40 心の支え
目を開けると見慣れない天井が広がっていた。
「ここはどこ?」サキは左右に視線を走らせる。
枕元から、警察病院だと答える霧島の声が聞こえた。
あれは夢じゃなかったのか?
サキはハッとして上半身を起こす。
「警察病院? 隼人は? 隼人は助かったんだよね?」
「覚えてないのか?」
霧島は眉をひそめ、サキは小さく首を左右に振った。
「俺が現場に着いたときには、おまえは道に倒れている隼人にしがみついて手がつけられない状態だった。すぐに救急車は来たが隼人はその時すでに虫の息で、救急車に乗せた直後に息を引き取った。隼人と一緒にいると言って泣き叫ぶおまえを、隼人の身体と一緒に警察病院に運んだ」
「隼人が飛び降りた辺りからの記憶がない」
サキはこめかみを抑えて、記憶を呼びもどそうとぼうっとした頭で神経を集中させた。
あのとき、屋上で隼人の身体が宙に浮いたのは鮮明に覚えている。まるでスローモーションで見ているかのように、そのひとコマひとコマがサキの目に焼き付いていたが、隼人の姿が視界から消えると、後の記憶は霧に覆われてしまったかのようにぼんやりとしていた。
むりやり記憶を辿ると、全身から力が抜けてその場に座り込んだサキがいた。足はがくがくして身体の震えが止まらない。
徐々に色あせて行く世界の中で、天童の甲高い笑い声だけが耳の奥で響いていた。
声のほうに振り返ると、天童が獲物を見つけた猛獣のような瞳で佐藤を見つめていた。
「おひさしぶりです、佐藤先生。こんなところにお出でいただけるなんて光栄ですよ」
そう言って舌なめずりをするように不気味に微笑う天童の顔が、うっすらと蘇った。
それより後の記憶はどんなに頑張っても思い出せない。
「車の中で精神安定剤を打ってむりやりおまえを眠らせた。今は、何も考えるな」
「空は? 空はどうしてる?」
「大丈夫だ。PTSDを発症する恐れがあるため、すぐにカウンセリングを受けさせて、今朝までいた病院に今晩は泊まらせることにした。翼も一緒だ。おまえも後で受けろよ」
「迷惑をかけたね」
「ガキが気にするな。これも仕事だ」霧島が頬を緩めた。
サキは素直にありがとうと礼を言う。今日はなぜか素直に霧島のことを受け入れられた。
「隼人は自殺じゃない」
少しして、サキはもう一度屋上での隼人の一挙一動を思い出して言った。
「隼人の体内からは何の薬物も発見されなかった。他殺を裏付けるものは何もない」
冷静な口調で霧島は続ける。
「身体中に古い傷跡があった。煙草を押し付けられた痕や、打撲による痣、深い切り傷が無数にあって見るに耐えられないほどだ。DVを疑い、子どものころのカルテを取り寄せたら、肋骨も足の骨も不自然に折れた記録があった。そうとう酷く虐待されていたんだな」
「虐待? あいつはガキのときも、いつだって笑ってたんだ」
サキの目から涙がこぼれた。「あたしは世界で一番、自分が不幸だと思っていた」
サキが静かにすすり泣く声だけが病室に聞こえた。
しばらくして霧島が口を開いた。
「声が聞こえるという症状は、統合失調症などの精神障害で良心が破壊されると起きるそうだ。声がやれと言ったという妄想に取りつかれて行動するのは、よくあることらしい」
「違う!」サキが声を荒げた。「隼人は病気じゃない」
「精神的に病んだ多くの人が、声がしたと言っている。彼らには本当に聞こえるのだろう」
「隼人を操った人物が、本当にいるかもしれないじゃないか」
「確かに、隼人独りではこの犯行は成立しない。車で拉致されたという翼の証言もある」
「隼人は自殺なんかじゃない。殺されたんだ。あのとき隼人は、急におかしくなったんだ。確かに聞いたんだよ。死ぬ前に隼人が死にたくないって言ったのを!」
「わかった。落ち着け」
サキは興奮して霧島の手を振り払った。
「もう一言、『闇をつかさどる者』とも、隼人は飛び降りる前に言ったんだ。そのことは、はっきりと覚えてる。その闇をつかさどる者ってやつが、邪魔になった隼人を殺したんだよ」
「わかった。闇をつかさどる者のことは調べてやるから、おまえは温かいものでも飲め」
霧島はサキをなだめて廊下に出ると、すぐにインスタントコーヒーの入った紙コップを持ってもどってきた。
「ミルクと砂糖をいっぱい入れてやったぞ。ほら、飲め」
サキは黙って紙コップに口をつけた。身体が一気に温まるのに対して、気持ちはゆっくりと静まっていく。
「美味しい」
「だろ」霧島が目を細めた。
「目が覚めたときにあんたが居てくれて良かった」サキが静かに言った。
霧島は何も答えずにサングラス越しにサキを見つめてベッドの横にある椅子に座る。
「隼人が居たから、子どものときも今も学校に行くのが嫌じゃなかった。あいつが居たから毎日が楽しかった。隼人がいつも居てくれたから、あたしの心は荒まないですんだんだ。そんなことにも気づかないで、あたしは独りで乗り越えた気になって……。それなのに、あいつが助けを必要としていることに、まるで気づいてやれなかった」
「隼人だって、おまえが居たから学校に来たんだろ。らしくないぞ。元気を出せ」
サキはコクンとうなずいて、コーヒーを飲んだ。心も温かくなった気がする。
「ねえ」サキはそっと霧島の顔を見た。「誰もあんたを待ってないのだったら、今夜は側にいてくれないかな」
霧島は何も言わずに目を閉じて、首を小さく縦に動かした。
サキの夢の中に隼人が現れた。
隼人は何も話さない。ただ悲しい顔をしてじっとサキを見つめる。サキが何を話しかけても隼人には聞こえない。
すると、悪魔のような笑い声が聞こえて隼人の目が紫色に怪しく光った。
隼人はサキが呼ぶのを無視して笑い声のするほうへ歩いて行く。サキが必死に追いかけると、誰かが後ろからサキを呼んだ。サキが声にかまわず隼人の元へ走ろうとすると、誰かに手を引っ張られた。その瞬間、まばゆい太陽の光がサキを照らした。眩しくて目が開かない。サキは顔を背けた。
隼人がこの世からいなくなっても、新しい一日は始まる。サキはそれを拒否するように布団にもぐり込んだ。
「いつまで寝ているんだ。早く起きろ」
霧島の声が聞こえた。
目を開けなくても、朝の光が部屋中を照らしているのがわかる。このままここに隠れていたい気持ちを抑えて、ゆっくりと瞼を開けた。目を細めて光のするほうに視線をやると、カーテンを開けた霧島がサキを見つめて立っていた。
「帰るぞ、送っていってやる」
いつもと同じ態度の霧島にサキは救われた。
帰りの車の中ではテンションをあげてサキはしゃべりまくった。話を止めると、気持ちが落ち込んでしまいそうで恐かった。
「あがって行きなよ。お礼に朝メシを作ってやるよ」
サキが誘うと、霧島は車を降りた。
「やべえ、何にもねえじゃん」
サキは冷蔵庫を覗き込んで言った。
「コンビニでおにぎりでも買って来てやるからゆっくりしていろ」
「コンビニ? ファーストフードのブレックファーストセットが食べたい」
霧島の優しい態度が照れくさくて、サキはわざとわがままを言った。
「近くにあるのか?」
「車で行けばすぐだよ。裏に駐車場もあるし。あたし、ハム&エッグマフィンセットね」
「めんどうくせえな。今日だけだぞ」
「わかってるって」
サキが子どもっぽく微笑んだ。
話の途中で電話が鳴った。霧島は電話に出るように顎でサキに指図して、自分は玄関に向かう。
サキは受話器を取って「ちょっと待ってください」と言うと、霧島に向かって声を張り上げた。
「あたしの飲み物、オレンジジュースにしてね」
玄関のドアが閉まった音を聞き、サキは電話の相手との会話にもどった。
「すみません。どちら様ですか?」
「どちら様じゃねえ。てめえ、朝っぱらから誰と話してるんだ」麻生が怒鳴った。「まさか、男を連れ込んでいるんじゃねえだろうな」
「そんなわけねえだろ。オヤジと一緒にすんなよ。で、今どこ?」
「まだ、インドネシアだ。警察から連絡があった。驚いたぞ。大丈夫か?」
「大丈夫じゃねえよ。五条の爺さんが金を用立ててくれて、無事に空は帰って来たけどね」
「さっき、話を聞いたばかりだ。すまなかったな。島の電話が今朝まで通じなかったんだ」
「それで無事なのか? いつ、帰ってくんだよ」
「この島は大丈夫だ。だけどテロの影響で島から出られなくてよ。通信手段もねえし、困っていたところに茜さんがインフルエンザになっちまって、当分、国を出られねえんだ。俺だけでもなんとかして帰ろうかと思っているんだが」
「茜さんの容態は悪いの?」
「ちょっとな。高熱がでて下がらない。小さな島で薬も充分じゃないし、環境もいいとは言えねえんだ」
「そっか、心配だな。空は大丈夫だ。今更急いでオヤジが帰って来てもしょうがないし、茜さんについていてやんなよ」
「ふたりで本当に大丈夫か? おまえたちが無事なら、言葉も通じねえし茜さんの側にいてやりたい」
「平気だよ。茜さんならともかく、オヤジが帰って来ても空は嬉しくねえだろう。こっちは刑事がめんどうをみてくれているし」
「刑事?」
「八年前の事件のときに母さんを助けようとしてくれた、霧島っていう刑事だよ」
麻生が急に黙った。
「聞いてるのか? オヤジ」
「そいつを信用するんじゃねえぞ」
「何だよ、いきなり」
「そいつだけは、何があっても家に入れるな」
「何、訳がわかんねえことを言ってるんだ。なぜだか理由を言えよ」
「いいか、サキ。よく聞けよ。その霧島って男が、大輝を殺したんだ」




