6 群青の悪魔
北大陸西部、ロラアン国某所。
翌日になっても空は昨日に引き続き灰色一色で、ねずみ色の空からは今にも雨粒が降り落ちてきそうな気さえした。窓際のベッドに腰かけて本を読んでいる探偵にひと言声をかけ、フランリーは外に出る。探偵はなにも言わずに目線だけでフランリーを見送り、フランリーは歩きながら昨夜に探偵から教わったことを思い出す。
森に住むという群青色の悪魔。探偵とはまだそれほど付き合いは長くないが、フランリーが彼と出会ってからまず最初に学んだのは、なにかわからないことがあれば探偵に尋ねればいい、ということだ。フランリーは浅学で発想力もなければ頭の回転も鈍い。そんなフランリーでも、それだけは間違いがないと断言できる。
この町の住人たちは刈人を悪魔と呼ぶが、その正体は約五千年前に絶滅したと伝えられている、ヒト型カルセットの一種らしい。悪霊でも悪魔でもない、絶滅前もごく少数しか生息を確認されなかった希少種だが、この世に存在するれっきとした生物なのである。
人間の子どものように小柄な体格だが、人間と同程度の知能と理性、そして人間以上の身体能力を持つ亜人。人間と同じく言語や道具を当たり前に使う。とくに刃物の扱いに長け、すなわちその技能は生命を絶つという一点に特化している。
そして刈人は、人間にその存在を認知されてから絶滅に至るまでの期間のうち、一時は人間と共存できていたそうだ。それには刈人という種族が持つ習性が関係しており、人間側が刈人を危険視し糾弾したことがきっかけとなり一族は絶滅に至った。そしてその生き残りが今、森に住む悪魔として人々を怯えさせている。
だが刈人は悪魔ではない。悪魔などではない。
宿を出たフランリーが向かったのはその刈人がいるという森だ。昨日と同じ道を通り、同じ場所から森に入る。刈人に出会った者はその多くが命を落とす。そうまで言われてフランリーが森に入ったのは、その刈人のことが気になったからだ。気になって仕方がないから行くのだ。ではなぜ、なにが、そこまで気になるのか。そんな疑問を抱き、かつ明確な答えを出せるほどフランリーの頭が丈夫なら、そもそも彼は森に入ったりせずに探偵の指示を待っただろう。
老婆と話した場所まで辿りついたとき、フランリーは異変に気付いた。ゆるやかな風に乗って流れてきた、覚えのある匂い。人間より鋭い五感を持つ吸血鬼の、吸血鬼であるがゆえに繊細に嗅ぎ分けることのできる匂い。思わず足を止めて息を呑んだ。
「血の匂いがする」
かすかに感じる喉の渇きは焦燥からくる緊張のせいだ。右膝の関節が前に出るのをためらうようにぴくりと震え、しかしなにかに突き動かされるかのように走り出した。とてつもなく嫌な予感がする。森の中の影は目に優しく、匂いだけを頼りに前に進む。匂いの発生源を発見するまでに時間はかからなかった。
花畑の真ん中に、小さな人影が倒れていた。
乱暴に踏み荒らされた花と、乱れた地面から覗く土が痛々しい。仰向けに倒れたままの小さな体が起き上がる気配はない。手元に落ちている作りかけの花冠は一度強く握りしめたせいで花が潰れてしまい、既に萎れかかっている。腹部に大きな裂傷があり、それが致命傷となったのだろう。あたりには子どもの血液特有の甘く瑞々しい匂いが充満していた。
荒れた花畑に一歩足を踏み込む。脳裏にちらつくのは遠い記憶の中で笑っている、かつて同じ時をすごした少女――エリスの幼い姿だ。今そこで倒れている少女とはなんの関係もないと頭ではわかっているが、フランリーは全身に汗をかいていた。杞憂に終わってほしかった現実が、一切の容赦なく目の前に広がっている。
足を前に進めるたび、靴の下で草花がくしゃりと音をたてて潰れていく。その音と感触が、今このときだけはやけに強く感じられる。そうしてフランリーがゆっくりと近付く間も少女はぴくりとも動かない。当たり前だろう、出血量が多すぎる。既に息がないことは明白だ。重い足どりでなんとか少女の隣に立った。白いワンピースはべっとりと赤く汚れており、フランリーは思わず目を逸らす。
なにかで腹部をえぐられたような、あるいは喰いやぶられたかのような傷だった。今この場にある光景とはなんの関係もない記憶が頭の中でフラッシュバックする。夜。寝室。振り回される手斧。今は夜ではないし、ここは屋内ですらない。殺されているのは大人でもなく、この事態を引き起こした張本人は斧すら持っていないはずだ。
喉が渇く。
頭の中を切り替えるようにあたりを見まわしてみた。この場に漂う血の匂いの中には、人間ではない別の生き物の匂いがまぎれている。人間以外の匂いがするのだ。荒れた地面をよく見ると、地面に生えている花の葉や花弁に血痕がある。少女の傷口から飛び散った――のではなく、少女の血を浴びたなにかが、死体から離れて去っていくときについたようだ。
森の奥へ進む。どこへ向かえばいいのかはわからない。ただ漠然と、花畑で嗅ぎ取った残り香と血痕は森の奥に続いているような気がしたのだ。少女のことは探偵に知らせるべきだろう。だが、今すぐそうするべきなのかどうかはわからない。ただ、少なくとも少女の死体を見たからと言って、大急ぎで町に知らせに戻らなければという気持ちにはならなかった。
もし少女がまだ生きていたなら、手当てをすれば助かる可能性があったなら、フランリーはすぐにでも少女をつれて町に引き返しただろう。だが変えようのない事実として、少女は既に息絶えている。なら少女の死を報せることを急ぐ意味はないだろう。それよりも、問題は少女を殺した襲撃者だ。少女の死体だけがあの場にあったということは、そちらは確実に生きている。ならば今はその襲撃者を追うことに専念するほうがいい。時間が経てば匂いが薄れ、フランリーの嗅覚では認識できなくなってしまう。そうなれば犯人を見つけ出すことはむずかしい。
花畑を離れてしばらく。おそらく五分程度しか経過していないだろう。花畑でかすかに感じた魔性の匂いがだんだんと濃くなっていく。また血の匂いがする――そう思ったとき、少し先の地面に獣の死骸が転がっているのを見つけた。なぜ死んでいるのか、どういう状態なのか、近付いてたしかめようとしたとき、草陰でなにかが動く音がした。右側だ。
足を止め、耳を澄まし、息を殺して身構える。ただの野生動物だろうか。それとも魔獣か。音は一度鳴ったきり、以降は耳鳴りがするほどの沈黙を保っている。フランリーはその場を動けず、ただじっと耳をそばだてて気配を探った。
そのときだ。
フランリーはうしろに大きく跳躍してあとずさった。一瞬前までフランリーが立っていた地面に、細長い剣が突き刺さった。刃先に返しのついた剣だ。フランリーが着地したとき、木陰から飛び出してきたなにかが目の前を横切り、地面に刺さったままの剣をさらって再び陰に隠れた。
群青色の影だった。
まさか――と、フランリーが思考をめぐらせるより先に、それは瞬きの間にフランリーの目の前まで詰め寄った。横から迫る白刃を、その場で仰け反って躱す。すぐさまうしろに跳びずさり、距離をとった。
裾の長い群青色の装束に身を包み、頭や首元にも同じ色の布が巻き付けられていて顔は見えない。人間の子どもほどの背丈は寿よりずいぶん大きく、小人と称するほどではないが小柄であることに変わりはない。横に並んで立てば、おそらくフランリーの腰にも届かないほどだろう。
「か――」
刈人。
剣を正面に構えた小人は静かに腰を落として地を蹴った。速い。咄嗟に左に跳ぶ。突き出された切っ先が肩をかすめていく。わずかによろめいた体勢を立て直そうにも、息をつく間もなく再び横薙ぎの刃が迫った。狙いは首だ。ギリギリのところで身体をひねって回避するが、これも完全には避けきれず、刃先はフランリーの首筋をかすった。
どうにか刈人の間合いから抜け出し、彼との間に距離を取りたい。しかし刈人はそんなフランリーの考えを見抜いているかのように、フランリーが彼から離れようと動けば、離れた分だけ踏み込んでそれを阻止するのだ。
刈人の動きは無駄がなく俊敏だが、攻撃自体は単調だ。まだ余力を残している可能性は否めないが、現時点ではフランリーの反応速度を超えるほどの速さでもない。勝てるか勝てないかで言えば、油断さえしなければおそらく勝てるだろう。だからといって、ならば反撃して打ち倒してしまおうと切り替えられるほどフランリーの精神は戦闘に慣れていない。
刈人は人間ではない。人間よりも小柄ではあるが、人間よりもはるかに丈夫だろう。仮にフランリーが反撃のために殴りかかったとして、それだけで死にはしないはずだ。わかっている。ありていに言えば、刈人は強いのだ。だが、頭ではわかっていても迷いを振り切れない。フランリーが相手取るには、彼は小さすぎる。
背が低く、身体が小さい。つまり手足が小さく、胴が、腕が、脚が、細く小さい。どれだけ切れ味のいい武器と、それを十全に扱えるだけの技量を持っていようと、それは変わらない。へたに手を出せば、たちまち破壊してしまいそうな気がしてならないのだ。フランリーの――吸血鬼の、それも真祖の身体能力は、およそ尋常ではないのだ。刈人がフランリーを殺すつもりで斬りかかってきているとして、フランリーに刈人を殺す気はない。
避けて、避けて、刈人の動きに隙ができる瞬間を探りながらあとずさり、なんとかこの場を切り抜ける方法を考える。この刈人は人語を扱えるのだろうか。ヒト型だからといって人間と同じ言葉を話すとは限らない。寿のようにほとんど話せない場合もあるだろう。出会い頭に斬りつけてくるほど好戦的な個体が、仮に同じ言語を話せたとして話し合いに応じてくれるものだろうか。
「か、刈人! 俺は――」
背中になにかがぶつかる。
はっとして振り向くと、すぐ背後に崖があった。刈人の攻撃を躱すのに必死で、最初に彼と遭遇した地点からすっかり離れていることに気が付かなかった。上を見る。壁はフランリーの背丈の倍ほどの高さの崖になっているらしい。刈人は好機だとでも言うように剣を構えなおし、今までで一番速く冴え渡る一撃を繰り出すつもりだ。
一閃。
無駄のない居合が放たれる瞬間――フランリーはその場で跳躍した。空を切った刃が岩肌を削り、絶壁に刺さったままで止まる。刈人が剣を引き抜くより先に、フランリーは壁を蹴ってその背後にまわり込み、さっと踵を返すと刈人の腕を掴んで小さな身体を壁に押し付けた。力加減を誤ってどこか潰してしまわないか気がかりだったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
「あの女の子は」
フランリーの手から抜け出そうと身じろぎをする刈人の動きが止まる。
「あの女の子は……友達だったの?」




