53 母の試練
案の定、サキは霧島にこっぴどく怒られた。
公務執行妨害で捕まっても文句を言えないけれども、サキとて勝手に家捜しをして持ち出したのではない。佐藤が預かってくれと言ったのだ。自分では正当にリストと鍵を手に入れたのだとサキは思っている。あのときは霧島に話せる状態ではなかったし、協力をする気にも求める気にもなれなかった。霧島を信じられなかったのだからやむを得ない。
サキの弟の死について、一切、釈明をしようとしない霧島にも全く否がないわけでもなく、これから隠し事はしないと誓わされて、サキは文字通り無罪放免となった。
警察が鍵とカードキーを調べた結果、思っていた通りそれらは貸金庫のものだったが、未だ貸金庫の特定までにはいたらない。少なくても大手の銀行のものではないようだ。
カードキーから貸金庫を割り出せなかったので、警察は佐藤が貸金庫を利用していなかったか銀行をしらみ潰しにあたっているが、今のところ佐藤が契約した貸金庫は見つかっていない。
サキは、鍵とカードキーが佐藤のものではないと、感じ始めていた。
預かってくれ、と佐藤が言ったと思い込んでいたが、「預かっている」もしくは「預かった」と、言いたかったのではないかと思えてきたのだ。
「内通者に思い当たることがある」と、佐藤は言った。つまり、この鍵を佐藤に預けた人間が内通者だと、佐藤は言いたかったのではないのか?
サキはそんなことをあれこれと考えていて青信号に変わったことにも気づかずにいると、歩みを揃えた人の波が一斉に動き出して背中を押された。サキはつんのめって転びそうになり我に返る。すぐにサキも歩調をあわせて波に溶け込んだ。
交差点を渡り終えると、佐藤が手術をした病院が遠くに見えた。翼も同じ病院に入院している。空との約束もあって、ここ数日サキは学校帰りに翼を出来るだけ見舞っていた。
サキが翼の病室を訪ねると、栄子が翼の背中をタオルで拭いていた。
翼は人形のようにされるがまま、ベッドにちょこんと座っている。理知的で輝いていた瞳は光を失い、まるでこの世に目を止めたいものなど何もないかのように、翼の視線は留まる先を見つけられずにいた。
栄子が翼の背中を拭こうとして力を加えると、翼の上半身は抵抗することなくだらりと前へ倒れた。咄嗟にサキが翼を支えようとする。サキの目に、翼の小さな背中いっぱいに広がった火傷の痕が飛び込んできた。ケロイドになった傷痕が痛々しくて、サキは思わず目を背ける。
「私の不注意で赤ちゃんのときに熱湯を浴びてしまったの。この子、小さいときは活発だったのよ。椅子やテーブルによじ登ったりしてね。てっきり寝ているものだと思い込んで熱いお湯が入ったやかんをそのままにしてたの」
栄子がサキの様子に気づいて、悲しむような、それでいて懐かしむような口調で告げた。
サキが何と返事してよいかと言葉を探していると、ドアがノックされて院長が病室に入って来た。
「どれ、少しは元気がでたかな?」
院長が明るい口調で笑いかけても、翼は微動だにしない。翼にはまるっきり院長の声が聞こえていないように見える。
院長は火傷の痕を見て首を捻った。
「あの夜の傷かい?」
栄子は院長のほうを向いて小さくうなずいた。
「傷にはなってしまいましたけど、先生に診て頂いたおかげで大事にいたりませんでした」
栄子は翼に視線をもどすと、服を着せながら話しかけた。
「本当にごめんね。ママ、あのとき二度と翼に苦しい思いをさせないと約束したのに」
栄子は今にも泣きそうな顔をしている。
佐藤の意識ももどらないのだ。サキは栄子の心の内を思うと胸が痛んだ。弟の大輝が生きていたとして、今の翼のようになってしまったとしたら、どう思うだろうか?
生きていればいいというものではない。しかし、大輝のように死んでしまったら終わりだ。翼には希望がある。翼を見ているうちに、サキは大輝のことを思い出した。
「はて、おかしいですね?」
院長はまだ首をかしげている。
「何がですか?」サキが訊ねると、「いや、気の所為でしょう」と院長はお茶を濁した。
翼の身体は特に悪いところはなく、精神的に受けたショックを受け止めきれずに心が閉ざされてしまったと、院長が説明した。
翼はしばらく様子をみてから専門の病院に移ることになるだろう。皮肉なことに、その道のプロである佐藤はまだ目を覚ます気配がない。翼の横で安らかな顔をして眠っていた。
「ふたりとも、生きていてくれるだけでありがたいわ」
栄子の言葉がサキの心に刺さった。
警察は佐藤のクリニックを家宅捜索して身代金の二千万を発見した。事件は金銭を目的とした誘拐と断定されて、佐藤が主犯、共犯の隼人が実行犯との見方で片がつきそうだった。
形だけの事情聴取は佐藤の回復を待って行われるだろうが、逃亡した佐藤が逃げられないと悟ってクリニックで自殺を図ったと、警察は結論づけている。
サキは、天童にそそのかされたと翼が話していたのを聞いたと証言したが、心神喪失状態にある子どもの発言など信憑性に足りないという理由で全く相手にされなかった。霧島だけはサキの言葉を信じてくれてはいたが、指揮官を降ろされた身では組織の決定を覆すことは出来ない。
世間も子どもがこんな犯罪を行うなどと考えたくはないようで、マスコミも佐藤主犯と報道し、栄子の立場はとても厳しいものになっている。週刊誌もあれこれと佐藤の家族のことを書き立てていた。
母と弟が死んだときもそうだった。事件の被害者も加害者も社会に吊るし上げられる。それを防ぐ手だてはない。
サキは栄子を気遣い、出来るだけ翼の容態を見に来てやりたいと思っていた。サキの目には、傷ついた翼に大輝が重なって見えた。
「おばさん、コンビニで買って来たんだ。どっちがいい?」
サキはビニールからおにぎりとサンドイッチを出して栄子に見せた。
「ありがとう。私はいいわ。サキさん食べる?」
「あんたに買ってきたんだ。ちゃんと食ってちゃんと寝ないと、もたないよ」
栄子は「大丈夫よ」と笑って、お茶をいれようと立ち上がったとたん、急にめまいを起こした。
「危ない!」サキが叫んで栄子を支える。
「ほらみろ。言ったとおりじゃないか。これからしばらくこの状態が続くんだ。あんたまで倒れてどうする。送っていくから、今日は帰ろう」
サキは栄子を椅子に座らせて、強い口調で言った。
栄子は両手で顔を覆って嗚咽しはじめ、サキは栄子からそっと視線を外した。
翼のベッドの隣には栄子の苦労も知らないで呼吸器をつけた佐藤が静かに眠っている。ベッドに付けられた名前と血液型、生年月日が書かれた札に、サキは目を止めた。
佐藤の誕生日は、母と弟の命日だった。




