51 恐怖心にさいなまれて……
お気に入りの座布団の上で呑気に昼寝をしていたモカを見て、サキは胸を撫で下ろした。
部屋の中はサキが家を出たときのままで変わったところは見られない。空はまだ学校からもどっていなかった。
このところ空は毎日のように翼の病院に寄っている。大丈夫だとは思ったけれど、サキは心配になって空の携帯に電話をかけた。
携帯は呼出し音が鳴らずにメッセージセンターに繋がった。病院にいて携帯を切っているのだと自分に言い聞かせてみるものの、不安でたまらなくになる。サキはすぐに連絡をよこすようメッセージを残すと、じっとしていられなくて麻生の書斎へ向かった。
部屋のカーテンを開けると、薄暗い部屋を西日が照らした。サキは机の上からデジタル録音機を手に取って期待をせずに今日録音した分を聞く。すると驚いたことに、天童がだれかと電話で話している声が録音されていた。
サキは咄嗟にボリュームを上げて耳をすましたが、さすがに電話の相手の声までは聞こえない。命令口調で話していることから天童の部下だろうと推測できた。
「断られただと? ……またあいつか。めざわりなやつだ。もう、木戸がいればいいよね。邪魔者には消えてもらおうよ。人類の進歩に犠牲はつきものさ。……方法? そうだな。どうせやるなら派手にやりたいな。うんと苦しませてやろうよ。血なまぐさいのもやむを得ないだろ? 僕に歯向かうあいつが悪いんだ。思い知らせてやらなきゃ……」
サキの心臓がスピードを上げて走り出した。
「それは良いアイデアだね。気に入ったよ。ゲームは楽しくないとね。その日ならテレビカメラも入るし、大勢の観客の前で殺ったら素晴らしいショーになりそうだ。これで名実ともに研究は我々のものになる」
これは赤木教授の暗殺計画かもしれない。録音機を持つサキの手が震えた。
赤木教授がいる限りクローンの研究にiPS細胞を使うことは出来ない。一日も早く、天童は赤木教授を亡き者にしたいはずだ。
若菜に電話をしようかと迷ったが、結局サキはあの男に電話をした。
霧島は二十分と経たないうちにサキの家に現れた。
「これで、天童を捕まえられない?」
サキはろくに挨拶もしないで録音した天童の会話を霧島に聞かせた。
「無理だな」霧島が残念な顔で首を振る。「肝心なことは言葉にしていない」
「赤木教授には信念と人徳がある。天童がiPS細胞を自由にするには赤木教授は邪魔だ。警察がもたもたしていると、佐伯や文部科学省の本間のように消されちまうよ」
「おまえが言っていたトゥモローという会社は今でも実質的には天童のものだ。巧妙に裏工作してやつの名が表に出ないようになっている」
「佐伯や本間、それに青木の死も。隼人の死にしたってそうだ。不自然なことばかりで、こんなに天童が裏で動いているのに、なぜやつを捕まえられない?」
「天童が言う通りだ。明確な証拠がなければ逮捕は出来ない」
「じゃあ、このまま偉大なセンセを、見す見す天童に殺させるつもりかよ」
「そんなことは俺がさせん。カメラが入るような大勢の観客がいるイベントに赤木教授が出席する予定があるか、すぐに確認する。警察の総力をあげ教授を護衛して、やつを逮捕してやる」霧島がきっぱり言った。
「ひとつ頼みがあるんだけど。五条の爺さんの具合は悪いのか? 空を安全なところに隠したいんだ。見舞いと称して置いてもらえないかな。あたしを痛めつけるには空を攻撃する。天童はそういう男だよ」
「元総理に頼んでみよう。おまえにしては珍しく、やつを恐れているんだな」
「あの蛇のような目を思い出すと身体がすくんじまう。あいつはいつでもあたしを見てる」
「わかった。警察も出来るだけのことはしよう」
霧島はサキが本気で天童を恐れていることを知ると茶化すのをやめた。
「独りで大丈夫か?」
うんと答えると、ふと懐かしい空気がふたりの間を漂って、サキは一瞬、快い沈黙に包まれた。
「そろそろ詳しいことを教えてくれよ。母さんはいのちの樹の信者だったんだろ?」サキはまっすぐ霧島を見つめた。「帰って来たのに、なぜ、母さんはあそこにもどったんだ?」
「悪いが、俺はおまえの母親の事情は知らない。いのちの樹の信者だったことは、八年前の事件のときに教団のやつらとの会話から推測できた。連れもどされた時期があったのも事実だろう」
サキの顔が曇った。それを見て霧島は諭すように語り始めた。
「脱会を決めた者はしつこく信者たちに引き止められるらしい。脱会するとどんなに不幸になるか、過去の例とやらをあげて恐怖心を煽るんだ。罰がくだされるとか、家族もろとも地獄に堕ちるなどと脅される。マインドコントロールを受けてすり込まれた恐怖心は後遺症となって心の奥底で眠っているんだ。平常心を取りもどしたように見えても、一度植え付けられた恐怖心はそう簡単にはなくならない。普通の状態ならなんでもないようなことが、おまえが熱をだして旦那に危険が少し及んだだけでも、自分が脱退したからだと思って教団にもどっても無理はないのさ。俺はそういう信者たちに何人も会った」
「あたしや父さんがいて、母さんはなぜ、宗教に取り込まれてしまったのだろう?」
「宗教が悪いんじゃない。助けを求める心を利用するやつらが悪い。いのちの樹も表向きにはもっともなことを唱えている。宗教に助けられる人も大勢いるんだ。刑事は激務だ。死といつも隣合わせの夫を持った妻の心労は大きい。おまえの母親も何かにすがりたかったのだろう」
「母さんが、陣内の愛人だったってことはあるのかな?」
少し躊躇ったが、サキは一番聞きたかったことを訊いた。霧島には残酷な質問とわかっていた。
「女の考えていることは俺にはわからん。だが、八年前に俺が会った女性は家庭を大切に思っていた。最後までおまえたち家族のことを愛していたよ」
サキは少しの間、黙り込んで考えていた。
「あんたのことを信じるよ。大輝を撃ったことだって何か理由があんだろ。話す気になったら話してくれ」
霧島はそのことには答えずに、「何かあったらすぐに知らせろ。無茶はするな」とサキに言いきかせ、帰り際に「たまにはおまえも翼を見舞ってやれよ」と付け加えた。
霧島と入れ替わりで空が帰って来た。やはり翼の病院にいたという。
佐藤の手術は成功したものの意識はもどらず、翼はあれから心が壊れてしまっていた。
「じっちゃんの具合が悪いらしい。しばらく空はじっちゃんのところへ行ってやんな」
「じっちゃんが?」
空は泣きそうな顔になった。
「大丈夫だよ。おまえが行けばすぐに良くなるさ、翼の見舞いにはあたしが行ってやる」
翌日、空はモカを連れて五条の屋敷に行くことが決まった。五条の元なら、天童といえどもそう易々と手を出せまい。
ひとまずサキは胸を撫で下ろした。




