43 美しい悪魔に魅せられた女の最期
トントントンと包丁を使う音が下から聞こえてきた。みそ汁のいい匂いがする。
夢の中を漂いながら、サキは祖母を思い浮かべていた。
ここはどこだろう? サキはうっすらと目を開けた。仏壇に飾られた写真の美しい女性が笑いかけている。見慣れない六畳ほどの和室の清潔な布団の上にサキは寝かされていた。
身体中が熱くてズキズキした。骨がきしむ感じがして口の中は血の味がする。身体を起こそうとすると背中に激痛が走った。身体の痛みとともに記憶が蘇ってきた。
そうだ。がらの悪い連中と久々にやりあったのだ。
いかにも喧嘩を売ってくれという態度で街をふらついていたのだから当たり前だった。
ぼこぼこにされながら見上げた空があまりにも青く澄んでいて、なんて綺麗なんだろうと場違いなことを思ったのを最後に、サキの記憶は途切れていた。全身の身体の痛みは一時的に心の痛みを忘れさせてくれた。
きしむ身体を無理に起こして階段を下りると、そこは弁護士の中井と会った店だった。
「もう少し寝ていたほうがいいんじゃない?」
カウンターの中で仕込みをしていた彩がサキに気づいて彩が声をかけた。
「あんたの店だったのか。どうして、あたしはここに?」
「店の裏で倒れていたから、人に頼んで二階にあげてもらったの。それとも、若菜さんに連絡したほうが良かった?」
「いや」サキは首を振った。「助かったよ」
「女の子なのに、顔に傷が残ったらどうするの」
彩は手ぬぐいを冷水で濡らして、「冷やしときなさい」と言ってサキに渡した。
「ありがとう」と小さく答えてサキは手ぬぐいを頬にあてる。
「何かあった?」と彩が訊いた。
サキが答えないので、彩は椅子に座るようにうながした。「お茶でいい?」
サキは小さくうなずく。
彩はお茶をいれた湯のみをカウンターの上に置くと、また仕込みをはじめた。
「ねえ……」と、サキは彩に声をかけて熱い入れたてのお茶を一口飲んでから、ぽつりと言った。「いつから霧島を知ってんの?」
「あら、省吾さんのお知り合い?」彩は少し驚いた顔をした。「そうね、十五年くらいになるかしら?」
「長いんだね」
「省吾さんが気になる?」
無理して何気ない素振りをするサキを見て、彩は目を細めた。
「そんなんじゃないよ」サキはうつむくと躊躇いがちに言った。「霧島は弟を殺したんだ」
彩が何も言わないのでサキは顔をあげた。
「驚かないの? 付き合っているんだろ?」
「そうだったらいいんだけど」彩が、くすっと笑った。「どうしてそう思うの?」
「よくここに泊まっていくんだろ?」
「捜査が忙しくて家に帰る暇もないときに、食事のついでに仮眠を取るだけよ。あの人は姉の恋人だった人なの」
「事故でなくなったっていう?」サキはとっさに聞き返した。
「あら、知っているの?」彩は料理をしている手を止めた。「私も省吾さんも、ただの事故とは思ってないけど」
「どういうこと?」
彩の顔から笑みが消えた。
「知ってる? 悪魔って本当は天使よりも美しい姿をしているのよ。悪魔が醜い姿をしていたら誰も近寄らないわ。実際は天使のように優しく、汚れを知らない顔で微笑うのよ。この世のものとは思えない美しい風貌に、人は簡単に騙されてしまうの」
「陣内顕彰のことか? お姉さんが、いのちの樹の信者だったっていうのは本当なの?」
「姉が大学生で私が十六歳のときに両親が事故で死んで、姉は仕方なく大学を辞めて働いたの。いのちの樹はそんな姉の心の支えになっていたわ。姉は親が死ぬまでは名門といわれる女子大に通っていたのよ。幼稚園からエスカレーター式のね。私も姉も苦労なんてしたことがなかった。だから姉は辛かったと思うの」
「金持ちってのは、遺産や、生命保険があるんじゃないの?」
「そんな大金持ちじゃないわ。自営業だったから、そういうお金は会社の借金で帳消し。銀行は普通に営業しているときにはいい顔していたくせに、父が死んたら一斉に取り立てにきた。ハイエナのような親戚も集まってきて、姉はそういう人たちの相手もしなければならなかった」
「それで、いのちの樹に?」
彩はうなずいた。
「ときどき、私も教団に連れて行かれたわ。省吾さんと姉は、両親の事故をきっかけにちょうどそのころ知り合ったの」
彩は手ぬぐいで手をふくと、カウンターから出て来てサキの隣に座った。
「いのちの樹は、ある大物の政治家のために作られたの。教団を使って政治活動を行っていたのよ。彼らはカリスマ性のある魅力的な若い男に目をつけた。その男には人を惹き付ける特別な資質があって、男の天使のようなほがらかな笑顔が信者たちを魅了したわ」
「それが陣内? でも陣内は、そいつらの思い通りにはならなかったんだな」
彩は小さくうなずくと、話を続けた。
「陣内という男は優しい外見からは想像が出来ない恐ろしい男だった。お金や名誉に関係なく、楽しいという理由で犯罪に手を染められる男なの。教団に楯突いて殺された人たちは、陣内が思いついた、もっとも楽しい方法で処刑されたと言われているわ」
「お姉さんも陣内に殺されたのか?」
「多分」と言って、彩は顎をひいた。
柔らかな表情の彩の瞳に憎しみの光が浮かぶ。
「教団はしばらくして二つに分裂したの。教祖を中心とするグループと影の創立者によるグループ。姉は反教祖のグルーブに属していたの。影の創立者の腹心として、陣内の計画を暴こうと動いていたわ。ところがミイラ取りがミイラになった。姉は恐ろしい相手だと重々わかっていたのに、あの男を愛してしまったの」
「霧島の恋人なのに?」
驚きのあまり、サキは大きな声を出した。
彩は静かに目をふせる。
「陣内もお姉さんを愛したの?」
「あの男が人を愛せるわけがない。心がないのよ。姉もそんなことはわかっていた。姉は任務と陣内を想う気持ちの間で揺れていたの」
「陣内はお姉さんの気持ちを知って利用したのか?」
「あいつは面白がっていた。省吾さんが苦しむ姿もね。姉のことはゲームとしか思ってなかったでしょう。姉も最後まで任務を貫いて陣内に寝返ることはなかった。そして、とうとう陣内の機密を手にしたの」
「お姉さんは陣内の計画を暴いて、それで殺されたのか?」
「悔しいけれど、陣内の悪事を暴く前に姉は殺されてしまったのよ。姉が生きていれば、あの恐ろしい教団のテロは防げたかもしれないわ」
「お姉さんの事故って?」
「交通事故よ。その夜、姉は殺されるとも知らないで、陣内にもらった新しい黒のドレスに袖を通して嬉しそうに出かけたの。本当に馬鹿だわ。浮かれている姉を見て、私は省吾さんと逢うものだとてっきり思っていた」
馬鹿なのは、霧島と逢うと思い込んでいた彩のことなのか、陣内に逢うために殺されるとも知らずにお洒落をしてでかけた霧島の恋人のことなのか、彩はどちらにでも取れるような言い方をした。
「姉は教団の近くの道で陣内と待ち合わせをしていてね、青信号を渡っているときに後ろから陣内に呼び止められたのよ。姉は道路の真ん中で振り返って陣内を探した。その瞬間、暴走してきた車にはねられたの。運転手の男は教団とは何の関係もなくて、身重の奥さんが事故にあったという電話を受けて病院に向かっているところだった。ところが、そんな事故の話は全くのデタラメで、奥さんはピンピンしてた。そして、なぜか交差点の信号は、その一瞬、両方とも青だったのよ」
「そんな手のこんだことまでして、陣内が事故を仕組んだと?」
「現場は薄暗くて視界も悪く、黒いドレスを着ていた姉は見事に周囲の闇に溶け込んでいたの」
「まさか、そうなることを計算して陣内が黒いドレスをお姉さんに贈ったのか?」
「あのときは、そんな風には思わなかった。事故が多発していたところだったから、最初は私もただの事故だと思ったわ。あんなところで待ち合わせすること自体が不自然なのに」
「あんたの考えを覆す、何かがあったんだね」
彩は首を二回縦に振ると、立ち上がった。
「姉が事故にあったと知らせを受けて、私は急いで病院に向かったの」
彩はカウンターの中に入り、急須にお湯を注ぎながら答えた。
「その間に空き巣が家に入ったのよ。物取りの犯行にしては何かを探しているかのように、タンスやら引き出しやらを全部ひっかきまわして、それはひどい荒らされようだった」
「それも陣内がやったと?」
「わからない」彩は首を振った。「姉は陣内の機密を手に入れたとき、それを複製したらしいの。姉の死後、創立者の代理という男が訊ねて来てコピーの存在をほのめかしたから、空き巣はコピーを狙ったものじゃないかってピンときたのよ。それにはテロ計画の全貌と陣内が秘密裏に行っていた研究のすべてが記されていたらしいわ。空き巣は陣内の手の者かもしれないし、違法な研究に手を貸していたことが明らかになっては困るひとの仕業かもしれない」
「それで、空き巣に証拠のコピーを取られたの?」
「用心深い姉が家にそんな大切なものを置いていたとは思えない。それからしばらく、私は誰かに後をつけられていたの。多分、コピーは見つけられなかったのじゃないかしら」
彩はサキの湯のみにお茶を付け足してから自分の湯のみにもお茶を入れると、それを持ってサキの隣に座った。
「警察はなんて?」
「ただの空き巣として処理されたわ。この時はまだ姉のしていたことを知らなかったからコピーの存在も半信半疑で、次第に私と省吾さんはいのちの樹に出入りするようになった。私は姉の面影を求めて教団に行っていたのだけど、今思えば、省吾さんは最初から陣内を疑っていたのかもしれない」
「霧島は証拠を探すために、いのちの樹に出入りしていたと?」
「ええ」彩は小さくうなずいた。「調べていくうちに姉が教団でしていたことがだんだんとわかってきた。ちょうどその頃、姉の遺品の中から日記が出てきて、陣内に対する姉の気持ちを知ったの。大人しい姉があんなに激しく陣内を想っていたなんて信じられなかった」
「霧島は、その日記を読んだのか?」
「見たくはなかったでしょうね。でも、日記に何か重要なことが書いてあるかもしれないと言って、省吾さんも読んだの。日記を手にしたときの態度で、省吾さんは日記を読む前から姉の気持ちを知っていたのだってわかったわ」
サキは霧島が恋人の話をしたときのことを思いだした。霧島は今でも彩の姉を慕っている。サキは想いが高まって胸が急に苦しくなった。霧島が弟を殺したという事実が、重くサキの心にのしかかる。
あんなやつのことなんて、どうでもいい。サキは話題を変えた。
「それで、教団を調べて何かわかったの?」
「姉を使っていた創立者がコピーのことを姉に訊ねると、安全なところに預けてあると言ったそうよ」
「安全なところって?」
彩はそれには答えずに話を続けた。
「誰かが姉を裏切っていた。創立者側の情報が教祖派に漏れていた節があるのよ」
「内通者がいたってこと?」
「ええ、それも姉の極めて身近にいた人間よ。姉は正義感が強くて社交的に見えるけど、人見知りで本来は家で静かに本を読んでいるのが好きな人なの。両親の死後は学生時代の友人たちとは疎遠になって、姉の周りに友と呼べる人は殆どいなかった。女子校育ちで奥手だったから、付き合った男の人も省吾さんだけ。その省吾さんにも陣内のことがあって、姉は距離を空けていた。私はそんな姉が心を許した人物が、証拠のコピーも持っていたと思っている」
「誰だか見当がつかないの? お姉さんの身近な人物だろ」
彩は悲しそうな顔で首を振った。
「教団での姉の行動を調べていると、内通者の影があらゆるところにあった。だけど結局誰だかはわからずじまい。姉はその内通者を完全に信用していたのよ。証拠を預けるくらいにね。でも、その内通者は姉と親しかったことを知られたくなかった。後で自分がスパイだとバレるのを恐れたのね。その人物に丸め込まれて、姉は人前では親しい素振りを見せてなかったのだと思う。そのうち陣内はテロで捕まって、私たちがすることはなくなったわ」
「もう一つ、訊いてもいい?」
サキは壁の時計をチラッと見ると、彩は、いいわよ、と言うようにうなずいた。
「さっき言ってた、陣内が秘密に行っていた違法な研究って、どんなことか見当はついているの? 母もその施設に出入りしていたみたいなんだ」
彩は具体的なことは何にもと言って首を振ってから、はっとした顔をした。
「そういえば、いつまでも若くて美しく健康でいたいかと、姉に聞かれたことがあったわ。そりゃあ、もちろんそうよ。と私が答えたら、姉は、遺伝子操作で老化防止や身体能力の進化を人が望むようになっても不思議じゃない。そのうち子どもの性格や容姿、才能も選ぶことが可能になったら、誰もが思い通りの子どもを作りたいと思うようになるわって、真面目な顔で言ったのよ。一時期、姉はそんなSFみたいな話ばかりしてたわ」
「お姉さんは、遺伝子操作が美容整形やレーシックの治療みたいに、そのうち、人がより良い生活を築くためのごく当たり前の治療になるとでも言いたかったのかな?」
「どうなのかしら。あまり深く考えなかったからわからないわ。話の内容よりも、姉の態度が気になった。その態度がどこか普通じゃなくて、よく覚えてるの」
「普通じゃないって?」
「あのときの私は幼くてわからなかったけれど、姉は恋をしていたんじゃないかしら? ふさぎ込んだと思うと急ににこにこしだして、そんなことを考える人もいるのねって、姉は楽しそうに笑っていた。遺伝子操作は必ずビッグビジネスを生むと目を輝かせて言う人がいるって、とても愛しそうな目をしてその人の話ばかりしてた。それは陣内のことだったのかもって、姉が死んでから思ったのよ」
「愛しそうな目ね……」サキは首をかしげた。
楽しそうにしていたかと思えばふさぎ込む。彩の姉の立場を考えるとわからなくもない。自分の敵である男を愛することへの矛盾。止められない想い……。
サキの脳裏に霧島が浮かんだ。
陣内が、男に免疫のないお嬢様育ちの彩の姉をたぶらかすのは、赤子の首をひねるようなものだったに違いない。相手はあの無粋な霧島だ。奪い取るのは簡単だったろう。
「お姉さんが探り出した機密のコピーを手に入れれば、研究の内容がわかるんだよね? その内通者ってやつを探し出せばいいんだろ。姉さんの知り合いの名前を教えてくれよ。あたしの方でも調べてみる」
「見つけられっこないわよ」
彩が呆れた顔で笑った。
「今だからこそ、話してくれるひとがいるかもしれないじゃん。思い出せるだけでいいんだ。教えてくれよ」
「そう言われても、すぐには無理だわ。何しろ十二年以上も前の話だもの」
彩は苦笑して言った。
子どもの単なる思いつきと、受け止めたのだろう。真面目に取り合ってはくれない。
霧島と話して何か思い出すことがあったら伝えると、彩はなだめるようにサキに言った。
「八年前の事件のことは、霧島から何か聞いてる?」
サキは気をとり直してお茶を一気に飲み干すと、思い切って母の事件に触れた。
「報道されたことしか知らないわ。私が言えるのは、あの事件を境に省吾さんは変わった。猛烈に仕事に打ち込むようになったってこと。眠る時間も惜しんで犯人をいくら挙げても、あの人は満足しない。あの家で省吾さんに何かがあったってことだけはわかる」
「あいつは、そんなことで罪を償っている気になってるのか。死んだ大輝や、あたしたち遺族に許されるとでも思っているのかよ?」
「あのひとは許して貰おうなんて端から思っていないわ。弟さんを殺したことをあなたが許しても許さなくても、関係ないのよ。例え犯人が死刑になったとしても、残された者の気持ちは何も変わらないことを省吾さんは知っているの。あのひとは一生、十字架を背負って生きて行くつもりよ」
誰にも過去を消し去ることは出来ない。自分の行動には責任を持てと、霧島に出逢ったころに言われた。あれは霧島自身のことだったのか。
「なぜ、あいつは撃ったと思う?」
サキは疑問を口にして恐ろしいことに気づき、彩の答えを待たずに独り言のようにそれを言葉にした。
「まさか、弟には陣内の血が流れている? だから霧島は弟を消したのか……?」
「そんな人じゃない」彩はきっぱりと否定した。「どんな理由があろうと、あの人は子どもに銃を向ける人ではないわ」
このひとは心から霧島を愛しているのだと、その時サキは感じた。
自分はこんなにきっぱりと、霧島を信じていると口に出来ない。彩の霧島を想う気持ちには到底敵わないと思った。




