0 紅茶色の男
世界は存外に狭いものだということに気が付いたのは、もうずいぶんと昔のことだった。
報道誌をはじめにその他あらゆるメディアでは毎日さまざまな地域の名前が飛び交い、あらゆる出来事が報じられ、情報は留まることなく流れてゆく。生まれ育ったひとつの土地を出ずに同じ場所で暮らし続けたならば、それらの大部分は自分のあずかり知らない出来事として忘れていくもの。
自分の目には入ることのない、足を踏み入れることもない知らない国や町。地名を聞いただけではどこだかわからないこともあるだろう。話の信憑性もわからない。不明瞭で不透明で、ただ流れてくる情報の数だけが常に膨大である。だから人は、世界というものはとてつもなく広いものなのだという錯覚を覚える。
しかし実際は違う。先に述べたとおり、世界とは狭いものだ。
「私に解けない謎はない」
なにかと口にするその言葉を違えることなく、探偵は自身が出会った事件のすべてを解決に導いてきた。彼の目はすべての悪事を見逃さず、彼の口はすべての真実を語り、その頭脳がすべての謎を解き明かす。頭脳明晰とはまさしく彼のためにあるような言葉だと誰かが言った。並外れた頭脳と膨大な知識を内に秘めたその青年の名は、いつしか世界中に知れ渡っていた。
茶色系統で統一されたスーツと肩掛けに、赤い蝶ネクタイ。紅茶色の髪に、どこまでも深く澄んだ青い瞳は見ていると吸い込まれそうな心地になるほど美しい。
探偵はその名のとおり探偵業を生業としている。世界中のあちこちを転々とし、行く先々で出会った謎を解いてきた。そうしているうちに、手紙、伝言、噂話、あるいは偶然の出会い――事件解決の助けを求める声が、あらゆる形で彼のもとへと舞い込んでくるようになった。そして同時に、彼にその声を届けることができなかった者の無念の声もまた、多く耳に入るようになった。
どこか特定の土地に腰を据えて依頼を迎える時期が来たのかもしれない。どのような町のどういった場所に――そのような具体的な計画こそないものの、あまり先延ばしにはできないという認識を頭の片隅に置くようになった。
イチから事務所を立ち上げて一人でやっていくよりも、どこかで既存の組織に所属するほうが仕事や報酬の管理面で楽ができる。警備隊からは幾度か勧誘の言葉を受け取っているが、彼らに与するつもりはない。警備隊は頭よりも体を使う。そもそも警備隊員は「探偵」ではないのだ。探偵業を続けられないのならば、そこに下るなど論外である。肩書きはそのままに、今までどおり「探偵」としての仕事を続けるつもりだ。
細々した事務作業を他に丸投げできて、面倒な人付き合いをしなくて済み、探偵のすることにとやかく口出しせず自由に行動できて、規則や役割を強制してこない。そんな都合のいい組織がどこかに存在していればいいのだが。探偵が求める条件をすべて満たしているような、探偵にとってのみ都合のいい組織などあるはずがない。もしあるのなら滑稽だ。やはり多少面倒でも自分で事務所を立ち上げて、優秀な秘書を雇うべきだろう。
探偵の隣を小人が駆け抜ける。助手の寿だ。背の丈は探偵の腰ほどもなく、灰色の長い前髪が顔全体を隠しているので人相はわからない。彼――というが性別はない――は人間の子どものような姿かたちをしているが、実際には人間ではない。一般的に人型カルセットと呼ばれている、いわゆる魔獣の一種だ。
全身をすっぽりと覆う黒いコートはサイズが合っていないため袖がだぼつき、裾はところどころ地面に擦れて汚れている。また近々新しいものをあつらえなければならないようだ。何度言っても採寸を嫌がるため身体に合った服を作れず、仕方なく既製品を選ばせると身体に合わない大きな服ばかりを持ってくるのでこうなるのだ。
寿がいつから自分の傍にいたのか、実を言うとよく覚えてはいない。もう何年も前、あるときからこの小人が視界の端にちらちら映り込むようになった。当然、最初は無視していた。しかし、まるで最初から一緒にいたかのようにごく自然に、あまりにも違和感なくついてくる。ついてくるなと言ってもついてくる。名前を聞くと、ない、と答えたので言葉は通じているが、なにを言っても離れそうにない。
当たり前のように探偵に懐いていて、いつの間にかこちらもついてこられるのが当たり前になってきた。結局は探偵が根負けしたのだ。きちんと助手として受け入れるようになったのはいつのことだったか。妙なものに懐かれた。この小人をどうしたものかと悩んだのも最初だけだ。考えはすぐに変わった。
素顔や素肌を他人に見られたり触れられることを異様に嫌う以外は基本的に聞き分けがいい。それなりに利口で寡黙な寿は、探偵が厭う無駄なお喋りをしない。小さいのでつきまとわれても邪魔にならず、足元をちょろちょろと動きまわっていても俊敏なので誤って蹴ってしまうこともない。軽いので持ち歩いても負担にならない。小さくとも小間使いには十分だ。
探偵が彼の同行を認める結論に至った決定打として、非常事態への対抗手段のひとつとして大変に有用であるからだ。寿は小さいながらに戦うことができる。探偵はいつも護身用のリボルバーやナイフなどの武器を持ち歩いているのだが、それでも非能力者であるこの身体は能力者に比べてあまりに脆い。とはいえ簡単に死ぬわけにはいかない。有害なカルセットに遭遇すれば逃げるか戦うかしてその場を切り抜けてきたが、どうあれ骨が折れるのだ。
寿は前を歩いていた探偵を追い越すと、少し行った先の道端で屈みこんだ。足元には花が咲いており、しばらくそれを見つめていたが、そこへひらひらと舞い込んできた蛾に反応し、捕まえようと手を前に伸ばすが届かない。
「寿、それは蝶ではなく蛾だ」
横を通り過ぎながら伝える。袖をぱたぱたさせながら蛾を追いかけていた寿がぴたりと動きを止めて固まると、とぼとぼ歩きながらついてくる。寿はなぜか蝶が好きなのだ。一方で蛾は好まないらしい。どちらも同じようなものだろうに、寿の中ではこの二つは明確に区別すべきものらしい。であるにも関わらず、飛んでいる姿を一瞥しただけではそれが蝶か蛾か区別がつかないらしい。
とにかく、寿は蝶が飛んでいるのを見ると捕まえようと追いかける。しかし蝶の動きは意外と素早く不規則で、大抵はすぐに逃げられてしまい、一度も自力で捕まえているところを見たことがない。狩猟本能からくる趣味だろうと、探偵は手も口も出さずにいる。
「ベアムでの依頼も一段落したところだ。そろそろこのあたりを離れる頃合いだな」
寿がうしろをついてくる。
「たんて。どこ」
探偵は帽子を深くかぶりなおした。茶色い肩掛けが揺れる。
「中央大陸、リチャン国だ」




