13 ある暗い夜の事
東リチャンの竹林での依頼を解決させたあと、探偵たちがやってきたのは現場からそう離れていない位置にある小さな宿屋だった。本来であればこのままフランリーを西リチャンまで送り届けてギルドに直帰する予定だったが、フランリーが日光を浴びて以降、なかなか体調が戻らないようだったので、近くで一泊することにしたのだ。
フランリーは吸血鬼の中でも上位種族である真祖と呼ばれる存在だ。なので日の光を浴びてもそうそう死に至ることはなく、普通の吸血鬼と比較して陽光に強い。探偵と出会うまではろくに血を飲まずに屋敷にこもってばかりだったフランリーは真祖の中でもかなりの虚弱だった。今は探偵が定期的に血液パックを届けているため、それもかなり改善されたのだが、真祖と言えども吸血鬼は吸血鬼。夜に生きる闇の種族だ。
竹林を飛び出した瞬間にチャン・リウメイと衝突し、そのまま地面に転倒したフランリーは、太陽を直に見てしまった。日光によるダメージが視神経を通して脳にまで及び、たった一瞬でも吸血鬼の健康を損ねるには十分なほどの光を受けたのだ。失明はしておらず、視覚にはそれほど影響が出ていないようだが、吐き気を伴う頭痛とめまいが残り、しばらく安静にしていればすぐ回復するはずだが、急いで帰らなければならない理由もない。
宿泊手続きを済ませて客室に到着すると、寿が真っ先に部屋に飛び込んでベッドの上で飛び跳ねた。フランリーは頭の帽子もそのままに隣のベッドに倒れ込む。それを見た寿が彼のベッドに飛び移って袖で叩いたが、既に眠り込んだのかフランリーは無反応だ。首をかしげてじっと彼の様子をうかがう寿に、飴玉の詰まったビンを与え、探偵はすぐに部屋を出る。
日が落ちるまでにはまだまだ時間がある。
宿には探偵たちの他にも三人の宿泊客がいるようだった。三十代前半とみられる妙齢の婦人と、少し腹の出た中年の男。それから、おそらく二十代前半くらいの青年だ。中年男と親しげに話していた――といっても男が青年に一方的に話していた――ので、おそらく知り合いなのだろう。親子ほどの歳の差があるが、顔立ちを見るに遺伝子的なつながりはなさそうだ。
宿は二階が客室になっており、一階から階段をあがると広めの踊り場がある。ソファや本棚などをしつらえており、客同士がコミュニケーションをとる談話スペースのようだ。フランリーを置いてついてきた寿がソファに飛び込んで飴玉のビンを開ける。探偵は本棚の前に立った。どれも既に読んだことのある本ばかりだ。無難に名作ばかりを集めたらしい。
ふと視線を感じてあたりを見まわすと、青年が廊下からこちらを見ていることに気付いた。一瞬だけ目が合い、青年は軽く会釈をしたが、探偵はそのまま隣をすれ違って部屋に戻る。寿はついてこなかったが、気が済んだら戻ってくるだろうと気に留めなかった。
それからしばらく部屋の本棚に並んでいた本に目を通していると、ふいにノックの音が響いた。出てみると、先ほどの青年だ。明るい茶髪は癖っ毛で、探偵やフランリーに比べると低いものの、長身で細身な体格。端正な顔立ちをしているが、目の色はくすんだ緑色をしている。視線を落とすと、足元に寿がいた。
ドアノブに手が届かず部屋に入れないでいる寿を見かねて、彼が探偵を呼び出したのだとすぐに理解する。
「あー……その子、手が届かないみたいだったからさ」
青年が言う。寿は青年に手――というより袖――を振ると、探偵の足元をくぐり抜けて部屋に駆け込んだ。この短時間で親しくなったのではないだろう。あれは社交辞令として探偵が覚えさせた仕草だ。寿はあまり人になつかない。
「そうか。すまないな、世話をかけた」
そうとだけ告げて扉を閉めようとするが、青年が呼び止めた。
「なあ。あの、探偵さん。ひとつ気になってることがあるんだ。聞いてもいいか?」
青年の神妙そうな顔をじっと見る。なぜ初対面の彼が探偵を知っているのかは聞かずともわかる。寿が話したか、報道誌で見たことがあるかだ。正確にどちらであるのかは重要ではない。探偵の動きが止まったのを見て、青年が声をひそめて問いかける。
「あんたら――本当に人間か?」
探偵はわずかに目を細めた。
「くだらん。なぜそんなことを? 名も素性も知らん人物の、わけのわからん妄言に付き合う義理などない」
「手厳しいなあ……」
青年は頭を掻く。
「俺は秋人。今はライニ国に住んでて、小さい町工場に勤めてる。五日ほど前から仕事の関係でこっちに来てたんだけど、帰るために通らないといけない竹林が封鎖されてて、ここで足止め食らってるんだ」
「あの竹林なら、少なくともあと二、三日は通れないぞ」
探偵はそれだけ答えて扉を閉めた。秋人と名乗った青年はまた呼び止めようとしたが、その声は扉の音にさえぎられる。
フランリーが目を覚ましたのは、それから一時間ほど経ったころのことだった。
*
本を閉じる。手袋越しに背表紙をなぞり、たった今読み終えた本をサイドテーブルに置く。客室にあった本棚には初見の本が何冊かあったが、それもすべて読み終えてしまった。これで本格的にすることがなくなったことになる。
隣のベッドを見ると、フランリーは寿を膝に置いてぼんやり虚空を眺めている。この男は自分の屋敷にいる間も、いつもこうして時間がすぎるのをじっと待っているのだ。今そうしているのは体調を崩しているせいではなく、ただいつもの癖だろう。目を覚ましてから少しの間、彼は部屋の外に出ていた。なにをしていたわけでもないだろうが、出歩けるほどの体調が戻ったことはたしかだ。言葉にして確認する必要もない。
用がなければ話しかけない。探偵は普段からそう振る舞っている。必要なら話しかけもするが、探偵はそもそも雑談が苦手だ。
「そういえばさあ」
フランリーが前触れもなく切り出す。声が寝起きのようにかすれているのは内傷の治癒に伴う疲労のせいだろう。
「さっき秋人ってのがきたよ。外のソファのとこ」
「あの茶髪の青年だな」
「俺が人間じゃないの知ってるみたい」
「そうか」
「なんでだろうね」
「本人にたしかめればいい」
「でもあいつもさ――」
フランリーがなにか言おうとしたとき、野太い叫び声が木造の壁越しに響いた。そのすぐあとで、甲高い女の悲鳴が男の声よりはっきり聞こえ、ほどなくして階下からあわただしい足音が近付いてくる。
「探偵、今の声……」
フランリーが腰をあげようと身じろいだのを感じ取り、寿がその膝から飛び降りる。探偵も体を起こして立ち上がった。
「ああ――まったく、面倒なことが起きたようだ」
廊下に出ると、ちょうど宿の主人が部屋の前を横切った。探偵たちが泊まる部屋は踊り場側から数えて二部屋目。廊下の奥を見ると三部屋隣の客室の前で小太りの中年男が立ち尽くしており、そのうしろで妙齢の女が床にへたりこんでいる。二人とも顔を真っ青にして部屋の中を覗き込んでいて、先に二人のもとへ駆けつけた宿の主人が二人の視線の先を追い、ああ! と嗚咽するような声をあげた。
「血の匂いだ」
探偵の隣でフランリーが言う。さっさと彼らのもとに歩み寄り、探偵は部屋の中を見た。
「ほう」
「わあ」
相槌を打つような探偵に、気の抜けた声を出すフランリー。それぞれがなんでもないような声をもらして彼らの前を横切り、部屋の中に一歩踏み入る。
倒れた丸テーブルと椅子。全開になった窓と、吹き込む風で揺れるカーテン。床に散乱した果物と、その近くに小さなバスケットが転がっている。
そして部屋の中央、倒れたテーブルの傍らに、一人の青年が果物ナイフを握ったまま倒れていた。全身が脱力し、ぴくりとも動かない。血で真っ赤に染まった胸元が上下している様子はない。念のため青年の首筋に触れて確認するが、やはり脈はない。既に息を引き取っているようだ。
「他殺だな」
重い沈黙を破って探偵が告げる。目の前の光景に目を奪われて放心していた三人は、その淡々とした口調と慣れた手際に我に返った。
「な――なんでそんなに落ち着いているの? あなた、ひ、人が、し、し、死んでいるのよ?」
女がしぼり出すように問う。じろりと睨みつけると彼女は息を呑んで黙り込んだ。
「職業柄慣れているものでな。そもそも悲鳴が聞こえた時点でよからぬことが起きていることくらいは想像がつくだろう。貴様らの声を聞き、外に出てみれば全員が青白い顔をしているのだ。最悪の事態を想定する時間は十分にあったのだから、今さら人死に程度で騒ぐなど精神の無駄遣いだ」
探偵の言葉に、女は信じられないとでも言いたそうな顔をした。
「探偵、どうするの?」
「知るか。警備隊でも呼ん――」
「あッ!」
それまで探偵の顔をじっと見つめてなにか考え込んでいた宿の主人が声をあげる。
「あんた、まさかあの探偵か? 毒舌探偵ってことで有名な……報道誌で見たことがある!」
咄嗟のことで接客用の敬語が外れている。毒舌探偵――というのは報道誌にてよく使われている探偵の通称だ。知らぬ間にそう書かれるようになっていた。彼らの目には探偵の姿がそう見えていると言うなら好きに書けばいいと、とくに苦情も入れずに放置していたのだが、実際にそれで認知されてみるとあまり気分はよくない。
ああっ、と中年男が思い出したような声を発した。
「あっちこっちで事件を解決してるっていう、あ、あの有名な?」
「ユーメーだよお」
どこまでも気の抜けた様子で答えるフランリーの脇腹を肘で突く。気が付けば、宿の主人も座り込んだままの女も、すがるような目で探偵を見上げている。思わずため息が出た。
「……こんなところでタダ働きとは、まったくツイていないな」