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探偵一派  作者: 氷室冬彦
名無しの吸血鬼
3/19

1 日を拒む影の森

 某日。中央大陸西部、西リチャン国某所。


「このたびは本当に、どうもありがとうございました。おかげでようやく亡き母の無念を晴らすことができました」


 ありがとうございました――目に涙を浮かべ、何度も謝礼の言葉を述べながら頭をさげる女性に別れを告げ、受け取った封筒を懐に仕舞いながらその場を去る。


 午前の町では人々が活動をはじめ、徐々に活気づいてきていた。付近から寄せられていた依頼は三件ともすべて解決した。もうこの町に用はないのだが、今は急ぎの依頼も来ていない。数日は休暇としてこのあたりに滞在する予定だ。


 足が止まる。


 胸の内を白い霧がかすめ、わずかに眉をひそめた。風が頬をなでるかのように、見えない指の背で心臓をなぞられたような、ひやりとした感覚。曖昧模糊としたつかみようのない、あるのかないのかすらはっきりしない、しかしたしかに感じ取った霧の存在を意識だけで追いかける。顎に手を当て、じっと考え込む探偵を寿が不思議そうに見上げた。


「妙な感覚だな。……なにか、あるようだ」


 このようにして探偵がなにかを予感することは、さほど珍しいことではない。なにかの事件が起きる予感であったり、大きな依頼、新たな出会いの予感であったり、そうではない他のなにかの気配であったり――結果はその時々によって異なるが、この直感はよく当たる。


 経験からくる勘とはまた違い、能力者に顕れるという生まれもっての直観力でもない。そもそも探偵は非能力者だ。無意識の警告、無自覚な発見、天啓が如き感知力――表現としてはそのあたりが妥当だろうか。嫌な予感だ。事態が悪化しようと、好転しようと、その結果に関係なく。これは嫌な予感なのだ。


 喫茶店でひと息つこうとしていた足がくるりと向きを変える。その動きには躊躇も迷いもない。まるで自分がどこへ行くべきなのか、目的地がすっかりわかっているかのようにはっきりとした足取りだ。


 数十分後、探偵が辿りついたのはひとつの森だった。人里から離れた位置にあるこの森に人間が立ち入ることはごくまれであるだろう。人が通ったような形跡はほとんどみられない。奥へ進むにつれて、あたりはだんだんと暗くなってくる。


 分厚い葉の層が重なり合う隙間から光が粒のように見えるだけで森の中は薄暗く、空気もひんやりと冷えていた。率直に言って気味の悪い空間である。付近の町村の住人たちが近寄らないのも納得といえるだろう。あたりを包む物々しい雰囲気に、近くから聞こえる鳥のさえずりがアンバランスだ。


 しかし探偵はそんなことはおかまいなしに、獣道をたどってずんずんと進んでいく。足が長いので歩幅も大きく、かつその足を動かす速度も速いので、探偵はいつも常人の二倍はあるような速度で歩くのだ。なにかに誘われるように進む足を止めないのは、先ほど感じ取ったなにかの正体をたしかめるべきだという直感がはたらいたからに他ならない。


 地面に積もった落ち葉が踏まれるたびに音を立てて潰れる。足元を野ウサギの親子が横切った。人間にとっては薄気味悪かろうと生き物は生息している。むしろ人間が無作法に荒らしまわらないこの森は、彼らにとっては安息の地であるのだろう。


 しばらく無言で歩き続けていると、少しばかり広い場所に出る。と言っても人工的に作られた場所ではなく、あくまで自然となにもない空間ができたのだろう。日差しが差し込んでいて、丸い穴のように日向が覗いている。ずっとほの暗い道を歩いてきたからか、日の当たる場所がやけにまぶしく感じられた。


「たんて、たんて!」


 突然、黙ってうしろをついてきていた寿が袖をばたばたさせながらその場で飛び跳ねた。腕を振り、何度も地面を跳ねながら、必死になにかを伝えようとしている。町中であれば探偵にとってはどうでもいいことやくだらないことで呼び止められることもあるが、いつになく鬼気迫る様子であることと、場所が場所なだけに無視できない。周囲を警戒しながら、寿を落ち着かせようとそちらに一歩踏み出す。


 そのとき、右の草場ががさりと動いた。


 大きな黒い影が飛び出した。影は風の吹くがごとく速度で探偵に迫り、暗い影の中から白い手首が伸びて探偵の首を捕らえた。木の幹に背中が押さえつけられる。


 地面に足がつかない。


 もとより長身であるはずの探偵よりも、なお長身である黒い影――もとい、黒マントの男は、探偵の首を片手で掴んだまま、その身体を持ち上げている。くすんだ金髪の隙間から、鋭く尖った赤い目が探偵を睨みつけた。


 男がすぐ横を走り抜けた風圧で飛ばれた寿が体勢を立て直し、男に飛びついた。右腕に噛みつかれた瞬間に手の力がゆるんだが、抜け出せるほどではない。


 男に振りほどかれた寿の身体が別の木に叩きつけられた。木の幹がみしりと音をたて、小さな身体はそのまま地面にぺたりと落ちる。寿は噛みつく力が強く、小回りが利いてすばしっこいが、いかんせん小柄で軽いので飛ばされやすくダメージに弱い。体格差のありすぎる相手にはまるで歯が立たない。今回のような場合は最悪だ。


 寿が沈黙すると同時に探偵の首を締めあげる左手に力が戻る。髪に隠れて顔はよく見えない。赤い目が再び探偵を睨んだ。


「ここでなにをしている」


 低い声でそう言って、男はさらに手に力を込める。その気になれば探偵の首をへし折ることも簡単だろう。探偵は男の左腕を掴んで、男の手と自分の首の間に指を食い込ませようとしているが、まるで歯が立たない。会話で間を稼ごうにも首を絞められていては声も出ない。


「出ていけ。ここは人間が立ち入っていい場所ではない」


 探偵が睨み返すと、男はわずかに眉をひそめた。あいにくと、挨拶もなしに出合い頭に締め上げてくるような無礼者に屈する気などはない。殺されるのは困るが、この男は探偵がこの場を立ち去る気になるまで手を離すつもりはないだろう。そして彼の意思に従うつもりはない。


 右手をさっと懐に入れ、リボルバーを取り出して男に向けた。この至近距離、探偵の腕ならたとえ目を閉じて撃ったとしても外すことはない。頭を撃ち抜くか、仮に当たらなくとも一度距離を取らせることくらいはできる。殺すか殺されるかの二択しかないなら、探偵は迷わず、己が殺すほうを選ぶ。


 血のにじんだような赤い瞳が銃口ごしに探偵を見た。


 空を閉じ込めたような青い瞳は、その目をまっすぐに見据えて逸らさない。


 しかし、男に対して銃口を向けて数秒、その引き金が絞られることはなかった。唯一の武器、最大の抵抗手段が、白手袋の手をするりと抜けて地面に落ちる。同様に、男の手を引きはがそうと抵抗していた左手からも、不意に力が抜けた。


 手だけではない。全身がふらりと脱力し、糸が切れたように、男の腕一本に吊られた状態になる。まぶたが落ち、美しい青の瞳が伏せられた。そのまま数秒。指先ひとつ動かない。


 その瞬間、赤い目の男が大きくうろたえた・・・・・。首を絞めていた手の力が大きくゆるむ。


 鈍い音。


 男の体がくの字に折れながら後方へと吹き飛んだ。背中が地面に叩きつけられ、二度転がり、日向にその姿が照らし出される。自発的にうしろに跳んで転んだわけではない。そこで気絶している寿が秘めたる力を解放したわけでもない。そもそも寿は物理攻撃以外の手段を持たない。


 絶叫が轟く。


 男は激しく叫びながら両手で顔を押さえて地面をのたうちまわっている。解放された探偵が膝をついたまま激しく咳き込んで、呼吸を整えなおしたころには、男は沈黙し動かなくなっていた。


 今、なにが起きたのか。簡単なこと。探偵はまだ息に余裕があるうちに限界を演じた。そして男が怯んで力をゆるめた瞬間に、めいっぱいの力でその腹を蹴り飛ばしただけだ。男の爪が当たったらしく首に何筋かの切り傷を負ったが、死ぬことに比べればほんの些細なかすり傷でしかない。


 喉がつぶれたような感覚に咳払いを繰り返しながら、遠くの木の下でのびていた寿をつまみあげる。声をかけながら揺さぶると、寿はすぐに目を覚ました。


「たんて」


「妙な気配の正体はこれだな。……よもやこんなところで、こんなものと出会うとは」


 うつぶせに倒れている黒い塊を見下ろす。寿が両袖でばしばしと叩いているが、反応はない。意識を失っているようだ。


 懐中時計を取り出して時刻を確認した。日没までには、まだずいぶんと時間がある。

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