない。素手で触れられるほど優しい感触でもなければ、滑らかな曲線を描いているわけでもない。
けれど、それは私の中で何よりも優先すべき欲求であった。優先されるべき感情であった。熱を持って息づくそれは、次第に私の中心に棲まうようになった。決して丁寧に育んだわけではない感情は、当然のように荒々しい。そして信じがたいほどに雄々しいものだった。
私の心の動きは、愛と呼んで差支えのない感情であった。けれど世間はそれを許さないだろう。
私にそれを与え賜うた人は、隣で絶えず慈愛の笑みを浮かべている。私の想いとは違い、その人の愛は、今や誰にでも平等に降り注ぐそれ。私はこの笑顔にいくらの価値も含まれていないことを知りながら、その人の無価値の愛すらも有難く受け入れ、深く深く息をする。
自分だけに特別な感情を向けてもらおうなどと、神に求めるのが贅沢なのだ。そう考え、目を伏せる。
彼女の名は萩野纒。
彼女を端的に表すならば、殺人者だ。
纏さんに出会ったのは、地元での友人であった男が亡くなったときだった。気のいい男で、家が近所だったというだけの私ともそれなりに仲良くしていた。あの男の唯一にして最大の欠点は、浮気癖が酷いことだ。昔からずっとそう。
彼とは、自分が地元を離れて十年ほど疎遠状態であったが、亡くなる数年前に同県に引っ越してきたことを彼自身から聞いて知った。夜の街で会った彼は、べろべろに酔っていて、腕には真っ赤な髪の毛とそれに負けない真っ赤なルージュの印象的な女を抱いていた。ただし、その女の顔までは最早私の記憶にはない。
酒と香水の匂いがぶつかり合って、向かいの私の元に届く。二人の間に漂う性的な匂いとしか思えず、居心地が悪かった。
久しぶりだな、という彼の言葉に、私はとりあえず最も気になったことを問う。
「何故こんな田舎まで出てきたんだ。君の柄じゃないだろうに」
至極当然の疑問だった。彼は都会が似合う。華やかな雰囲気も、恵まれた顔立ちの良さも、私の神経に訴えてくる情報が、途絶えることなく切々と語っていた。彼に田舎は不釣合いだ、
「それがさあ、嫁の地元がこっちで、仕方なく戻って来ざるを得なかったっていうか。最後の血縁者だっていう父親が危篤だって言われたら、帰って来るしかないじゃん?去年亡くなったから、もうあっちに帰っていいかなって俺は思うんだけどね」
彼はそんな言葉を、腕に女を抱きながらのたまったのだった。その女は、彼の喉元に鼻を擦りつけてだらしなく笑っていた。その赤髪の一本一本に至るまで全身に、彼との今夜……私とこのまま別れてから数時間後にいるであろうベッドの中での出来事にしか関心がないといった感情が通っている。確信した。彼女は彼の妻ではない。
その後、彼らと別れてから、彼の憐れな妻のことについて少しだけ考えた。彼はあのふしだらな赤い女と今晩過ごすのだろう。彼の女癖を、彼自身が妻に打ち明けていないとは考えにくい。なぜなら、あの男はそういう男だからだ。全てを知りながら結婚したのか、結婚してから全てを知ってしまったのかはともかく、今夜に限っては彼の妻は、彼の帰らない理由を知りながら彼の帰りを待っているのだろう。彼の遊び相手は、今日一緒だった赤い女のような、だらしなさと気怠さが女の不可侵さで、自分の売りだと信じているような女だと決まっている。けれど彼の本命は、真面目で頭の良い女性であるのが常であった。もう一度思う。あのような男と結婚した頭の良い女性など、憐れであるとしか言いようがない。
その夜以降、生きた彼と会ってはいない。次に彼と会ったとき、彼はもう真白な顔を小さな窓から覗かせているだけだった。生前は鮮やかな明るさを振りまいていた茶髪も、死んだ今となっては魅力を醸し出さないことを私は知った。
私はこのときも、冷静な頭で「本当に死んだのか」と思うしかなかった。職業柄、遺体を見ることは珍しいことではない。
何故か、大勢いた彼の友人に混ざって自分のところまでも彼の訃報が届いた。そこで私は、ようやく彼の妻を見ることができたのだ。
それが、喪服に身を包んだ纏さんだった。
驚いたことに、私は彼女を見たとき、一瞬でこう思ったのだ。――ああ。彼は……萩野は、この女に殺されたのだ。
纏さんは、薄化粧に喪服でも十分に綺麗な人だった。数年前、彼と夜の街で会った際に一緒にいた女とは全く違う。その隙のない美しさは、白い項からですら色気が滲んでいたほどだ。彼女と結婚してなお治らない浮気癖なら、いつか他の女関係で別の死因を作ってしまっていたかもしれない。もう死んでしまっても仕方なかったかもなあ、と不謹慎なことを考えた。
葬儀の後日にも、私は彼女を訪ねた。理由は自分でもわからない。ただ、後付けに理由として、彼の弔いのための花を購入した。包んでもらいながら、自分は一体何をしているのだろうかと仄暗い気持ちになった。彼に対しての思い入れがそこまであったか。心の中で反芻した。あったとは言い切れないし、なかったと心中ですら認められない卑しさが更に厭になって、小さく首を振った。
呼び鈴を鳴らした。大きな家だ。彼は、妻の父親が危篤だからこちらに住んでいるのだと言っていた。ひょっとするとこの家がその父親の所有していた家で、ここが彼の妻の実家なのかもしれない。
呼び鈴の音から数十秒で彼女は現れた。相変わらず黒い服を纏っている。もう喪服ではなかったが、彼女の気持ちは喪に服したままなのかもしれない。
けれど、その姿を見ても私は確信していた。萩野を殺したのは彼女だ。
「どうぞ」
私のことを、夫の葬儀に参列した旧友だったと記憶していたのだろう。彼女はすんなりと奥に通してくれた。その対応は勿論、私の手にしていた花束が無関係であるはずはなかった。
通された先は仏壇だった。
「そうか、萩野は死んだのか」
今やっと気付いた言葉は、ぽろりと唇から零れた。幼い頃、当然のように近所で大将をやっていたあの男は、もうこの世のどこにも存在しないのだと。ここでようやく実感として押し迫って来たのだ。
後ろに立っていた纏さんは、私に何も言わなかった。自分の後ろに彼女の気配を載せて、私は彼の仏壇に線香をあげた。手を合わせると、ここで私ははじめて彼を悼んだ。
その後、彼の仏壇から背を向けると、
「荻野は、死にました」
自らも噛みしめるように、彼女はそう囁く。我々は、彼の詩を受け入れ切れていない最後の二人だったのかもしれなかった。葬儀でわんわん泣いていた彼の元遊び相手や、萩野先輩には世話になったと妻である纏さんに頭を下げ続けていた彼の仕事先の後輩などより、ずっと遅れた感情だった。
「あなたと主人との関係を、お聞きしてもいいですか」
彼女は私に尋ねた。丁寧な言葉遣いだが、そのアクセントはこの地方のものであった。
「地元の友人です。いえ、あの葬式に来ていた彼の友達に比べれば、『友人だった』というのも申し訳ないくらいの、友達でした。何年か前に、たまたま萩野に会うことがあったので、この街に住んでいることはかろうじて知っていた程度の関係で」
「……そうでしたか」
彼女は数回頷いた。彼の友人の幅は広く、私はその中でもかなり付き合いの浅い方に入るはずだ。彼女はそのような浅い関係の人物も、あの葬儀でたくさん見ただろう。
数分、沈黙が続いたが、あまり煩わしい静けさではなかった。私と彼女が「彼の死」という事実から測って、同じくらい遠い距離に立っていたからかもしれない。
これは主人を亡くした女の、憐れな独り言だと思ってくださっていいのですが。纏さんはそう前置きして、呟きを漏らした。
「主人は、交友関係の広い人でした。私とは違う。住む世界の広い人で、私は結婚してこれまで、そんな彼に守られていました。彼には、どれほど幸せをもらえていたか知れません。……今になって、私は彼を幸せにできていたか、毎晩考えるのです。答えは、いつも否」
――私は、彼を幸せになどできなかった。
「怖いんです」
纏さんの顔色は失せていて、本気で何かに怯えているように見えた。更によく見ると、下唇が震えている。
「夜が、怖い。この広い家で、一人になるのが怖いんです」
父が亡くなり、夫を亡くしたこの家で、纏さんはとうとう一人になった。彼女はその事実に、涙を流して絶望する。その悲観は、まるで予期せぬうちに訪れた不幸のようで、見ている私の同情を誘った。そう、彼女が彼を殺したという事実。それを知っている私でさえ彼女の不幸を悲しんでしまうほどに、その涙は完璧だった。
私は、胸ポケットに挿していた淡いブルーのハンカチを彼女に差し出す。彼女は私のその動きを見て、僅かに瞳を揺らしたが、大人しくハンカチを受け取った。
「……ありがとう」
そして、そのとき彼女の瞳の奥に揺れていた『何か』は、確実に私の心を揺さぶったのだ。
私はその後も、纏さんの元に通い続けていた。呼び鈴を鳴らすと、瞬き数回の内に彼女は姿を現す。何度見ても彼女は黒い洋服を身に着けていて、一言目もいつも決まっていた。
「どうぞ」
その決まりの一言は、私の心を薄い喜びのヴェールで包んだ。纏さんは、私を当然のように迎え入れる。私の来訪を知るより前から、そこに立っているのが私だと確信して玄関の扉を開けている。今の彼女の元に何度もやって来るのは、私だけなのだ。つまりその喜びは、後ろめたさと同時にやってくるのだった。
私たちは、とりたてて何かを話すわけではない。萩野の仏壇のある座敷という同じ空間で、二人して黙っているだけということがほとんどだった。時折、彼女と目が合う。不意に視線が交わろうが、隙なく、纏さんは微笑んでいた。彼女にとって、その意味のない微笑みこそが正しく真顔と呼べるものであった。少なくとも私と知り合ってから私の知る限りは。
彼女の微笑みには何の価値もない。それを知りながら、私の心は、自ら勝手にその価値を生み出したがっていた。
纏さんの笑みは、どこか暗く、悲しいものだった。明るさなどない、温かみもない、けれど湿り気があるといったものでもなく。……いつしか、私はそれをうまく表現することを放棄した。言葉では言い表せない笑みは、彼女がなにかを待っていることだけを伝えている。
そう。私は漠然と、彼女が「待っている」ことに気が付いていた。
今日も私は彼女の家の呼び鈴を鳴らす。萩野家に数日毎に訪れ始めてから、二ヶ月目になっていた。
姿を見せた纏さんは、やはり黒い服を着ていた。薄紅のグロスを張った唇が開く。
「どうぞ」
私は彼女の後ろに続いて、仏壇に向かった。そこに手を合わせてから後ろに座った彼女に向かうと、私はふと思った。
――そうだ、彼女を殺そう。
突如降ってきた選択肢だったが、目の前の霧が一気に晴れたような開放感が私を襲った。そんなこと、今視線が彼女を捉えるまで一切考えたこともないものだった。今まで……この家の呼び鈴を鳴らすまで、この仏壇の前に座るまで、いやむしろ萩野に手を合わせているときまでは思い浮かぶことのなかったものだった。頭に降って湧いたそれは、この上なく素敵なアイデアに思えた。
右手で纏さんの腕を掴み、左手で頭を抱え込んで庇うと、彼女を押し倒した。倒してみてから、このまま殺そうとしている相手の頭を庇う滑稽さに笑いが込み上げた。
そのまま、纏さんの喉元に手を伸ばした。彼女の項は、どんな生物も惹きつけそうなほど魅力的で、光が当たると眩しさすら感じた。けれど初めて触れた首筋は、やけどをしそうに熱くて、今更ながらに彼女の生の感触まで知ったのだった。
全ては今更だった。もうどうにもならない。私は首を絞めるために彼女に覆いかぶさっているのだから。
「やっと、殺すのね。私を」
何か、聞こえたような気がした。それは、自分の真下にいる女の声で、私は押し倒した「彼女」が生きていたことに驚愕した。纏さんを殺そうとしているくせに、その彼女が今はまだ生をもった生き物だということを見落としていたようだった。
私は恐々纏さんの顔に焦点を結ぶ。
私のカミサマは、やはり笑っていた。
「私は、やっと許される」
「……は、」
「少し、少しね」
纏さんが手を伸ばして、私のスーツの胸ポケットの中を探る。至近距離で纏さんが動くと、柔らかな香りが私の全身を伝って駆け抜けた。ポケットから、ハンカチを避けて彼女が掴みあげたのは、黒い手帳だった。
「あなたは、使命を全うするつもりなのかとも思っていた」
彼女は、私から取り上げた警察手帳を、片手でひらひらと弄んだ。私は観念した。元より、聞かれれば誤魔化すつもりは毛頭なかった。
「使命だなんて。なんでそんなことを?」
「警察の人が、何度もここに来た。私が、旦那を殺したんだろうって、そう言って。あなたは、いずれ私のことを捕まえるのだと思っていました」
私は感覚で彼女が夫を殺害したのだと考えたが、警察は状況から、彼女を犯人にしたくて仕方がないようであった。あの男はそれだけの理由を彼女に持たせて死んでいたし、死因も家の中で感電したことによる「事故死」といった、不自然すぎる変死であったためだ。
しかし、思うような証拠も集まらなければ、彼女が犯人でないということをはっきり立証してくれる証人まで存在したので、彼女はこうして捕まらないまま私の目の前にいる。
「そんなわけは」
「そんなわけはなかったようですね。勿論そのことにもすぐ気付きました」
彼女は目を細めた。強請るように私の右手に自分の喉元を押し付けてくる。無表情と同義だったはずの微笑みはその瞬間、見たこともないほど蠱惑的だった。私はつい赤面した。
同時に、駄目だと思った。
「どうかしましたか」
ぱたりと手を下ろした私に、心底可笑しなものを見たとでも言いたげな目で纏さんは問うた。
「纏さんは、こうして殺されかけてなお、私を殺したいとは思わないのですか」
「思わない」
瞬きする間もなく、即答された。そのまま、纏さん自身が理由を告げる。
「だって、私が愛しているのは主人だけだから」
告げられた言葉は、問いの答えとはどこか噛み合わないものだったが、私はその答えを正確に受け取ることができてしまった。つまり、そういうことなのだ。
私は彼の仏壇を見やった。私の旧知の友人で、纏さんの夫であった萩野。彼の浮ついた女癖を、彼女はどこかで許せないと感じていたから彼は殺された。なぜ彼を許せなく感じたかと言えば、纏さんがあの男を愛していたからなのだ。
そして男が死んでも、彼女の心は彼に属したままで。
もはや、私の中に芽吹いた殺意は喪失していた。
纏さんは、私の瞳の中にあった青い炎が完全に消えたことを敏感に察知していた。仕方なさそうな様子を浮かべた彼女は、やはり笑っていた。
私が下ろした右手を、彼女の両手が握る。手だけは想像以上に冷たくて、もう私は纏さんが生きているのか死んでいるのか考えることさえしたくないと思った。
私の手を握った纏さんは、少し困ったように私に呼びかけた。
「あなたさえ良ければ、また、来て。待っているから」
待っているから。そう、彼女は待っているのだ。
あの広い家で、夜に一切帰ることのない夫の帰りを待っていたように。私の来訪を。彼女を愛する者の訪れを。
私が彼女に死を差し入れする日を今か今かと待っているのだ。
この日、私はどうやって彼女の家から帰路についたのか全く覚えていない。全ては夢のようだったが、右手の中には彼女の熱い首筋も、現実離れした手の冷たさも、記憶として刻み込まれていた。私の中にいきなり目覚めた殺意もまた、一旦萎んだだけで、また花開くときを待ち望んでいるかのようだった。
けれどもう、私は纏さんを殺すことはない。
私はこれから数日後、おそらくまたあの大きい日本家屋の呼び鈴の前にいる。喪に服した、愛する神様を見て、うっとりとした気分に浸りながら、彼女に殺された夫の仏壇の前であの価値のない笑顔を享受する。
ああ、私は彼女の手に掛かって殺されたい。
纏さんが私を殺すとき、私は初めて彼女の中に存在した愛の形を認識できる。その形を先に確認したであろう萩野に、抱いてはならない種類の羨望を抱いている。
彼女の愛。それは、どんな味がするのだろう。どんな匂いで、どんな温度を持っているのだろうか。
私はその瞬間を、これからもずっと待っている。彼女に殺されるために、この先を生きていく。
彼女に殺される瞬間を、幸福と仮定する。