5 北方の曇り空
北大陸西部、ロラアン国某所。
太陽の光は空を覆う分厚い雲に遮られ、地上は昼間だというのに薄暗かった。夜明け近くまで降り続いた雨はしぶとく居残り、昼ごろまではときおり小雨がぱらついていたらしい。既に夕方近い時間でありながら地面はところどころ濡れていて、空気もやや湿っぽい。しかし雲や空気の流れを見るに、少なくとも探偵が外に出ている間は雨が降ることもないだろう。
ちらりと背後を見やる。フランリーはいつもの重たい黒マントに加え、シルクハットを目深にかぶった状態でついてきている。近くを通った人間や空模様を警戒してしきりに周囲に目線を飛ばしながら、はじめて足を踏み入れた町が気になるらしい。そもそも探偵と会うまで森の外に出ること自体ほとんどなかったようなので、目に映るすべてが彼にとっては新鮮なのだろう。
「た、探偵、あれはなに? 人間がいっぱい並んでる。なにか待ってるの? あ、ねえあれは? あそこにあるのはなに?」
「そわそわするな、おとなしくついてこい。今は時間がないのだ」
言いながら彼がかぶっている帽子のつばを指ではじく。傾いた帽子をフランリーはあわてて掴んでかぶりなおした。重たく濁った空からは太陽の光など差し込む気配もないが、外出に慣れないこの真祖には不安が大きいのだろう。
「だって、見たことないものがいっぱいあるよ」
「貴様がモノを知らなさすぎるだけだ。でかい図体で子どものようにはしゃぐんじゃない。そら、こっちだ。行くぞ」
構わずさっさと歩き続けると、フランリーは落ち着きなく周囲を見まわしながらもはぐれることなくついてきた。大通りから一本脇道に逸れた静かな通りに宿がある。チェックインを済ませると、探偵はすぐに出かける用意をして再び部屋を出た。フランリーもそれについて部屋を出てきたのを確認すると扉に鍵をかける。
「私と寿は依頼人のもとへ行く。貴様はおとなしく――いや、一時間ほど適当に外を歩きまわってくるといい。余計なトラブルは起こさないように、それから迷子にならないようにだけ気を付けろ」
「えっ」
フランリーが引き止めようとするのを無視して、探偵はさっさと外に出かけて行く。再度の呼びかけも意味をなさず、見知らぬ土地の見知らぬ建物の片隅で、世間知らずの吸血鬼は一人取り残されてしまうのだった。
*
部屋の前に一人で放置されることになったフランリーはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてそろそろと宿の外に歩み出た。その場を動かずに探偵が帰るのを待ち続けることも考えたが、まわりの部屋から人間の気配が感じられ、話し声や足音に身構えてしまうため、中にいるほうがかえって落ち着かない。探偵の言うとおりにして外に出ていたほうがまだ心穏やかだ。
屋外に出ると、すぐさま建物と建物の隙間に身体を滑り込ませる。大きな体を丸めて小さくなったつもりだが、それではただ悪目立ちするだけだということをフランリーはわかっていない。宿の前は人通りが少なく、太陽も顔を出す様子はなさそうだ。探偵の姿はどこにもなかった。彼は歩くのが速い。
宵闇の中を生きる夜の種族たる吸血鬼、その一人であるフランリーの視力は闇に強く光に弱い。暗闇の中で目が利く代わりに、昼の世界はひどくまぶしく見えて目が痛くなるほどなのだ。今はまだ空が曇っていて、なおかつ帽子が光避けになっているため我慢できるが、太陽が出て日が当たっている場所などは、とてもではないが直視できない。
今フランリーがかぶっている帽子は、ロラアンまでの行き道にあった店で探偵が適当に選んだ既製品だ。屋敷にあった帽子はどれもフランリーには小さくてサイズが合わず、仕立て屋に行こうにも店は夜になれば閉まる。ここ数日のリチャンは天気がよかったため、フランリーが出歩けるような日がなかったのだ。
空気の中に残った探偵の匂いを辿って歩いていく。人間と亜人の獣と紅茶の匂いがまざった、少し甘いような、それでいてさっぱりと清涼な印象の不思議な匂いだ。遠い昔にともにすごした人間の家族や、ただ同じ道を通りすがっただけの赤の他人。今までに出会ったどの人間とも似ていない独特な感覚だ。なので彼の匂いはすぐにわかる。それに寿も、魔獣であることは間違いないが、今までに出会ったことのない変わった匂いがする。
建物の陰に隠れながら大通りを眺めた。宿のある通りとは違って賑やかな街並み。そこを行き交う人、人、人。目がまわりそうだ。その他大勢の人間たちの匂いにかき消されて、ここから二人がどこへ行ったのかわからない。やはり宿に戻っていようか。鍵がなくとも部屋に入る方法はきっとあるだろう。具体的にどうすればいいのかは思い当たらないが、おそらくなにかあるだろう。
逃げ腰になったフランリーの目の前を一人の男性が横切る。その男性はフランリーのことなど気にも留めずに目的地へ向けて歩いて行くが、フランリーは彼のうしろ姿をじっと目で追った。当然ながら見知らぬ相手だ。リチャン国にある屋敷に約百年間引きこもり続けていたフランリーに探偵以外の知り合いなどいない。しかしフランリーの目にははっきりとわかった。さも当たり前のように人間の中にまざっているが、あれは昼行性の人間とは真逆の夜の生き物――まごうことなき吸血鬼だ。
気を落ち着かせ、改めてあたりを見渡してみる。道行く人々の中には、それほど多くはないものの、今の男性と同じように何人かの吸血鬼が人間の中にまぎれこんでいる。どこかに向かって歩いて行く者から、人間と楽しげに会話している者や、人間の異性と手をつないで幸せそうに笑っている者まで。人間たちが彼らの正体に気付いているのかどうかはわからないが、吸血鬼たちはなんの憂いもなく当たり前のようにそこにいるのだ。
ロラアン国には多くの吸血鬼が隠れ住んでいるらしいという噂は、リチャンに居着くより前に耳にしたことがあった。具体的なことは探偵に教えてもらったのだが、この国は吸血鬼をはじめとした亜人種族に対して寛容で、人間に害をなすつもりがないなら獣人でも吸血鬼でも構わず受け入れてくれる。街角には吸血鬼の食事用に血液パックを販売している店まであるらしい。
途端に実感が湧く。ここはロラアン国、世界でもっとも亜人種族に友好的な国だ。仮にこの場でフランリーが吸血鬼であることが周囲に知れたとして、きっと誰も気に留めない。フランリーが心配するのは天気だけでいいのだ。しかしだからといって、すぐに人目を気にせず出ていけるフランリーではない。自分のすぐ近くに他の生き物がいる――その状況がまず慣れないのだ。探偵や寿と会うのがやっとだというのに、いきなり見知らぬ人間たちが行き来する中に入り込めるはずがないのだ。
フランリーは今一度来た道を引き返し、賑やかで活気のある大通りの逆側に向かった。人の少ないほうへ少ないほうへと歩いていくうちに、視界の奥に密集した木々の頭が見え始めた。森があるようだ。憩いを求めてか、足が自然とそちらに向く。森の入り口が見えてきたところで、すぐ近くの家屋の前で木の切り株に腰かけて休んでいた老人が腰をあげ、手招きするような仕草をしながらこちらにのそのそ歩み寄ってきた。
「ちょいと、そこの。お兄さん、お兄さん」
手に持った古めかしい杖をつき、左脚を引きずった老婆だ。フランリーが気付いて立ち止まると、しわだらけの顔がフランリーを見上げ、重そうなまぶたの向こうから覗く白く濁った眼と目が合った。匂いも気配もたしかに人間だが、見た目だけなら人間なのかそうでないのかわからない。フランリーの目に年老いた人間はみんなそう見える。
「お兄さん、そっちの森には行かないほうがいいよ、危ないからねえ」
「どうして?」
老婆は両手で持っていた杖を右手に持ち替え、骨と皮ばかりの手で目の前の森を指さした。
「あっちの森にはね、おっかない『カリビト』が出るんだよ」
「かりびと?」
耳慣れない単語に首をかしげる。
「知らないのかい、人の首を斬り落とす恐ろしい悪魔のことさ」
恐ろしい悪魔――それ自体は何度か聞いた覚えのある言葉だ。無論のこと、その言葉を聞く機会といえばフランリー自身がそう言われたときに限るのだが。
「もしも出会っちまったら命はないと思いなね。無事に帰ってこれたとしても、カリビトと目が合ったり、触られたりした者には、それはそれはこわーい悪霊が取り憑いちまうってね」
「へぇ」
「わかったら、あの森には近付いちゃいかんよ。どうしてもそこに用事があるってんなら止めないけどねえ。森の近くで群青色の衣服に身を包んだ、子どもくらいの背丈の亜人を見たら、気付かれる前に逃げるんだよ」
「うん」
ロラアン国は亜人種族を受け入れているという探偵の話は真実のはずだ。しかしそのカリビトという亜人は、そんなロラアンの人々からも避けられ拒まれているらしい。いったいどれほど狂暴で凶悪な種族なのだろうか。
老婆は忠告を終えると腰のあたりをトントン叩き、ゆっくりと家の中へと帰っていった。痩せこけて肉も脂肪も底をつき、すっかり乾いて干からびているが、あれでも皮膚の下には血が通っているというのだから不思議だ。腰は曲がって足も引きずり、今にも灯火が消えそうな様相でありながら、まだまだしぶとく生き延びそうな奇妙なたくましさがある。もしカリビトが食事のために人間を襲っているなら、あの老婆が狙われることはまずないだろう。
フランリーはもう一度森のほうを見た。まだ見ぬ亜人に思いを馳せて――などという詩的な理由ではない。物音がしたのだ。誰か小さな人影が小走りで森の中に入ったのが見えた。足音は軽く、人影は小さかった。件のカリビトかと思ったが、一瞬ちらりと見えた服の裾はピンク色だった。とはいえ亜人とて着替えくらいはするだろう。老婆から聞いたカリビトの特徴とは異なる色だったからといって、それがカリビトではないという証拠にはならないことはフランリーにもわかる。
だが今のがカリビトではないなら、フランリーが見たのは高い確率で人間の子どもだということになる。森の入り口まで近付いたとき、その疑念は確信に変わった。ここを通ったのは人間だ。老婆の話が本当なら、子どもが一人で森に入るのは危険だろう。もしカリビトに見つかれば殺されてしまうかもしれない。
一度ためらうように町のほうを振り返ってから森に踏み込んだ。フランリーが住んでいる森よりも暗いのは、空が曇っているせいだろう。光に弱いフランリーの目には優しい環境だが、おそらく人間にとっては暗すぎる。木はリチャンのほうが多い気がする。
森の中にかすかに残った人間の匂いをたどって歩き続けると、ほどなくして視界がひらけた。思わず目を細める。太陽は雲に隠れたままだが、森の中の暗さに目が慣れていたところだったので、木々の影がなくなったその場所がフランリーには異様にまぶしく感じられた。
そこにあったのは小さな花畑だ。名前も知らない小さな花が、色とりどりの花弁を広げている。緑の中に広がる色彩に一人の少女が座り込んでいる。
「ね、ねえ君……こんなところでなにしてるの?」
少女がぱっと振り返ってフランリーを見た。背中まで伸びた金髪が揺れる。少女はおどろいた顔をしたまま固まって、そのまま何も答えない。フランリーはおずおず歩み寄る。
「あのね、この森ってなんだか危ないんだって。だから本当は入っちゃダメなんだって、さっき外でおばあさんが言ってたんだよ」
立ち上がった少女の手には白い花で編まれた作りかけの花冠が握られている。
「あ――あのね、あのね、あたし……おかあさんが病気なの」
「病気?」
「うん。だからね、お母さんがよくなるように、お花を持って行ってあげるの」
「お花……お花があると、病気はよくなるの?」
「わかんない……でもね、お花とかのね、きれいなものは見てると元気になるって、おかあさん言ってたもん」
「そうなんだ……」
「お花屋さんはね、おこづかいがなくって買えないから」
「でも、ここは危ないんだよ。えっと……かりびと? っていうのが出るんだって」
「おばけ?」
「うん。だから、あんまりいないほうがいいよ。お母さんが心配しちゃうよ」
「これができたらすぐ帰るもん」
「じゃあ俺も手伝ってあげる。白いのでいいの?」
「うん、おかあさんは白いお花が好きなの」
少女の隣に座り込み、白い花の茎をつまむ。爪で少し挟んだだけで簡単に摘み取れた。フランリーから受け取った花を、少女が未完成の花冠にせっせとつなげていく。フランリーが役に立っていたのかどうかはわからないが、花冠はすぐに完成した。出来栄えは少女の納得のいくものだったらしく、彼女はそれを両手で包むように大事に抱えて立ち上がる。
「できた! 手伝ってくれてありがとう、おにいちゃん!」
「お母さんに持ってってあげよう。きっとすぐ元気になるよ」
「うん!」
フランリーが森の外に向かって歩き出すと、少女はにこにこしながらついてきた。一緒に森を出て町に着くと、少女はまたありがとうと言い、自分の家のほうに向かって駆けていく。
「お花か……」
花があれば、病はよくなったのだろうか。
*
白いエプロン姿の女性は、探偵とその正面に座る初老の男の前にコーヒーの入ったカップを、探偵の隣に座る寿の前にオレンジジュースの入ったグラスを差し出して一礼し、部屋の隅に控えた。
この町の長である初老の男は、愛想のいい笑みを浮かべて頬にしわを寄せながら、お願いできますかな、と穏やかに言った。
「森に棲みついた悪魔の討伐とは、これまた物騒な話だ」
探偵はカップに口をつけ、コーヒーを飲むふりだけしてテーブルに戻す。コーヒーが嫌いなわけではないが、今は飲む気にならない。しかし手をつけないまま去るのは気が引ける。
初老の男は困った様子で頭を掻いた。
「討伐――と言いますか、町の住民たちが怯えているものでして。それがなんとかしていただければ、私としてはそれでよいのです。例の『悪魔』が話の通じる相手であるなら、町の者を襲わないように説得していただきたい。討伐はあくまで最終手段ということで」
「これまではどのような対策を?」
「森に近付かないように呼び掛けることしか。へたに動いて相手を刺激してしまってはいけませんし……」
「なるほど。一理ある」
「ご存知のとおり、ロラアン国は亜人種族の受け入れに積極的です。それはこの町も例外ではありません。私としましても、亜人種族と人間は共存できるものと考えております。なので今回の件につきましても、できれば穏便に済ませたい所存で」
「しかし、話し合いでは和解できない相手もいよう」
「もちろんです。人間のすべてが善人ではなく、またすべてが悪人でもないのと同じでしょう。亜人たちの中にも善人がいれば悪人もおります。それは仕方のないことです。もしも森にすむあの亜人が有害な魔獣たちと同じ存在で、悪さをしないよう言っても理解せずに人間を襲うようならば、そのときは武力をもって糾弾するよりありませんが」
「それはなんとも……ふん。いやはや、心強いものだな。なに、こちらとしても仕事だからな。手は尽くすとも」
「お願いします。対処はすべてそちらにお任せいたします。なにかご入り用のものがございましたら、なんなりとお申し付けください」




