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明日が来ても来なくても

作者: 蝮原狐狸

 今日も終電で帰る羽目になった。都会の終電は乗客で満杯なのだろうが、田舎の終電にはほとんど人がいない。と言うか、この車両には誰もいない。そして1両編成なので、要は乗客は自分しかいない。ワンマンなので車掌もいないし、運転手がいるのかどうかさえ自信がなくなる。外は真っ暗闇だ。もう少し走ると遠くに街の灯が見えるはずだ。しかし、街の灯と言ってもスカスカで都会の夜とは訳が違う。はるか彼方にひどくなった虫歯のようにまばらなネオンが見えるだけである。


 田んぼの真ん中の駅に到着した。こんな夜中に、と言ってもまだ20時台なのだが、もしここで何かが乗ってくるのであれば、それはきっと狐狸妖怪の類か幽霊か奇人変人である。この車両は自動ドアではなく、乗客が自分で開けるシステムだ。しかも、ボタンではなく引き戸を開けるように自分でこじ開けるタイプだ。初めて見たときは面食らったが暖房効率はいいようなので案外まともなシステムだと思うようになった。夏は冷房がなく扇風機のみなのであまり関係がない。


 半分うとうとしながら、今日あった出来事を振り返っていた。今日の反省を明日に活かすための大事な作業だ。その明日が来ないかもしれないなんてことは考えたこともなかった。


 今朝から社長は機嫌が悪かった。実は彼は本当は社長ではない。ただの会長のドラ息子で平社員だ。しかし、何故か社長という呼び方を強要する。本当の社長は体調を崩し、山の中にある鉄格子のついた病院に入院中だ。この会社の業務内容は「まずいコーヒーを味の分からない客に高額で提供する」ことで、社長という呼称

はあまりそぐわない。しかしマスターと呼ばれるのはイヤなようだ。会長は現社長の父親で、元社長は社長の兄貴だ、要は家族経営の小さな小さな喫茶店なのである。数万円の資本金があれば十分開店できそうなしょぼさだ。営業許可の存在だって怪しい。たまに缶ビールを出しているが、アルコールを提供するのには何らかの許可が必要だった気もする。

 本物の社長が淹れたコーヒーは美味しかった。しかしニセ社長の淹れるコーヒーは安売りのインスタントコーヒー並である。一緒に提供する軽食だって、小学校の調理実習の方がまだ美味しいのではないか、という気がする。そんな喫茶店で客の注文を聞き、注文されたメニューを伝え、それを客の席に運び、客が帰ったあとはテーブルを拭くのが私の仕事だ。


 お昼になると、社長は黙って車で数十分の寿司屋に行った。その間、店は私しかいなくなる。ランチ時だというのに客もいない。持参した弁当をカウンターの奥でほうばる。今日は社長が還ってくるのがやたら遅かったので電話を入れたら、オカマを掘って警察の取り調べを受けているところだった。帰って来てからの社長はますます機嫌が悪くなっていた。本来機嫌を悪くするのは被害者の方ではないだろうか。被害者は停車していたということなので、一方的に社長が悪い。しかも被害者側の方が高い車だったのでますます不機嫌だ。

「停まっているのが悪いんだ。カローラなんか乗りやがって、こんな田舎で高級な車に乗ったっていい笑いものだじゃないか。だから県外ナンバーはイヤなんだよ」

とぼやいていたが、駐車場というのは車を停める場所なので被害者には何らの落ち度もない。カローラも私の中では高級車という認識はない。


 社長の機嫌は直らないまま閉店時間になった。今日来たお客さんは2人。そのうちの1人はただ道を聞きに来たサラリーマンだった。何もしていないので片付けは楽である。先月のバイト代を貰って私は帰途についた。裸のお札をバイト代として手渡す人にはここで初めて会った。しかも

「お釣りある?」

ときた。給料くらい耳を揃えて用意するのが本当ではないだろうか。友達に相談すると

「そもそも私のところは銀行振込だから・・・」

と言われた。

 正直このバイトは辞めたい。別のバイトで生活は十分賄えているし、もっと出勤日を増やしてくれとも言われている。そこはとある有名企業の支所で、社員の皆さんもきちんとしているし、仕事のやりがいもある。同じバイト仲間もみんな素性の知れたまともないい人達だ。給料もきちんと支払われる。間違ってもお釣りが出るような形で手渡されることはない。寿司屋だってちゃんと連れて行ってくれたり、折り詰めのお土産をいただけたりする。

 

 いつまでもあんな貧相な喫茶店であんな社長の下で働きたくない。

「今日こそはやめてやる」

と毎日思っている。でもやめられない。どうしても辞めると言い出せない。自分でもどうしてか分からない。


次の日の午前中は有名企業の支所での仕事だった。ここではごく当たり前のことであるが、挨拶をして返事が返ってくるというのは何てステキなことなのだろう。喫茶店の社長に挨拶をしたって何も返ってこない。下手すれば「おはようございます」に「こんばんは」、「お先に失礼します」と言えば「オレのが先だ」と返ってくる。早くに結婚して子供を産んだ友達の保育園児の長男に言うことがそっくりである。ちなみに友達の旦那さんは社長より20歳は若い。


 さっそく作業を開始すると、社員さんが椅子ごと近寄って来て言った。

「この前の話、考えてくれた?出られる日増やしてくれると助かるんだよね。時給も上げるからさ」

ここではどうやら私は信頼性のある人間だと思ってもらえているようだ。だが、私がここで頑張れるのはみんなが

「ありがとう」

「お疲れ様」

と言ってくれるからだ。

「再来月からなら大丈夫です。よろしくお願いします」

と言うと、社員さんは満足そうに頷いて

「ありがとう、本当に助かるよ。よかったぁ」

と言い、椅子を漕いで自席へ戻って行った。 社員さんが近くの人に何かを言ったらしく

「よかった」

「助かった」

というつぶやきが聞こえてくる。私の出勤日数が増えるだけでこんなに喜ばれる。本当だったら明日からでもここに集中したい。それなのに再来月とつい口走ってしまった。 自分でもどうしてか分からない。


 一段落すると、休憩してよいと言われたので自前のマグカップにコーヒーサーバーからコーヒーを注ぎ、休憩室でそれをすすった。 喫茶店の社長が淹れたコーヒーより美味しい。割りとコーヒーにうるさい社員さんがいて、彼女が毎朝セットしてくれているのだ。 朝早く出勤たとき、彼女が自分のためだけのコーヒーを淹れていて、ご相伴にあずかったことがある。ただのドリップコーヒーでもこんなに美味しくなるのかと目が覚めたような気持ちになった。いつかカフェみたいなのがやれたらな、と言っていたが今にでもやれると思う。絶対にあの喫茶店よりはマシだろう。しかも店主は美人だ。


 午後からは喫茶店の仕事だ。もうここに来るのも来月いっぱい、いや、今からでも辞めたい。そう思いながらドアを開けると目に飛び込んだのは、ビニール袋に入った真っ赤な肉だった。

「シカ?」

「やる」

「どうも・・・」

いや、きちんとお礼の言葉ははっきり言わないと。有名企業の支所で学んだことだ。

「ありがとうございます!おじいちゃ・・・じゃなかった会長が?」

「そう」


 ここは超弩級の田舎なので裏山にシカだのイノシシだのが出るのは日常茶飯事だ。それでどうしてかは知らないが、会長はそのイノシシやシカを狩りに行くのだ。そして解体した肉を分けてくれるのだが、最初にイノシシ肉を貰ったときはどうしたらよいか全然分からなかった。塊の肉をどうにかしてバラして焼いてはみたものの、硬いわ、臭いわで食べられたシロモノではなかった。実は今でもどうしたらよいのか分からない。こういう肉を使った料理はジビエ料理というらしく、お店でいただくといい値段であるということだ。幸い、料理好きな友人がいつもどうにかしてくれるので、またお願いすることにしよう。嫌がらせで地元の友達のところに送るのもいいだろう。以前イノシシを送ったときは文句を言いつつも、ネットでレシピを調べてイヤというほど堪能したようだ。


 「釣ってきた」

と、社長が急につぶやいた。

横にはクーラーボックスがあって、中には立派なクロダイが入っていた。社長は仕事を放棄し全てをこのバイトの私に押し付け、釣りに行くことがしょっちゅうだ。 今日も午前中は店を閉めて釣りに行っていたようだ。どちらかと言うとシカ肉よりクロダイの方に興味があるのだが、どうせ社長は何も分けてくれないだろう。しかし、それは仕方がない。このクロダイは十中八九社長の仲間が釣ったものだからだ。おこぼれをいただいたにしては立派だが、社長に何か弱みでも握られているのだろうか。

そして、そこから15分間は社長によるありがたい訓話が続いた。喫茶店には全く関係のない、江戸時代のここいらは武士の刀と釣り竿は同等であり云々という試験に出ない日本史だ。もう何度同じ話を聞かされただろうか。どうせお客が来ないからといえど、どうして私はこんな話を聴き続けなければならないのだろうか。そして偉そうに道具について語る社長だって、実際はものすごく安い道具ばかり揃えているらしい。いや、こんな社長にはそもそも道具なんてのは必要ない。素潜りでもしていればよろしい。泳げないのなら田んぼでザリガニでも釣ればいい。

 

 もうやめてやる。絶対に今日でやめてやる。本来なら2週間前に言わなければならないらしいが、こんな店に私がいる必要もない。そして社長がいる必要もない。シカ肉持っておさらばだ。そして、明日にでも有名企業の支所に電話して、出勤日数に関して相談しよう。今日からでも出勤日数増やせるってそう言おう。


 心の中に何か凶悪なものが生じた瞬間、店の扉が開いた。ジャリンとドアのベルが不協和音を奏でる。そこに立っていたのは元社長だった。鉄格子のついた病院はどうなったのだろうか。


「酒」

たった一言つぶやくと元社長は近くに合った椅子に腰かけた。元社長はちょうど2ヶ月前に山の中の鉄格子のついた病院に入院した。任意入院というやつだった。 退院するとは聞いていない。しかも手ぶらで服装もまるでパジャマのようだ。脱走でもしてきたのかと思ってしまう。

 「 酒。酒持って来いって言ってんだろ」

と元社長が机を叩いて私を威嚇する。 しかし、私の一存で酒を出すわけにはいかない。いくら私より地位の高い経営者と言えど、アルコール依存症で入院するような人間に勝手に飲ませるわけにはいかない。ここは現社長の判断を仰ぎたいところだ。しかし、現社長の方が私の方をチラチラと覗いてくる。

「どうしたらいいの?」

といった風情だ。 こんな判断までバイトにさせようというのだろうか。この男に意思決定能力というものはないのだろうか。よくそれで経営者としてやってこれたなと思う。いや、やってこれてないからこのザマなのか。こんな場面をお客に見られたら相当大変なことになるが、どうせお客なんて来ないからそこは安心である。

 

 「社長・・・」

一瞬自分でどちらに話しかけているのか分からなくなった。2ヶ月前まで社長と呼んでいた男とその後社長になった男。兄弟なので顔までそっくりだ。

「社長のお兄さん。お酒って病院はどうしたんですか?入院されてたんじゃないんですか?」

答えは分かりきっているが一応質問してみた。

「うるせぇ、あんな辛気臭いところはやめてやったんだ、早く酒を出せや」

「やめてって・・・。退院したわけじゃないでしょう。どうやってここまで来たんですか」

元社長の入院しているはずの鉄格子の病院からこの店までどう考えても15キロは離れている。最近出来たバイパスを使えばもう少し距離は短縮されるだろうか。

「金もないから歩いて来たんだ。あいつら俺の金を返さねぇんだよ。なぁ酒飲ませろよ」

酒を飲むために15キロを歩いて来たというのか。これが依存症か。早く病院に連絡した方がいいのだろうか。しかし、私が何故そこまで面倒をみなければならないのか。今日で辞めるんだからこんな兄弟どうでもいいのだ。今日までの給料さえ貰えればもう本当にどうでもいい。


 「バイパス歩いたの?」

現社長が言った。

「あぁ。あれがあると早いのな。歩きだけどな」

「バイパスって歩いていいのかよ?」

問題の本質とは大きくそれた質問をする弟に

「んなこと今はどうでもいいだろ」

と案外まともな返答をする兄。私も同じことを考えた。アル中と同じ思考回路なのかと思うと大変気分が悪い。

「あ、これオヤジの?」

と、元社長が私のシカ肉に手を伸ばした。さっきまで特に欲しくもなかったものでも、こんな人間の手に渡るのかと思うと所有権を主張したくなる。

「それは私がいただいたんで私のシカ肉です」

「シカ肉なんていらえぇよ、だから酒」

と元社長は私の方にシカ肉を押しやった。そう言われるとこちらもそんなにシカ肉が欲しいわけでもないことを思い出す。この場で一番気の毒なのは誰にも欲してもらえないシカ肉、もとい殺されたシカであろう。私は心の中でシカに手を合わせた。


「何回酒って言わすんだ。早く持って来い。テメェ、クビにすんぞ」

元社長が怒鳴った。それだ。そのことを言いたかったのだ。言おうとしたら元社長が急に現れて言えなくなってしまったのだ。しかし、果たして今言ってよいことなのだろうか。労働三法に抵触しないだろうか。私の不利になってしまったりはしないだろうか。どさくさに紛れて辞めるというのは問題があるのだろうか。しかしチャンスは今である。クビにすると言ってくれているのだ。引き止められるよりはお互いに気持ちよくさよなら出来るというものだ。最後にシカ肉のボーナスがあったとしても罰は当たらないだろう。法的に何か問題があるのならシカ肉くらい諦める。


 「そのことなんだけど」

おもむろに現社長が切り出した。向こうからクビにされるというのも気分が決していいわけではないが、穏便に辞められるなら全く構わない。早くあちらに明日からでも出勤日数を増やせると連絡しなければ。再来月なんてあやふやなことを言ってしまったことはきちんと謝罪しよう。そして指示を仰ごう。

「オヤジにいつまであんな物騒なものを持たせておくんだ。そろそろオヤジだって耄碌してる。潮時だと思うんだよ。」

「まぁな。それは俺も考えていた。だけどよ、あのオヤジがそう簡単に諦めると思うか」

「でも何かあってからじゃ遅いだろ。ものがものだけに」

「そうだよな、オヤジだけの問題じゃないからな。もし人様に何かあったらなぁ」

 

 今まで、シカ肉やイノシシ肉をたんまりいただいて来たのだが、どうやってその肉を手に入れているのか、どうしてシカやイノシシが命を落としたのか、あんまり考えたことはなかった。会長が山へ狩りに行って獲ってくるものだと思っていた。しかしまさか素手で仕留めていたわけでもあるまい。犬じゃあるまいしエサで手なづけて連れてきたとも思えない。

 私は幼い頃に読んだ子鹿物語を思い出していた。大きくなりすぎたフラッグに耐えられなくなったジョディのお母さんが、そして最後にジョディ自身が手を下すという話だ。愛玩動物としてかわいがっていたフラッグを殺すという選択はジョディにとって過酷なものであっただろう。それを息子にさせるお母さんだって思うものがあったのだろう。しかしフラッグを殺さなければ一家は生きていけないのだ。幼い私は

「そもそも野生のシカを拾ってくるのがダメなんじゃないか」

と思ったが、それを伝えると当時の担任教師が怒りまくった。両親が私の意見を肯定してくれたので惨事には至らなかったが、そうでなかったら水鉄砲でも乱射したかもしれない。だが、それこそ今はどうでもいい。

 

 問題はじいさんだ。会長だ。この間アクセルとブレーキを踏み間違えて自宅にあった植木鉢を倒したばかりではないか。外でやらなかっただけマシだがとんだ耄碌じいさんである。そのじいさんにそのような危険な道具を持たせてよいのだろうか。耄碌じいさんが狙いを外しても誰も困らない。せいぜいじいさんの機嫌が悪くなって奥さんや新旧社長が扱いに手こずるくらいである。だが耄碌じいさんも狙うつもりのなかった動物、つまりは人間に当たったらどうしてくれるんだろう。この間見た医療ドラマで

「ここには銃槍を扱ったことのある医者がいない」

と言っていた。確かにそうだろう。この平和な日本において銃撃なんてそうそう聞く話ではない。特にこんな田舎の病院にそんな経験のある医者がいるとは思えない。そうなったら最近導入されたドクターヘリでどこか都会の大きな病院に搬送されるのだろうか。都会にシカやイノシシと間違えられるような患者はいるのだろうか。そのまま何の手も施されずに出血多量で死ぬのだろうか。少なくとも私はそんな死に方はしたくない。もし生き残っても体に銃槍が残ってしまったらお嫁に行けない。映画のように体を反らせて銃弾をよければいいのかもしれないが、私は人一倍身体が硬いのだ。恐ろしい。社長たちののんびりした口調がもどかしかった。


 「会長にはもう持たせない方がいいと思います」

口が滑ったとしかいいようがない。私はとうとうこのしょうもない一家の地域で一番下らない問題に一歩いや体全体で踏み込んでしまった。 しかし、会長のような耄碌じいさんが世にも恐ろしい凶器を持ってふらふらしているなんて許されていいはずがない。ショットガンそのものが凶器なのではない、あの会長が手にするから凶器なのだ。そのうち冬が近くなり、獲物を失った会長が里に降りてきて、善良なる一般市民をシカやイノシシと間違えて、嗚呼想像するだけで脚が震える。私なんぞはクマと間違えられて問答無用で射殺されるかもしれない。

 しかし、この一言が余計だった。

「そうだよな。君もオヤジを説得してくれよ、タイジのときは本当に世話になったしな」

という、新旧社長のありがたいお言葉により、私はこの一家の家族会議の参加資格を再び得てしまった。

 

 タイジというのは現社長のドラ息子だ。現在20歳で地元の飲食店で働いている。安くてうまいので評判の定食屋だ。女友達は多いが誰も彼女にはなってくれないらしく、もてるのかもてないのかよく分からない。それなりにスタイルもよくグッドルッキングガイなのであるが、やはり頭が女性との交際を阻害しているのかもしれない。タイジは高校時代に荒れて、毎晩のようにクリスマスツリーのような電飾をつけたバイクで田んぼを貫くロングストレートを駆け抜けていた。進級さえも綱渡りだったタイジはこの世のありとあらゆるモノに唾を吐き、肩をいからせすぎてひどい猫背と戦う羽目になってしまった。計算の出来ない彼の出席日数を数えて無理矢理学校に行かせていたのが父親である現社長だったが、ノロウイルスで寝込んだ彼はタイジの出席日数を数えられなくなってしまった。そして、快復した現社長を待っていたのは

「全教科で平均点以上を取ることが卒業の条件」

という高校からの無情な通知であった。

 タイジは平均点以上など取ったことがなかった。そもそも平均というものが分からなかった。100点が1人、50点が2人、平均点は何点かという質問に、意気揚々と50点と答える。そんなタイジを心配した父親は、彼に家庭教師をつけるという札束を溝に捨てるような暴挙に出た。しかし、授業中にタバコを吸ったりすぐにご自慢のクリスマスバイクで脱走してしまうので、何度も家庭教師の交代という憂き目にあった。このような家庭には派遣会社もまとなな人材は派遣したがらない。仕方なく現社長は喫茶店に間違って入り込んだ学生らしき女性に破格で家庭教師をしないかと持ちかけた。その学生らしき女性が私だ。

 

 提示された時給と送迎に食事付きという条件に負けた私は、次の日からタイジの家庭教師として仏間で彼と対峙することになった。 まずご飯を食べてからタイジの勉強をみる。このご飯が最高だった。品数は豊富だし、量もたくさんあるし、デザートまであった。近所は農家ばかりなのでお米も野菜も絶品だった。何せさっき精米したばかりのお米を炊くのである、美味しくない訳がない。海も近いので魚もさっきまで海を泳いでいたような新鮮さだ。見た目とやっていいることに合わず、タイジは箸使いがとてもうまかった。聞いてみると、母親が厳しかったのだという。その母親はその時にはもう逐電していて、家事の一切を仕切っているのが会長の奥さん、つまりタイジの祖母だった。

 まず勉強の前にやらなければならなかったのが、タイジに勉強中の喫煙を止めさせることだった。これが原因で多くの先生が辞めていったらしい。

「ちょっと女性の先生にはタイジみたいなようなガキはキツかったみたいでね。怖いと思われちゃうんだよね」

と社長はぼやいていた。ならば何故私に白羽の矢を立てたのか詰問したかったが、まずはタイジをどうにかしなければならない。ここでは詳しく言えないが、タイジにいくつかの火傷の痕を残し、タイジは喫煙自体をやめた。


 タイジとの勉強は大変辛いものがあり、私も何度も逃げ出そうと思った。しかし、やはり高給と魅力的な食事からは逃れなかった。タイジも頭は悪く、態度も悪いが、根っからの悪人ではなく、どちらかと言うと小心者の部類であった。あんなにいきがって自己顕示欲の塊のようなクリスマスバイクを乗り回していても、やはり高校を卒業できないというのは怖かったらしい。就職活動も進学準備もしなかったため、当然卒業後の進路は未定であったが留年して1個下の学年ともう一度3年生をやるという悪夢にうなされよく眠れず、その翌朝クリスマスバイクで田んぼに落ち、バイクを乗り回すのもやめた。

 タイジはよく頑張ったと思う。何とか卒業試験で全教科平均点を取り、無事に高校を卒業できる運びとなった。しかし、それより私が驚いたのはタイジの料理の腕だった。会長の奥さんがちょうど留守だったときにタイジが食事を作ってくれたのだが、それがあの美味しい奥さんの料理よりさらに美味しいのだ。多分知識などではなく、野生の勘なのであろう、全ての食品の扱いがパーフェクトで味付けも素晴らしかった。だしを鰹節と昆布からとる男子高校生が彼以外にいるだろうか。

 

 タイジが卒業資格を得れば私はお役御免のはずだった。しかしタイジは調子に乗って、大学に進学したいと言い始めた。タイジのような者が進学できるような大学があったとしても、そんな大学は進学する意味がない。祖父と祖母と父親と叔父とタイジの家族会議が連夜開かれた。そこに、大学に進学した経験のある者がいないという理由で私がアドバイザーとして招かれた。

「現状のタイジくんでは大学には進学できないと思ってください。少なくとも浪人する覚悟が必要です」

「自宅で勉強するのを宅浪と呼びますが、皆さんご存知の通りタイジくんには無理です」

「ここらへんには予備校はないので隣県に出るしかないと思います」

「タイジくんは数学が壊滅的です。英語も壊滅的です。国語に至っては日本人だとは到底思えません。案外字がきれいですが入試には関係ありません。チャンスがあるとしたら数学のない私立理系です。数学の代わりに国語がありますがマークなので全部3を塗れば何とかなるかもしれません」

その時点で半泣きのタイジには悪いが、お金を出すのは大人たちである。いくらあとで返済すると言っても急に数百万の出費なのだ。タイジが考えているような甘い金額ではない。バイト代をほとんどバイクのクリスマスツリーに費やしてきたので、タイジ自身も参考書一冊を買うにも3日間お昼を抜かなければならないようなお財布事情だった。家族会議の結果、タイジは進学を諦めた。ただ伝で今の定食屋に勤めることができた。まだ1年目にしてずいぶんと責任のあるポジションを任されたとのことだ。


 タイジの一件で何故か大人たちに気に入られた私は、タイジが卒業してからはタイジの父親の喫茶店でバイトをするようになった。当時はまだタイジの父親の弟、つまり今の元社長が中心にやっていた。その頃は客は今よりはいたが、やはり閑古鳥は毎日のように鳴いていた。コーヒーは美味しかったが一杯あたりの値段が高すぎたのだ。一度飲んでくれれば通ってもらえる味なのだが、何せ高いのでまず店に入ってもらえなかった。有名企業の支所に紹介してくれたのは会長の奥さんだった。喫茶店がこの体たらくだというのを知っていたから、そこは考えてくれたのかもしれない。そして私の勉学はというと、5年で大学を卒業予定である。その後は院に進学するつもりなので、この喫茶店をやめて有名企業の支所での仕事を増やし、生活費や学費を稼がなければならない。育英会の奨学金が4年しか貰えないなんて知らなかった。


 とりあえず、今日はもうお客も来そうもない。ということで早々に店を閉め、会長の説得に向かうことになった。今日のお客さんはゼロということになる。私はシカ肉を胸に店を出た。

「タイ、持って行けよ。で、酒。車で飲むから」

と元社長が言った。クロダイは私が貰ってもいいらしい。私はクーラーボックスにシカ肉を放り込んで後生大事にそれを抱えた。クロダイをくれるというなら話は別だ。ビールを何本か元社長に手渡した。

 昨日オカマを掘ったのであまり運転したくなさそうな現社長の車に乗り込んで、我々は会長とタイジがいるかもしれない、懐かしい彼らの家へ向かった。会長の説得が終わったら電車があるうちに喫茶店を辞めることを話して、挨拶をして、帰らなければならない。それには会長の説得を手早く片付けなくてはならない。やはりお前の存在が凶器なのだとはっきり言ってやるのが得策であろう。元社長はビール片手に上機嫌だ。


社長たちの家は田舎の一軒家で、無駄に巨大である。都会でこのような家を建てたら数億では済まないかもしれない。それでも何せど田舎なので土地はただ同然、建物にいたってはいつ建てられたかも分からない古さであるが文化財レベルになるまではまだ時間がかかる、そんな面倒な家だった。土間はあってもフリーリングは存在しない、トイレにいたってはようやく簡易水洗になったと半年前くらいに元社長が喜んでいた。その前は幼いタイジも一度転落した危険なトイレであった。 当然のことながら隙間風はひどいし、扉という扉の建付けが悪い。家の中に人間とペット以外の生き物、多くはは爬虫類や昆虫が入ってくることは日常茶飯事だ。


 そんな家の庭、庭というにはおこがましいただの広場に車を停める。会長が植木鉢を壊してから車を停める場所は特に決めないことにしたようだ。 すると、家の中から会長が出て来た。

「お前ら揃ってどうしたんだ。あ、これから行くんだが来るかい」

これから行く、というのはどうやら狩りのことらしく、日常ではありえない派手な服を着ている。

「おい、まさかの展開だな」

と元社長がつぶやいた。残りの2人は頷くしかない。しかし、ここで会長を止めて話をしなければ私の計画は水泡に帰す。

「ちょっと会長を止めて下さいよ。社長のお兄さんがいるのに何も言わないっておかしいですよ」

「そうだな、俺が入院してるの忘れてるのかな」

「まぁこの歳になるとなぁ、息子だっていい年なんだ、入院くらいはあるわなぁ」

「でも忘れるってことはないでしょう。しかも普通の入院じゃないんですよ、アレだけ騒ぎになったんですよ。隣近所の男性陣総動員で連れてったんでしょう」

「俺は素直に従ってたのに大袈裟に呼び集めて来ただけだろう、俺は大恥をかかされたんだ」

「どこがだよ、俺、兄貴に突き飛ばされてケツに痣ができたんだぞ、なぁ」

「なぁって、社長のお尻の痣なんて知りませんよ。気持ち悪い」


 こんな2人のペースに合わせていたら日が暮れて終電がなくなってしまう。ここから駅までは田んぼの中を歩いて30分。暗くなってからはあんまり歩きたくない道のりだ。喫茶店からならまだ大きな道を通るので、とは言っても人は誰もいないが、いいのだが、できれば明るいうちに全てを済ませて帰りたい。

「あの、会長。社長とお兄さんが会長にお話があるそうです。私も報告したいことがございますのでお時間いただけませんか?」

何故、他人の私が口火を切らなくればならないのだろうか。会長も会長だが、新旧社長も本当に使えない。しかも頼みの綱の会長の奥さんはお留守のようだ。タイジは仕事だろう。 会長は何だかんだでタイジをとてもかわいがっている。タイジの進学事件の時もタイジの話を最後まで聞き、どうにかならないだろうかと悩んでくれたのが会長だった。子供より孫がかわいいというのは真実らしい。そしてタイジは本当にこの家の血筋なのだろうかと思うほど背が高い。顔もきれいな造りだが、見ようによっては少し不機嫌に見える。このタイジが一喝すれば、会長の目が覚めるかもしれない。

 

 「いいだろう、今日絶対に行かなきゃならんもんでもないしな。久しぶりに集まったんだからな」

私は元々家族でもなんでもないし、2ヶ月前までは同じ屋根の下で暮らしていたのだ。やはり何だか言動がおかしい。これが老人特有のものなのか、会長自身の個性なのかは分からないが。4人でぞろぞろ母屋へ向かおうとすると、急に目の前に影がさした。その影はフルフルと皿に出したゼリーのように震えている。

 「タイジ!今日はお休みなの?ちょっと一緒に来てくれる?」

タイジは私の目を見ようとしない。黙ってあらぬ方向を見てフルフルしている。

「タイジ?聞いてる?その耳の穴詰まってるのかな?掃除してあげようか?」

タイジが高校生の頃に私がそれは厳しく絞ったため、タイジは私のことを恐れるようになってしまった。一方的に怒鳴られ威嚇され言動の全てを把握され嘲笑され罵倒され。まっとうな人間関係ではなかった。しかし、今では私だって普通に接しているというのにこのザマとは。やはり血は争えないのだろうか。しかしここはタイジにも頑張ってもらわないとならない。


 懐かしい仏間を抜けて、広大な座敷に5人で座った。誰に言われることもなくタイジがお茶とお茶うけを用意してくれた。ずいぶんと気が利く大人になったものだ。接客を経験したことで一般的な饗応というものを身に付けたのだ。その父親と伯父も接客業なわけだが、それはそれ、これはこれにおくべきだろう。元社長は焼酎だの日本酒だのつまみだのと喚いてる。つまみだけなら、とタイジが立ち上がって台所に消えた。

「裏山での狩りのことなんだけど」

と、酒の勢いを借りた長男が切り出した。そうだ、そこは長男が口火を切るべきだ。やればできるではないか。よし行け。

「オヤジもそろそろ・・・これから寒くなるからな」

そこで口を濁すのか。前言撤回。やっぱりこの長男はダメだ。

「じいちゃんだってもう年なんだ。そろそろ銃を持って山に入るのはやめなよ。じいちゃんだけの問題じゃないだろ。じいちゃんだってわかってんだろ。認めたくねぇのはわかっけど」

タイジだった。そう言いながら美味しそうな匂いのするお皿を並べるタイジはやはり立派になった。親や伯父が言えないことをきちんと言える立派な青年に成長したのだ。


 「やっぱりいかんか。そらそうだな。俺もそろそろのんびりしたことやろうかな」

会長があっさり認めた。あまりにもあっさり認めたのでタイジ以外は拍子抜けしてしまった。 それをよそに会長が隣の部屋から文箱を持ってきた。螺鈿細工を施したいかにも旧家に伝わっていそうな高級そうな文箱だ。

「絵手紙でもやってみようと思ってな。通信教育というのはどういうものなのかね。どうやって教わるものなんだ?」

文箱の中にはよく書店で買い物をすると付いてくる通信教育講座のビラが数枚入っていた。 その下にはいかがわしいお店のクーポンが隠れていた。この歳になっても女性の臀部の呪縛から逃れられないとは何と憐れな老人であろうか。会長は狩りに行く服装から着替えていないので、まるで赤いちゃんちゃんこを着せられた還暦祝の老人のようであった。祝いにしては少しワイルドがすぎる気もするが。そんなじいさんが絵手紙などと言い、風俗のビラを隠している。相応なようで相応でない。おかしくて仕方がなかった。


 「ならいいんだ。イノシシやシカはもういいから。絵手紙でも描いてヤギにでも送れ」

と、元会長は言いながらつまみを食べていた。しかし一口食べるごとに酒とつぶやき、もう一口食べると酒を怒鳴る。タイジは私に首を振った。無視せよとのことらしい。さて、会長の一件は具体的な話には進んでいないが、一応決着した。 ヤギとは山羊なのだろうか、それとも八木氏であろうか。もうでもそんなことはどうでもいい。会長が狩りをさよならしたように、私だって今日でさようならなのだ。でもその前にタイジの作ってくれたつまみは食べたい。タイジの料理は本当に絶品なのだから。タイジは味の分かる男だ。惣菜とつまみの味付けを変えることくらい朝飯前だ。きっとつまみ用に少し濃い味付けになっているだろう。ぜひ酒とともにいただきたい。

 すると、私がつまみに箸を伸ばしたのを見ると、タイジがまた立ち上がってビールを持って来た。何て優秀な男だろうか。背も高いし、スタイルもいいし、顔もいい。どうして彼には彼女が出来ないのだろうか。やはり小さくて形の良い頭の中身が少ないからだろうか。将来性がないからだろうか。もともと将来もへったくれもない会長や新旧社長はどうでもよいが、タイジだけはこれ以上この一家の血栓が出来そうなドロドロの血に染まらずにいて欲しいものだと心から思った。 


 結論から言えば、私は無事に喫茶店を辞めることが出来た。辞めたいと告げると、新旧社長はがっかりした顔をしたが、タイジに当然だろと吐き捨てるように言われ、もう何も言わなかった。元社長は私のビールを横取りた上に土蔵に隠しておいた酒を見つけ出して浴びるように飲み、また近所の男性陣総動員で鉄格子のついた病院に送り返された。そんな騒ぎが終わってみればもうあたりは真っ暗だった。





 

 その夜は終電には乗らなかった。会長の奥さんが気を利かしてそのまま泊めてくれたからだ。家がやたら大きいので1人くらい泊めるのはどうってことないのよ、と笑っていた。私はこの人に一番感謝すべきだと思った。この人のお陰で有名企業の支所で働くことが出来て、そのおかげで喫茶店を辞めることが出来たのだから。

 現社長のクロダイはタイジが美味しく料理してくれた。 どうやら本当に現社長が釣り上げたらしい。私は今でもあの時のクロダイの味を思い出す。その時までも、そしてその後も何度もタイの類を食べる機会に恵まれた。それでもあの時のクロダイの味はしっかり覚えている。タイジが言った言葉も。

「先生、クロダイみたいな人間ってどう思う?」

 もうその時既に酔っ払っていた私には意味が分からなかった。

「何よ?よくわかんないけど出世したいの?頑張れ!それとも魚人間?妖怪?うひゃひゃ」

と言って、タイジの背中をバシバシ叩いた記憶がうっすらある。


 今なら分かる。あんなにルックスがいいタイジに彼女がとうとう最後まで出来なかったこと、クロダイの生態、タイジのきれいな爪。仕事柄というのもあったのだろうがそれだけではなかったのだ。今のタイジは私の知っていたタイジではないという。会長や新旧社長のようにはならなかったのだから、それでもよいでのはないかと思う。タイジが血の滲むような苦労をして開いた店は、その界隈ではママはさることながら料理まで美味しいと大人気だそうだ。あの喫茶店よりはずっとよい。一部の人間にとって、かもしれないが、とにかく存在意義がある。


 新旧社長はその後も細々と喫茶店を続けた。正式に鉄格子の病院を退院した元社長は甘いものに走り、体重が2倍になったそうだ。しかし、以前コーヒーに傾けた飽くなき追求心をスイーツに向け、少しは喫茶店の人気も出るかと思われた。実際に私の友人も食べに行って、美味しい美味しいと絶賛していた。しかし二度と行く気はないと言う。お店の雰囲気が不気味でマスターらしきオヤジたちの愛想がこの上なく悪いと言うのだ。顔がそっくりなマスター2人がカウンターの中で口喧嘩をしていたという。最悪という言葉は彼らのためにあるのだとまで言っていた。ひどく納得させられてしまった。


 バレンタインデーにチョコを1つも貰えなかった会長は、その日とうとうショットガンを手放した。その後は通信教育で絵手紙を習ったり、何のためか分からないがラテン語を勉強し始めたという。日本語以外の言語の基礎が皆無なので数日で諦めたということだ。詩吟も習い始め、裏山のシカやイノシシは絶滅の危機に瀕し、もっと遠くの山へ民族大移動したらしい。シカやイノシシの代わりに、会長の家の裏山には「見ざる言わざる聞かざる」のうち、聞かざるがたくさん表れるようになったとも聞いた。隣県の繁華街の無料紹介所の前で会長のような翁の姿を見たこともある。


 喫茶店を辞めた次の日の午後、二日酔いに苦しみながら有名企業の支所に電話をした。明日からでも出勤日数を増やせると伝えるために。しかし永遠に呼び出し音が聞こえてくるだけだった。もしかしたらみんなで休暇でもとってるのもしれないと思って、その日はそのまんまにしておいた。私はとんだ呑気者だった。真相を知ったのは、あの椅子を漕いでいた社員さんからの電話だった。支所が火事で全勝した、ということだった。そしてそのまま支所は隣県にあった支社に統合された。

「申し訳ない」

最後に社員さんに会ったとき、彼はそう繰り返した。火事の原因は漏電ということになったらしいが本当かどうか分かったものじゃないらしい。喫茶店の給料は有耶無耶になったままだったが、こちらは最後まできちんと給料を払ってくれた。私は職を全て失った。学生だからまだ笑って話せるが社会人であったら本当に笑えない。私は学校のアルバイト斡旋や友達の紹介を駆使して、何とか元の1.5倍の収入を手に入れた。会長の奥さんも生活物資をたくさん下さった。特にお米は本当にありがたかった。


 死なない限り明日は誰にでも訪れる。その明日の内容は今日の自分が決めることもあるし、決められないこともある。生きている人間に平等なのは明日があるということだ。会長はもう残り少ないが、奥さん、元社長、現社長、タイジ、そして私に与えられる明日はこの先もずっと平等である。明日が来ても来なくても、会長一家のいい加減さは変わらないし、これまで人様にかけてきた迷惑は帳消しにはならない。それでも明日の存在だけは平等なのだと思うとやる気が出なくなった。それでもきちんと耳を揃えた給料は気持ちが良かった。


 院を出て、就職のために上京するとき乗った特急は田んぼの真ん中をひたすら駆け抜けて、会長一家の自宅の最寄り駅をあっという間に通過した。夜のことで外は真っ暗だったが、彼らの家、裏山、喫茶店、全てが見えたような気がした。遠くに輝く虫歯のような街の灯にも入れない光は、見えないけれども確実にそこに存在し、存在意義さえ分からない人々を照らしているのだった。この微かな光が一家にとって、特に会長の奥さんとタイジにとって、いつまでも暖かいものであるように、私は祈った。






 就職してからの私は自分が人間であることを忘れていた。周囲に人はたくさんいるのに、誰の声も聞こえず、誰のことも目に入らなかった。全てがパソコンのファンの音に聞こえる。そこに交じるエラー音がやたら大きく響く。チームリーダー、PM、そして客に頭を下げている時でさえ、誰に何を謝っているのか分からなかった。ここでも無意味に信頼されたらしく、先輩には与えられなかったサーバールームの入室カードを貰った。サーバールームにはほとんど誰も来ない。会話は全てメッセンジャーだ。会話のための言語はとうに忘れ、黙々と機械語を用いて機械に命令を下し下される日々だった。サーバールームに篭っていれば暑いのかも寒いのかも分からない。肩こりや目の痛みだけが自分が人間である証だった。

 そんなある日、チームメンバーの声が聞こえてきた。

「ねぇねぇ、このお店知ってる?今度スノボ行くんだけど、近くにすっごいいい感じのカフェがあるの。でも地図を見てもよく場所が分からないの。あっちにいたことあるんでしょ?わかる?」

彼女が示したのは、よくあるガイドブックの比較的大きな記事だった。

「分かりますけど、これは雪道の運転に慣れてないときついかも」

「そうなの?」

「ちょっと小さな道に入るんですけど、そういう道って除雪されてないんですよ。だからカフェならこっちのページに載ってるバイパス沿いのお店の方が私はオススメかな。駅からも近いし、駐車場も広いし。昔っから有名ですし、いいお店ですよ、美味しいです。雰囲気も好きだと思う。レトロとか好きでしょ?」

チームメンバーは大きく頷いて

「楽な方がいいな。雪道やっぱ怖いもん。レトロ好きだし、サンキュ。ここ行ってみる」

と言った。私は雪道に慣れないであろう彼女のことを考慮して答えを出した。慣れていないのが分かっているのに無理をさせるべきではない。決してガイドブックの記事の内容云々で答えたわけでない。


 彼女が示した記事には見覚えのある喫茶店の全景と還暦のちゃんちゃんこ状のジャケットを羽織った店主のスナップが踊っていた。会長だった。知りたいことはたくさんある。問い正したいこともある。人の声が聞こえるようになった。人の姿も見えるようになった。私は人に仕事を頼まれ、人に仕事を頼むようになった。ガイドブックは信用出来ないこともよく分かった。

 春にはこのチームでの仕事も一段落つく予定だ。休日出勤した分や有給も貯まっている。休暇を取ろう。そして懐かしいあの店へ行ってみよう。ちょっと高くてなかなか入れなかったけど特別な日に行ったあの店。バイパス沿いだから入りやすい。


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