恋愛小説
短編3000文字シリーズ第11弾
親友からの「飲み会」の誘いを断った僕は「はぁ? バカじゃねぇの」と呆れられた。断った理由が、彼にしてみればどうやら信じられなかったようだ。
「待てよ、お前はマジで言ってるのか? 誰だかっていう作家の文庫本が本屋に並ぶ日だから行かないなんてのはな、飲み会を断る理由にならねぇんだよ」
「でもホントにそうなんだから、仕方ない」
待て待て、落ち着け、と言いながら彼は、自分が落ち着く為に冷蔵庫から缶ビールを取り出した。人の家の冷蔵庫から勝手にビールを取り出すのはどうかと思うが、十年来の付き合いで今さら言う事でもない。
「オレはな? 一昨年彼女と別れてからずーっと一人身のお前を心配して、わざわざ飲み会を企画してやってるんだぞ?」
「僕はお前のそういうとこ、好きだよ」
「そりゃどうも……って違うだろ。なんで断るんだよ、お前は」
「だから言っただろ? その日は――」
「新刊の発売は理由にならねぇって!」
わぁわぁと喚く親友に苦笑しながら、僕は内心で「理由は他にもあるんだけど」と呟いた。残念だけど親友の厚意には答えられそうもないのだ。
朝八時四十五分。毎朝一分の誤差もなく最寄りのバス停にバスはやってくる。
僕はバスに乗り込むと、毎朝必ず後ろから二列目の窓側の席を見る。彼女はいつもそこに座っていた。
毎日乗っているバスにいつから彼女がいたのかは分からない。彼女の存在に気付いたのは偶然だった。
その日は土砂降りの雨で、道が混雑していたせいもあったのだろうが、珍しくバスが急ブレーキをかけた。と言っても少し体が前のめりになるくらいの可愛いものだったが、それに気付かなかったのか、真ん中の通路を挟んで横に座っていた女性が小さな声を上げた。同時に手元から文庫本が滑り落ちるのが見えた。
あ、と思わず声を出しそうになった。彼女が読んでいた本と同じ本をその時僕も読んでいたからだ。
文庫本を拾おうと、彼女が屈むのと同時にバスは大きく右に曲がり、慣性の法則に則って文庫本が僕の方へ滑ってきた。小説ではこうした、ありそうで無い出来事から恋愛がはじまったりするものだが、僕は思わず自分の持っていた本を隠した。
文庫本を手に取る。岩崎緑子、作者の名前が目に入る。正統派恋愛小説を書く昔から大好きな作家だが、高校の頃教室で読んでいて女子にからかわれた経験がトラウマになっていた。とっさに見られてはいけないと思ってしまった。
手にした文庫本を返すと、彼女は「ありがとうございます」と不器用に頭を下げた。三つ網に結った長い髪が肩口からポロリと落ちる。黒縁の眼鏡の奥で恥ずかしそうに伏せられた目が印象的だった。
それからというもの、バスに乗るたびにいつも同じ席に座っている彼女の事が気になった。手にした本はやはり僕の好きな作家と同じで、どうやら彼女もその作家のファンのようだとわかる。同じ本を同じタイミングで読んでいる、それこそまるで小説の中の出来事のようだった。
声をかけてみようかと思わなかったと言えば嘘になる。でもなんと声をかけたらいいのかわからなかった。
「はぁ? お前バカじゃねぇの」
すっかり酒のすすんだ親友は先ほどと同じセリフをもう一度、言った。しつこく理由を訊く親友に根負けした僕が「気になる人がいる」と言ったからだった。
「そんな理由で、ほぼ一年も声かけるタイミングをスルーしたのか?」
「そうは言っても僕にとっては多感な時期に負った心の傷なんだけど」
いいか! と酔った親友が突きだした人差し指が勢い余って僕の額に突き刺さった。
「タイミングってのはな、無限じゃねぇんだよ」
人差し指をグリグリと押し付けて親友はなお続ける。
「お前がつまんねぇ過去の記憶を引き摺って行動を起こさないでいるうちに、もしかしたらその女の子は違うバスに乗り換えちまうかもしれねぇんだぞ」
つまんねぇ記憶は消しちまえ、と人差し指で僕の記憶を貫くかのように強く押し出して、親友は残った缶ビールを空けた。
朝八時四十五分。一分の誤差もなく最寄りのバス停にバスはやってくる。
僕はバスに乗り込んで真っ先に後ろから二列目の窓側の席を見た。が、そこにいるはずの彼女の姿は無かった。彼女の存在に気付いてからの一年でその席に彼女がいないのは初めてだった。
たまたま休みなのかな? 軽い気持ちでいつも座る席に腰をおろし、親友にバカ呼ばわりされながら断った飲み会の日に買った文庫本を取り出す。今日こそ、彼女が同じ本を持っていたら声をかけよう。そう決心して持ってきた文庫本の最初のページをゆっくり開いた。
ゆっくりと読み進めた小説はオムニバス形式で、ちょっとしたファンタジーをきっかけに主人公達が恋を始めていった。それは、例えば病院でたまたま同じ場所を怪我して入院していたり、逃げ出した飼い猫が運命の相手を連れてきたりするのだが、あり得ないような出来事の中でも、主人公たちはちゃんと行動を起こし、自分からきっかけを作っていた。
短い話を一日一話のペースで読んでいくうちに、なるほど親友の言う通り、この主人公たちはタイミングが無限ではない事を知っているのだと分かる。それはきっと作者がそう知っているからに他ならない。彼女があの席から消えてから一週間。とうとう最後の話になって初めて僕は限りなくあったはずのタイミングを全て逃してしまった事を悟った。
最後の話のタイトルは「BUS STOP」
主人公の女の子はいつも同じバスに乗るスーツ姿の男性の事が気になっているのだが、なかなか声をかけられないでいる。そんな書き出しだった。
まるで僕じゃないか、おもわず苦笑が漏れる。
続きに目をやると、バスがゆっくりと減速し、普段はほとんど止まらないで通過するバス停にゆっくりと停車した。
珍しい事もあるものだと、前方に目をやると乗り込んできたのは髪の短い女性だった。黒のスーツをカッコ良く着こなした、キャリアウーマンといった言葉が似合う雰囲気だ。僕の知る限りこのバスで見かけた事は無かった。
女性は乗車券を取るとゆっくりと車内を歩き、前の席が空いているにも関わらず彼女が座っていた席に迷わず座った。走ってきたのか、少し息切れしているようだった。
どこでも座り放題のバスでなぜわざわざそこに座るのかと少しムッとしたが、僕が腹を立てるのは筋違いだと思いなおす。あの席が彼女の物と決まっているわけでもないし、今後彼女があの席に現れるとも思えなかった。
「岩崎緑子、お好きなんですか?」
静かな車内で突然声がして僕は顔を上げた。横を見るとスーツの女性がコチラを見ていた。
え? と声を出す前に女性が鞄から取り出したのは、今僕が持っている文庫本と同じものだった。
「ホントはずっと前から訊こうかなって思ってたんですけど、なかなか声をかけられなくて」
そう言って恥ずかしそうに目を伏せた女性は、髪は短いし、メガネもかけていないが、間違いなく彼女だった。
「就職が決まって、引っ越ししたのをきっかけに忘れようかと思ったんですけど、これを読んだらやっぱり声をかけなくちゃって思って」
彼女は文庫本に目を落として、言った。僕がこの架空の女の子に共感したように、彼女もまた共感して、もう一度バスに乗る事にしたのだ、と。
「僕もあなたがこの本を読んでいたら声をかけようと思ってたんです」
作者の名前が見える様に文庫本を顔の高さまで持ち上げる。すると彼女は嬉しそうに笑った。
そしてゆっくりとバスが動き出した。
なかなか3000文字に収まらなくて時間がかかりました(笑