42 ふたたび、街(ストリート)へ
近くの教会から正午を知らせる鐘の音が響き、やっとサキは放心状態から醒めた。
霧島が家を出て行ってから、二時間も机の前に座っていたことに自分でも驚く。床に散らばっている隠し棚から出した資料は、霧島の告白が夢でなかったことを物語っていて、それを目にしたとたんに一筋の涙が頬を伝った。
霧島が言い訳をせずに何もサキに告げようとはしなかったことが、さらにサキを絶望の淵へと追いやっていた。
心だけが身体から離れて空中を漂っているような感じがして、まるで頭と身体を繋ぐ糸が切れてしまったかのように、椅子から立ち上がろうにもサキの身体は言うことを聞かない。しっかりしなければと、サキは自分に言い聞かせた。
やっぱり、人なんて信じちゃだめだ。
サキの脳裏に満面に笑みを浮かべた隼人と、照れくさそうに頬を緩める霧島の顔が交互に浮かぶ。手に入れたものを突然奪われるのなら、最初から持たない方がいいって知っていたはずなのに……。
今更、他人に期待をしちまうなんて、あたしも焼きがまわったな。
心の中でそう言って、サキは自分を嘲笑った。
サキは気を紛らわそうとして、机の上にある事件のファイルを手に取った。父の集めた資料を目で追ってはいるけれども、同じ文章を繰り返し眺めているだけで、内容はちっとも頭に入って来ない。
サキはファイルを読むのを諦めて無意識に母が宝箱と呼んでいた茶色の箱を手に取ると、中から小ぶりの木箱を取り出した。表面に赤いハートの飾りが彫ってある普通の木箱だが、開きそうな気配はあるものの開け方がわからない。サキは霧島のことを考えながら箱をいじっていた。
なぜ、霧島が弟を撃ったのか? そのことを思うとサキの心は張り裂けそうだった。
考えないようにしても、霧島のことが気になって仕方ない。
頭の中から霧島を追い払おうと、叩き付けるように強く木箱を机の上に置いたはずみでハートの飾りがスライドした。サキはそれを見てずっと前に同じようなからくり箱を箱根の土産に貰ったことがあるのを思い出した。この木箱もからくり箱ではないかと気づいてスライドさせたままハートを押してみると、箱はカチっと音をたてて蓋が外れた。
からくり箱の中には古い写真と便せんを四つに折った手紙のようなものが入っていた。サキはそれらをすべて箱から出して、まずは写真を手に取った。日付は十二年前の同時多発爆破テロが起きる少し前だ。
ツタが生い茂った古ぼけた建物の前で、ベンチに座った母と木戸博士に似た男が仲良く肩を並べて微笑んでいる。サキはこの男が木戸、本人であると直感した。
もう一枚の写真は同じ場所で白衣を着た男が四人で写っている。サキはその男たちの顔を見て愕然とした。そこには木戸、佐藤、五条が写っていた。三人とも今よりも少し若い。残るひとりは透明感に包まれた美しい顔立ちの青年だった。何度もテレビや新聞で見た顔。「天使のような微笑みを持つ悪魔」と言われた、いのちの樹の教祖、陣内顕彰が優しく微笑んでいた。
母がなぜいのちの樹の関係者と……? このツタの生い茂った建物はいったいどこだ?
サキはその答えを求めるように急いで便せんを広げた。
それは、手紙と呼ぶにはあまりにも短い、木戸博士から母に送られたラブレターだった。
『真理さん、あなたを想うと心が砕けてしまいそうになる。私はあなたの味方だ、信じて欲しい。我々の秘密は決して誰にも言わない。立場上、私は表だって動けないが、あなたをお慕いしているこの心に誓ってお腹の子どもは私が必ず守る。あなたを安全なところへ連れていくと約束しよう。写真を同封します。これは必ずあなたを守るでしょう。大切に保管してください。木戸孝則』
木戸博士と母が愛し合っていた?
父はこの手紙と写真の存在には気づいてないに違いない。
土産にもらったからくり箱も、父は開けることが出来なかった。こういう細かいことが苦手なのだ。それに、もし木戸とのことを知っていたら、あの単細胞の男が態度に出さずにいられるわけがない。
サキは、このことを麻生は知らないと確信していた。
お腹の中の子どもとは、大輝のことなのだろうか? 弟は父の子じゃなかったのか? 安全なところへ連れて行くとは、母は木戸と駆け落ちでもしようとしていたのか?
次から次へと疑問が湧いて来る。サキは混乱して頭を抱えた。
ちょっと待てよ、さっき電話でオヤジは何て言った?
急に今朝の父の言葉がサキの頭をよぎった。
母さんが、自分からやつらのところにもどるわけがないと……そう、もどると。そう言わなかったか?
父の言葉と、母が大切に持っていたからくり箱の中身から推測出来ることは、この写真の建物がいのちの樹に関連する施設で、母が出入りをしていたということだ。
母もいのちの樹の信者だったのか?
サキは信じたくはないが、そう結論づけるのが自然なことに思えた。だが、もうひとつ腑に落ちないことがあり、サキは眉をひそめた。
母が家を出ていたのはサキが三歳の時だと麻生は言った。それが正しければ、母は十四年前に家を離れて教団に居た可能性が高い。しかし、写真の日付は十二年前だ。
大輝が生まれたのが十一年前だから、この手紙にある子どもは十中八九、大輝のことだろう。
母はこのころも家をあけていたのだろうか? それとも、この写真を撮ったときにたまたま訪れていたのだろうか?
サキは思いつく限りの可能性を考えてみたけれど、すべて憶測でしかない。
急にチャイムが鳴って、サキは我に返った。
ドアを開けに玄関に行くと、若菜に連れられて帰ってきた空が扉の向こうで笑っていた。
しばらくカウンセリングに通えば空は心配ないだろうと、若菜は告げた。
「サキちゃんも、早いうちにカウンセリングを受けた方がいいよ」
本当はサキにこそ、カウンセリングを受けさえたいに違いない。だが、今、それを強く言うと、結局のところ隼人の死を思い出させることになる。
若菜が気を使っているのがわかって、前向きに考えておくと、サキは返事をした。
「翼も帰って来たことだし、五条の爺さんに礼を言いに行ったほうがいいんじゃない? 二千万を取られたことも謝らないといけないだろ」
サキは五条に会えるいいチャンスと思って、若菜に提案した。
「僕らもそう思って霧島さんが連絡をしたのだけど、元首相はどうやら体調が優れないらしいんだ。お母さんが帰ってきてからでいいと、言われたそうだよ」
空の祖父とはいえ、元総理大臣ともなると会うこともままならない。五条に会える日はだいぶ先になりそうだ。
若菜は一杯だけサキの入れたコーヒーを飲んで仕事にもどった。若菜が帰ると家の中は静まり返り、サキは自分の部屋へ閉じこもった。
* * *
「悪いけど、夕飯はコンビニで弁当でも買って食べてくれ」
一時間ほどすると、サキが自分の部屋から出て来て空とようやく言葉を交わした。
「サキの分も買ってきます。何がいいですか?」
「メシを食う気分じゃない。ちょっと出かけてくる。遅くなるかもしれないが心配するな」
サキは空をおいて家を出た。普段ならまだ学校にいる時間だった。
雑踏に紛れるとなぜか落ち着く。昔はこんな時間に街を普通にぶらついていたのだ。なんだか、遠い昔のことのようだった。
ぼんやりと街を歩いていても、自然に霧島のことを考えてしまう。いつのまにか霧島は、サキの心をこんなにも占めてしまっていた。
霧島を頭の中から払いのけると、今度は小さい女の子を連れた若い母親を見てサキは死んだ母を思い出した。自然と眉間にしわがよって、顔が険しくなる。母が不倫をしていたかもしれないと思うと、清らかな母の想い出が汚されていくようで、サキは無性に暴れたくなった。




