45 悪魔に憧れた父子
昨夜のうちにサキは今日も学校を休むと決めていた。
佐藤に会う約束を取り付けようと翼の家に電話をかけると、栄子がおろおろした声で電話に出た。
警察へ出頭するために佐藤がちょうど家を出たところだと言う。
何も知らされていないのか、栄子は佐藤の言動が理解できずにパニックになっていた。サキは興奮している栄子を落ち着かせて、何があったのか聞き出した。
栄子が言っていることを繋ぎ合わせると、普段通りに朝食を食べ終えた佐藤が急に警察へ行くと言いだして、栄子がなぜ警察へ行くのかと訊ねると、佐藤は一連の誘拐事件の犯人は自分だと告白した、ということになる。
そんな馬鹿な、とサキは思った。翼の父親が主犯のはずがない。
霧島と顔を合わせたくはなかったが、そんなことを言っている場合ではない。サキはすぐに家を出た。警察署にはサキの家の方が近い。急げば佐藤に追いつけるかもしれない。サキは全力で走った。
サキが佐藤の後ろ姿を見つけたときには、もう警察署が見えていた。大声で佐藤の名を呼んだが車の騒音で声はかき消された。息を乱しながらも追いつこうと必死に走ったが、佐藤との距離が百メートルくらいに縮まったときに目の前で信号が赤になった。
サキは仕方なく立ち止まる。この信号の先に警察署があった。もう一歩のところで間に合わず、佐藤は警察署に入っていった。
信号が青に変わるや否や、サキは駆け出し警察署に飛び込んだ。ざっと署内を見渡したが佐藤の姿は見当たらない。サキは通りかかった婦警を呼び止めて佐藤の行方を訊ねた。
佐藤は小学生連続誘拐事件の捜査本部に連れて行かれただろうと婦警は答えたけれども、捜査本部には一般人を案内できないと言う。
「話があるんだよ。やつが出頭する前に話がしたいんだ。あたしは事件の当事者なんだよ」
「そう言われても、勝手に通すわけにはいかないのよ」
婦警は困った顔でおとなと一緒に来なさいと言い、サキを追い払おうとした。
サキは仕方なく、霧島の名前をだした。婦警は捜査本部に内線で電話をかけたが、霧島は留守だった。
「じゃあ、若菜を呼んでくれよ。いるだろ。ほら、刑事のくせに髪が長いチャラチャラしたやつが」
「所轄の刑事ですか?」
「知らねえよ。警視庁って言っていたと思うけど。とにかく本部に訊いてみてくれよ」
サキがいらいらして言った。その時、署の入口近くからサキを呼ぶ声がした。
「サキちゃんじゃない。こんなところで何をしてるの?」
声の方を振り向くと、若菜が警察署に入ってきたところだった。
「良かった。いいところに来てくれたよ」
サキはほっとして若菜に駆け寄ろうとし、婦警の方に振り向いて言った。
「もういいよ。邪魔して悪かったな。このチャラ男に会いたかったんだ」
婦警は怪訝そうな顔で若菜を見ると、やれやれという風に肩をすくめて長い廊下に消えていった。
「取り調べの前に話をさせて欲しいんだ」
サキは佐藤が出頭したことを告げて若菜に頼んだ。
若菜は霧島の留守中に勝手なことは出来ないとなかなか首を縦に振らなかったが、サキが多少脅迫じみたことを言って五分でいいから会わせて欲しいと食い下がると、取り調べがまだ始まっていなかったら話をさせてあげると渋々答える。
若菜が捜査本部に確認を取ると、運良く出頭したばかりの佐藤は取調室にまだ入っていなかった。取調室の横の小さな部屋で佐藤は待たされていて、すぐにサキはその部屋へ通された。
「十五分だけだからね」と、ドアを開けて若菜が念を押す。
「ありがとう。恩に着るよ。この間のことは霧島に内緒にしとくから心配しないでいいよ。それから、エリカの、あれ。お礼に強烈なやつをもらっといてやるからさ」
サキはそう言って、あたふたしている若菜に目配せした。
背中を丸めて座っていた佐藤は、サキを見ても驚いた様子もなく、やつれた顔をあげた。目は落ち窪んで隈が出来ている。寝ていないのが見て取れた。
「おじさんが犯人だなんて、これは何の冗談だい?」
サキは引きつった笑顔で言うと、佐藤の向かいに座った。
なるべく自然に話をしようとするけれども、どうしても顔が強ばってしまう。佐藤は自分がやったというばかりで重い口を開かない。こんな調子では十五分なんてあっという間に過ぎてしまう。サキは誘拐事件について訊くのは諦めて、母の木箱の中にあった写真を見せて、佐藤といのちの樹との関わりを指摘した。
「どうかしていたのだよ」佐藤がぽつりぽつりと話し出した。「支配欲に取り憑かれていたんだ。私はあの男を見返してやりたくて、大学を辞めたあと、自分の王国を作ろうとした。後ろ盾の政治家に失望されることも、恐かったんだ」
「あの男って、前に話してくれたサイコパスの男? 政治家ってのは五条元首相だね?」
そうだ、と言うように佐藤はうなずいた。
「長い間、私の後見をしてくれていた五条元首相は、私よりあの男を可愛がるようになっていて、私は自分が頼りになると証明したかったのだ」
「それで、あんたは宗教団体の設立を五条に助言して、自分は表に出ずに『いのちの樹』を創ったんだな」
「信者をマインドコントロールして票を入れさせることは簡単だったよ」佐藤は否定しなかった。「ヤミ献金も教団にプールした。私はあいつに負けまいと、必死だったのだ」
彩の姉は佐藤の腹心だったに違いない。彼女を通じて霧島と佐藤が繋がった。
「同時多発爆破テロは陣内が勝手にやったことだ。私は気づかないうちに、とんだ悪魔に教団の実権を握らせてしまっていた。テロで陣内と教祖派の人間が捕まってほっとしたよ。だが、私は憧れていたのだ。陣内や私を陥れた男のような、冷酷非道のサイコパスにね。私は陣内のカリスマ性と、情を持たずに目的を遂げる行動力が教団に欲しかった。それには次の教祖もサイコパスである必要があったのだ。サイコパスの心を持ちそれでいて私の手の中でいかようにも転がる次の教祖を、私は育てようとしたのだ」
「それが翼なのか?」サキが大きな声を出した。「サイコパスが、特別な子という意味なのか?」
「翼を、権力に憧れて人を支配することに何よりも喜びを感じる人間に私が育てた。私の責任だ」
佐藤は肯定も否定もせずに言った。
「陣内もいなくなって邪魔者は消えたはずだ。翼という優秀な息子もいる。それなのに、あんたは心を病んだ。なぜだ? 八年前にあんたの家で起きた、あのたてこもり事件と、何か関係があるんじゃないのか?」
「すべてはあの男が仕組んだことだ」佐藤はわなわなと震えて答えた。「研究においては、私と陣内は協力していた。同じ目標を持って、それなりに成果も挙げていた。だが陣内は、いつのころからか研究を私に報告しないようになったのだ。後になってわかったことだが、あの男が陣内に近づいて私を除け者にし、私から研究を取り上げようとしていた」
「とことん、しつこい男だな。そいつは」
「陣内にもあの男は気に入られた。今までと違ったのは、あの男が陣内を崇拝したことだ」
「陣内のほうが、やつより器が上だったのか?」
「比べものにならない!」佐藤は大きく首を縦に振った。「執念深いという点で、ふたりは同じだが、陣内こそ最強のサイコパスだ。陣内のゲームには独創性があって、あの男とは犯罪のスケールが違うのだ。彼が創造する美しい悪の世界に魅せられてしまうものが後を絶たないという点でも、陣内は本物の悪魔と言える」
佐藤は急に生き生きして陣内のことを語ると、ふんっと嘲るように鼻を鳴らした。
「それに比べると、あの男のゲームは平凡な嫌がらせにすぎない。やつにこんな風にされた私が言っても、負け惜しみにしか聞こえないかもしれないがね」
もしかして、佐藤自身が陣内の悪に魅せられていたのではないか。
佐藤のストーカーとも呼べる男によって陣内との仲を引き裂かれてしまい、一層、その男を憎んでいるようにサキには思えた。
「その陣内が捕まって、教団と研究はどうなったの?」
「テロが起こる直前の教団は教祖派が多数を占めて実質的に陣内が支配していた。私は研究には一切口出しが出来なくなっていて研究の詳細は知らされなかった。私は自分の手のものを使って、やつらの行動を知ろうとやっきになっていた。テロの後、あの男が研究を陣内から引き継いだが、陣内がいなくなると私たちは巻き返しをはかった。日々、我々の派閥の力が大きくなっていったのだ」
「それでその男は、あんたたちが邪魔になったんだね」
「そうだ。やつは教祖派をけしかけて私の命をも奪おうとした。教団を完全に潰しにかかったのだ」
「もしかして八年前のあの日、あんたもあの家に居たのか?」
佐藤は一瞬戸惑った顔をしたが、ゆっくりとうなずいた。
「命からがら逃げ出した私は、教祖派が一掃されて運命に勝ったと思った。これからは私だけの教団になると喜んだよ。ところが、教団は致命的な打撃を受けて解散を余儀なくされた。すると、あの男はすぐに学者たちに取り入って、私と陣内の研究を奪ったのだよ。あの偉大な研究をだ」
「あの男と言うのは、まさか……」
サキは隼人の死を前にして平然と微笑っていた男を思い浮かべた。
「あいつは癒しの団体というふれこみの自己啓発グループを作って頭角を現した。ネットをうまく利用して賛同させた人々が日本中から集まった。心を弄ぶのが得意なあいつには簡単なことだっただろう。教団の多くの信者たちがやつの作ったコスモワールドに移った。そうなってから、ようやく私は気づいたよ。すべては、やつの計画通りだったのだと」
「天童……。その男は、天童なのか? そうだとすると、いのちの樹の研究とはクローン人間の研究じゃないのか? EP細胞を研究している木戸博士が教団にはいたんだろ」
佐藤は悔しそうな顔をしただけだった。
「あいつはね、笑って私にこう言ったんだ。『本当にあなたはおめでたい。僕に踊らされているとも知らないで。これから先もあなたが手に入れる物はすべて取りあげてやる』とね。やつはその言葉通りに実行し続けた。私はその執拗な嫌がらせでやる気を無くして、とうとう病んでしまったというわけだよ」
佐藤は小さく息をつき、寂しい顔で笑った。
「裏切り者のことは、何か知ってる? 教団に内通者がいたんだろ?」
「そういう噂はあった。だが、私は自分の手の者にスパイがいるとは信じられなくて調べようとはしなかった。甘かったのだ。その結果、部下を死なせることになってしまった」
「霧島の恋人のことだね。彼女が手に入れた、陣内の悪事を暴いた証拠のコピーを持っているのは、あんたじゃないのか?」
「私ではない。彼女は手に入れた証拠すら陣内の罠じゃないかと疑って裏を取ると言っていた。あの日、陣内に彼女が逢いに行ったのは、裏を取るつもりだったのだ。ところが、証拠を奪われて彼女は殺された」
「内容は聞かされてないの?」
「これが事実なら大変なことになる。なんとしても止めさせなきゃと、彼女が言っていた。多分、十二年前のテロのことだったのだろう。それと私の手を離れたあと、確実に成果をあげていた違法の研究についても記されていたに違いない」
「その違法で行われていた陣内の研究は天童が引き継いだんだよね。じゃあ、その証拠を手に入れれば天童の悪事も暴くことが出来るんじゃないか?」
「確かにあれが表沙汰になれば、やつは破滅する。研究を続けることも出来ないだろう。だが、今更、見つけることは出来んよ。彼女の死後、私は裏切り者を探したが、内通者はすっかり鳴りを潜めてしまってとうとう見つけることが出来なかった。安全なところに預けてあると言っていたが、コピーもとうに陣内に渡ったに違いない。こんなに時間が経ってしまってはどうにもならない。陣内のすべてをひきついだ天童は、今やEP細胞だけでなく、iPS細胞も手中に収めたというわけさ。翼は、あいつに負けた愚かな私を軽蔑している。罰が当たったのだよ」
佐藤は投げやりに言った。今となってはどうでもいいという感じに見えた。
「あんたは翼を庇っているんだろう?」
もう一度、サキは時間を空けて何度も訊ねている質問を口にしたが、佐藤はこの質問にだけは答えない。翼の話がでるたびに、佐藤は親の顔になった。
「それなら別のことをひとつ訊きたい。催眠を使って人を殺せると思うか?」
サキは壁の時計を見て、すかさず質問を変えた。約束の時間まであと五分を切っている。
「隼人が自殺だなんて納得がいかない。あいつは飛び降りる直前に様子がおかしくなった。それに、元いのちの樹の教徒でコスモワールドの会員だった男が水死しただろ。青木って男だ。やつの死にしたって不自然だ。誰かに操られて自殺をしたとは考えられないのか?」
「例え催眠状態にあっても人間は自分が望まない行動はとらない。いくら死ねとか殺せと暗示をかけても、意に反することには従わないんだよ。だが、相手が望む暗示をかければ、その結果、死ぬように仕組むことは可能だ。酒好きの人に毒の入ったワインを飲ませることなら出来るよ」
「翼が隼人に言ったよね。『気を楽にして、さあ、一緒に行きましょう』って、あの言葉は何か意味があるのか? 楽にするというフレーズは、催眠を導入するときによく使われる言葉だと本で読んだよ。翼は催眠を使えるのか?」
「まさか、そんな高度なことがあの子に出来るわけがない」
「では、だれかが前もって催眠を使い暗示をかけておいて、後で実行させることは出来るの?」
「可能だよ。 後催眠暗示というものだ。キーワードをセットしておけば、後で瞬時に催眠をかけることが出来る。それに催眠中のことを忘れさせる暗示もしておけば、覚醒してから後催眠をかけられたことも、催眠中に自分がしたことも忘れさせることが可能だ」
サキはそれを聞いて満足した。青木も隼人も催眠で殺されたんじゃないかという考えが拭いきれないでいたからだ。
「あと少し訊かせてくれ。あたしの母さんは、なぜ教団にいたんだ? どうして霧島は、弟を撃ったんだ?」
一番訊きたかった質問を口にするとサキの心臓は大きく音を立て始めた。するとその時ドアが開いて、深刻な顔の若菜がサキを呼んだ。
サキがまだ十五分経ってないはずだ抗議すると、困ったことが起きたと言って若菜が手招きする。サキが椅子から立ち上がって若菜に近づくと、若菜はサキに耳打ちをした。
「空と翼がまたいなくなった?」
つい、サキは声を出した。
若菜は「しぃー」と、人差し指を立てて口の前に持っていき、サキの腕を掴んで部屋から引っぱり出すと隣の部屋へ押し込んだ。
「ふたりがいなくなったと、今、学校から連絡があったんだ」
「また、誰かに連れ去られたってこと?」
そういうことではないみたいだと言って、若菜は眉をひそめた。
サキはすぐに小学校に電話をして担任の吉沢先生にふたりがいなくなった経緯を訊ねた。
空は特に変わった様子がなかったが、翼は明らかに普段と違っていたという。誘拐されるという尋常でない経験をしたのだから様子がおかしくても不思議ではないと思って、翼の様子を注意して先生は見ていたそうだ。
公立といえども空と翼の通う小学校は政治家や有名人が多く卒業している進学校で、わざわざ越境して来る子どももいる。中学受験をする児童は八十パーセント以上を占めており、たびたび模試が行われていた。
一時間目の授業が始まって前に受けていた模試の結果が配られた。陽菜が空の結果を見て全国で三位だと騒いだので、児童たちはみんなで空を褒めちぎった。すると、急に翼が奇声を発して足でバタバタと床を踏みならし、空に掴みかかった。児童たちは唖然としてただ見ていることしか出来なくて、驚いた先生は力づくで空から翼を離したが、翼は奇声を発したまま走って教室を出ていき、空は身ひとつで翼を追ったというのだ。
サキが電話を切ると、「大変です!」という声と共に荒々しくドアをノックする音がした。
若菜がドアを開けると制服を着た警官が真っ青な顔で立っていた。
「申し訳ありません」警官が深々と頭を下げた。「佐藤がトイレに行きたいと言ったので、案内したのですがトイレの窓から逃げられました」
「何をやっているんだ。すぐに佐藤を探せ!」若菜が血相を変えて怒鳴った。「佐藤らしき男を乗せた車がないか、タクシー会社にあたるんだ。最寄りの駅にも連絡しろ。いいか、佐藤が街を出る前に捕まえるんだ」
若菜の怒鳴り声を頭の隅で聞きながら、翼が行く場所はあそこしかないと、サキの勘は告げていた。空を支配できる場所、翼が優越感に浸れるところだ。翼はきっと、そこへ空を連れて行く。
サキはエリカに場所を調べてくれとメールを送ると、警察署を後にした。




