5 勧誘
「麻生さん、一緒に帰ろうよ」
サキが教科書を鞄につめていると、カールした薄茶色の髪を揺らして白鷺エリカが声をかけた。
サキが聞こえない振りをすると、エリカは両手でサキの机をドンっと叩いて下からサキの顔を覗き込む。
「ねえっ、聞こえてるぅ?」 エリカは桜色した唇を突き出した。
くるくるよく動く黒目がちな大きな瞳に、クラス中の女子が羨む長いまつ毛。欠点とも言えるアヒル口がかえって男心をくすぐる。しかも、こんな幼さを残した愛くるしい顔で巨乳ときたら、男がほっとくわけがない。悩ましげに上目遣いで見つめるエリカに、男子生徒はメロメロで、男性教師もタジタジだった。
入学当初からエリカは学校中の注目を浴びていたけれど、サキはこの四月に同じクラスになるまでエリカの存在を全く知らなかった。
「一緒にクレープを食べに行こうよ」
エリカは甘えるようにサキにまとわりつく。
「甘いものは苦手なの」
「だったら、お茶しよ。お買い物でもいいし。駅前の通りに可愛いお店がオープンしたの。エリカ、そこに行ってみたい」
「白鷺さんと一緒に出かけたい人は、たくさんいるじゃない」
サキは曖昧に返事をして適当にあしらおうとした。
「麻生さんがいいの、何度も言っているでしょ。こないだ、今度ね、って言ったじゃん」
エリカはまた唇をとがらせる。
席が隣になってから、何度断っても放課後になるとエリカはしつこくサキを誘う。
とうとう押し切られて、エリカの行きたいという新しい店に連れて行かれた。
エリカは「やばい」だの、「いっちゃてる」だのと散々騒いで悩んだあげくにキーホルダーを二つ買うと、一つを鞄につけてもう一つをサキに渡した。
「ほんとはお揃いのストラップが欲しかったんだけどな。麻生さん、携帯持ってないんだもん」
キーホルダーは淡いピンクのベルの形をしている。振ると、涼しげな音が鳴った。
「気に入った?」
「ええ」とうなずき、サキは顔をひきつらせて作り笑いをする。
「ほんとに?」
「うん、とっても素敵だと思う」
拗ねられるとめんどうなので適当に返事をすると、エリカは本当に嬉しそうな顔をした。
クレープを買いに行ったエリカをサキは駅前のロータリーで待っていた。
ロータリーの先の四階建てのビルの辺りにひとだかりができていて、自然にサキも足を向ける。大勢のひとに囲まれて、柔らかい物腰の爽やかな笑顔を振りまいた男が演説をしている。おもしろおかしく冗談を交えて話す男の言葉は道いく人の心を捉えて、ひとり、またひとりと立ち止まった。
「奥さん、いいですか。運命は自分で決めるのです。今夜のおかずを作るのと同じですよ。ご主人だけでなく、世界を自分の思い通りにしたいと思うでしょ?」
観衆からどっと、笑い声があがった。
「もう一度言います。世の中はあなたが望む通りになります。あなたが望めば宇宙は力を与えてくれます。誰でも力を持っています。ただ、あなたは使い方を知らないだけだ。本来、何でも思い通りに出来るのです」
男のカリスマ性を帯びた声を聞いて聴衆はすっかり魅せられている。三十代半ばくらいかと思ったが、話し振りからみると、四十を過ぎているかもしれない。
思い通りにならねえのが人生なんじゃねえかと、サキは群集を遠巻きに見て肩を竦めた。
男の横で、左胸ににコスモワールドとロゴが入った黄色いポロシャツを着た人たちが配っているビラを、サキは何の気なしに受け取った。
「良かったら、このビルの中でセミナーをやっているので寄っていってください」
ビラを渡した男は形式的な笑顔を向けてコスモワールドと書いてある看板を指でさした。興味がなさそうなサキを男はしつこく誘う。
サキがきっぱり断ると、男は顔を歪ませて、「天罰がくだるぞ!」と恐ろしい形相で呪いの言葉を吐いた。
こういう輩は大嫌いだ。母親の事件を思い出してしまう。
最近よく黄色のシャツを着た人たちをこの辺りで見かけるが、あの団体の事務所はこのビルにあるのかと、サキは顔をしかめて、人がぞろぞろと入って行くビルを見上げた。
ビルの一階にはアニメの専門店があり、壁一面にポスターが貼ってあるのが見える。コスプレのかっこうをしたフィギュアが並んでいるショーウインドウの前で、ビラを配っている男性とおそろいの黄色いポロシャツにミニスカートをはいた若い女の子たちが、子どもたちの気を引こうと、アニメやスポーツ選手のトレーディングカードを配っていた。
サキがその様子をぼうっと見ていると、店から空が同じくらいの年の男の子と一緒に出てきた。空と一緒にいる子どもにどこか見覚えがあった。
髪の毛を人形のようにくるくるとカールさせたコスモワールドの女の子が、すかさずトレーディングカードを空に渡すと、空が歓喜の声をあげた。
「松井秀喜選手のトレーディングカードです」
空はカードを翼に見せて、女の子に訊ねた。
「どうして僕が松井選手を好きだってわかったのですか?」
「そのカードを手にしたのは、あなたがそれを自分で呼び寄せたの。全部あなたの力よ」
「僕の力?」
「人間は欲しいものを誰でも自分で引きつける力を持っているの。みんなそれを使ってないだけ。あなたはセンスがあるわ。ちょっと勉強するだけで何でも叶うようになるわよ」
空はきょとんとした顔で目をぱちくりしている。横にいる翼は真剣な顔で聞いていた。
女の子は話し終えると、翼にもトレーディングカードを渡した。
「アトランティスの美少女戦士に出てくる、魔女のカードですよ」
空は興奮して大きな声を出したが、すぐにトレーディングカードからそれを手渡した女の子に視線を移す。
「でも、はずれですね。翼君はアニメに興味がないのです。僕がアニメのことを、これから教えるところですから」
「それこそ惹き付けているということなのよ。素晴らしいわ。このカードは、今、これを一番必要としている人のところに届けられたの。君たちふたりとも格別にセンスがいいわ。ここに名前と住所とメールアドレスを書いてくれたら、無料でメールマガジンが届くようになるの。まずは自分でやってみるといいわ」
女の子は翼と空に登録用紙とペンを渡した。
「今から訓練を始めたら、おとなになるころには世界を手にしているはずだよ」
空と翼が声のほうに振り向くと、さっきまで演説をしていた男が穏やかな微笑みをふたりに向けていた。
「佐藤翼君か。この近所に住んでいるのだね」
男は翼の登録用紙を見て言うと、名刺をふたりに渡して天童だと名乗り、いつでも気軽に遊びに来るように告げた。
名刺には、コスモワールド特別顧問、天童佑二と書かれていて、団体の住所と電話番号の他に電子メールのアドレスが載っていた。
「おい!」サキが空を呼び止めた。「知らない人と話しちゃだめだと、習わなかったのか?」サキは空に近づいて言った。
「どうするかと思って見ていたら、簡単に騙されやがって」
「えっ、僕たち、騙されたのですか?」
空が突然現れたサキを見て、驚いた顔をして言った。
「当たり前だろ。いつも被っているそのキャップは何だ? ヤンキースのキャップだろ」
空はとっさに右手を頭にあてて、お気に入りのキャップを触る。
「アニメは? 僕がアニメを好きだと、どうしてわかったのですか?」
「今、おまえたちはこの店から出て来ただろ。それに、そのアニメがすごく人気なのは、アニメにうといあたしだって知ってる」
「さすがですね」空は感心して何度もうなずき、尊敬の眼差しをサキに向ける。
サキと空が話している間、翼は少し離れたところで、カードと一緒にもらったチラシを食い入るように見ていた。
その時、エリカがクレープを手に持って、ふてくされた顔をしてもどってきた。
「あそこから動かないでって言ったでしょ。エリカ、すっごく探したよ」
「ごめん、今、もどろうとしてたとこ。弟たちと偶然会ったの」
サキはすっかりエリカのことを忘れていたにもかかわらず、白々しく答えた。
まだエリカが文句を言おうとしているところに、アニメの店から神経質そうな少年が出て来て、サキに話しかけた。
「ひさしぶり、麻生さん」
サキは自分の名を呼んだ、チェックのシャツにジーンズといったありふれた服装の少年を見つめた。
「隼人だよ、わからない?」
少年は整った顔に、うっすらと笑みを浮かべる。
「なんだ、引きこもりか」
「引きこもりじゃない。不登校だよ」
むきになって隼人が言ったので、ふっとサキは笑った。空も下を向いてクスクスと笑う。
隼人はサキが前に会ったときよりも少しだけがっちりした体系になっていた。そのせいか、隼人の印象が前とちょっと違う気がする。
「お兄さんもサキを知っていたのですね。サキは僕のお姉さんですよ」
不思議そうな顔でサキは空を見た。
「おまえこそ、隼人のことを何で知っているんだ?」
「よく、ここで会うんだよ」
隼人は空の代わりに答えて、親指で後ろにあるアニメの店を指した。
「麻生さん。このひと、だあれ?」
頬を膨らませて、エリカがむりやり会話に入ってきた。
「幼なじみなの。休んでいるけど同じクラスだよ」
サキは隼人を簡単に紹介した。
「こっちのちょっと変わった子は、クラスメートの白鷺エリカ」
「ちょっと変わったは、余計よ」エリカが抗議する。「柴田君ね。よろしくっ」
エリカは隼人に向かってウインクをした。
「白鷺さんのことは知っているよ。有名だから」
隼人は急に居心地が悪そうに下を向いて、ぼそっと答えた。
空が隼人の家で「アトランティスの美少女戦士」のフィギュアやDVDを見たいと言いだし、サキも空と翼と一緒に隼人の家に行くことになった。エリカといるよりは、そっちのほうがましのように思えた。
エリカがふてくされて帰ると、翼がはきはきした口調で自己紹介をした。空は翼を紹介するタイミングを見計らっていたようだった。
「空と翼か、いいコンビだな」サキはふたりを交互に見た。
ごちゃごちゃした住宅地を抜けると坂道がきつくなってきた。サキと隼人が前を歩いて空と翼が後ろからついてくる。これから見るアニメについて空は翼を相手に熱弁していた。
サキはこんな放課後も悪くないと顔を緩め、担任に言われたことを急に思い出した。
「ちょうど良かったよ。おまえに用があったんだ」
「僕に用事?」
「担任に隼人の様子を見てくるよう頼まれた。学校に来るように誘えだとさ」
「わざわざ、ありがとう」隼人は顔を曇らせた。
「頼まれたから伝えただけだ。好きなようにしろよ」
前に比べて少し明るくなった隼人を見て、サキは本心を言った。サキだって、祖母との約束がなければ高校なんて行ってない。
しばらく黙っていた隼人が、サキが握っているコスモワールドのビラに目を落として、突然、嬉しそうな声を出した。
「コスモワールドに興味があるの?」
「これか?」と答えて、サキは隼人が指したビラを見る。「そこでさっき渡されただけだ」
隼人の瞳に落胆の色が浮かんだ。
「信じているのか?」
サキが話しかけても隼人は黙って地面を見つめている。
「信じたけりゃ、信じればいいじゃないか」
サキはがっかりしている隼人に優しく言った。
「アニメの店に行くうちにコスモワールドの存在を知ったんだ。最初は望むだけで願いが叶うなんて馬鹿げた話だと思ったけど、何回かセミナーに行っているうちに僕が望むことが実現しだしたんだ。宇宙によって確実に僕らは欲しいものを引き寄せているんだよ」
隼人が急にいきいきして語り始めたので、サキは微笑ましい気分になった。
「それでおまえが元気になれるんなら、いいんじゃねえ?」
「麻生さんもセミナーに行こうよ」
「宗教とか、そういうのはごめんだよ」
隼人ははっとした顔をして、うな垂れた。
「ごめん。僕、なんてことを」
「あたしの問題だ。おまえが気にすることじゃない」
隼人は口を閉ざしてしまい、サキは歩きながら十二年前に日本を震撼させたカルト教団のことを思い出していた。