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34 科学教室

「四人ずつの班に別れて顕微鏡を見てください。ふたつの違いがわかりますか?」

 エリカのボーイフレンドの北村が声を張り上げた。

 研究者と聞いて、サキは牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた男しか想像できなかったが、北村は思いのほか二枚目だった。

 長髪を後ろで結んでおり、白衣を着ていなければ何を生業にしている男かわからない。

 サキとエリカは講義が始まる前に北村に挨拶をすませると、白衣に袖を通し他の参加者たちと三十分ほど前にこの実験室に入った。対象が高校生なので研究者たちも若い。今日の講義は二十代の若手研究者が中心となっていた。


「右の顕微鏡がiPS細胞、左がES細胞です。iPS細胞が誕生してES細胞の研究は衰退するどころか、むしろ活発になっています。ES細胞の研究に長年尽力してこられたのが、今度オールジャパンに参加された木戸博士です」

 高校生たちは北村の話を聞きながら真剣な顔つきで交互に顕微鏡を覗いている。

「これがES細胞から作った心筋細胞です。拍動しているのがわかりますか?」

 北村が言い終わらないうちに、心筋細胞が脈打つのを見た生徒たちから歓声があがった。

「あるバイオベンチャー企業では、実際にサルのES細胞から作った心筋細胞で新薬の毒性を調べています」

 顕微鏡を覗いて皮膚、血管、心臓の細胞を比べていくうちに、サキもいつのまにか講義に夢中になっていた。


「マウスのES細胞は心筋症、糖尿病、白血病、動脈硬化症などの治療に利用するための研究が進められています。将来的には臓器提供者不足が解消されて治療困難だった病気の治療法の開発も期待できます。iPS細胞で心臓を作る場合、組織全部を作るのではなく、健康な細胞を心臓に入れてやると、心臓の中で健康な細胞が増えていきます。iPS細胞の利点は自分の細胞を使えるので拒絶反応のない組織が作れるということです」

「それは、必ず適応するということですか?」

 前のほうにいた生徒が質問した。

「今のところ、そういう風に考えられています。他に質問は?」


 すみませんと言って、背の高い女の子が手を挙げた。

「なんにでも分化できる可能性があるということは、精子や卵子を作る事も可能ですか? もしそうなら、クローン人間も将来的には出来るってことですか?」

 参加者たちの間でどよめきが起き、北村は静かになるのを待ってゆっくりと話し始めた。


「iPS細胞を生殖細胞に分化させれば、皮膚からクローン人間ができる可能性も理論上可能ですが、こうした技術が使われることは、今はまだ社会的に受け入れられていません。文部科学省はES細胞同様にヒトのiPS細胞から精子や卵子などの生殖細胞を作ることを当面は禁止しています。これは研究者にとってセンシティブな問題です。倫理的問題は科学で解決できないけれども無視することはできません。この技術を使えば男性から卵子、女性から精子を作るのも可能となって同性愛者にも自分たちの子どもが持てるようになります。生命を人工的に誕生させることに繋がる研究は慎重にならざるを得ませんが、iPS細胞から作った生殖細胞で、不妊症の原因解明や治療法の発見に繋がることが考えられるので一概に悪いと言えないのです。日本生殖再生医学会では、iPS細胞で作った精子と卵子を受精させても染色体異常が起こらないか調べる必要性を訴えています。不妊の原因を調べるには欠かせないからです。今はiPS細胞から精子や卵子を作ることは認める方向で議論していますが、受精は倫理的問題がもっと深く、今後の課題です……」

 人間が人間を作っちゃいけないってことか。サキは心の中でつぶやく。


「世界初の試験管ベイビーとして一九七八年にルイーズ・ブラウンが生まれた当時は、世論は体外受精に否定的で非難を浴びましたが、昨年の日本産科婦人科学会の報告によると、日本でニ〇〇五年に行われた体外受精で生まれた子は一万七千四百人にもなって、この年に生まれた子の約六十五人に一人、つまりニクラスに一人の確率です。二〇〇八年には二万人を越すと言われています。ですから、あなたたちの子どもが親になるころには、普通にクローン人間がいるかもしれませんね」

 北村は冗談っぽく言ったが、クローン人間のいる未来になってもおかしくないと、そこにいる全員が思っているのがサキにはわかった。


 予定されていた実験をすべて終えると修了証書授与式が行われて、iPS細胞の第一人者である赤木宗一教授の署名が入った終了証書が参加者全員に授与された。

「修了証書なんて貰っちゃうとさ、頭が良くなった気がするね」と、エリカが笑う。

 北村に誘われてサキとエリカは研究員たち三人と近くのカフェへ行った。


 一番年下の研究員がみんなの飲物を買いにいき、サキとエリカは、北村と女性の研究員と一緒に席を探した。すぐに北村が窓際に空いているテーブルを見つけて、急ぎ足で席を確保しにいく。サキたちも後に続いた。

「おまえは俺の横ね」と言って北村がエリカを隣に座らせたので、サキはエリカの向かいに座る。北村はエリカの椅子の背もたれにさりげなく肘をのせ、これ見よがしにエリカの肩を抱いた。可愛い女の子を連れていることが自慢なのだろうが、実験室で講義をしていた生真面目そうな男と、同じ男には思えない。

 近くのテーブルから椅子を持って来た女性の研究員が、サキとエリカが座っている側のテーブルの端に椅子を置いて席に着いたとき、飲物がちょうど届いた。飲物をテーブルの上に置いて、運んできた若い研究員がサキの隣に座る。

 北村が肩にまわした方の手でエリカの髪を撫でながら、「どうだった?」と講義について訊くと、「面白かったよ。それにコウくん、超、かっこ良かったぁ」と、エリカは『おばか』な振りをした。

「そうかなぁ」と鼻の下を伸ばしてにやにやしている北村を、他の研究員たちは呆れた顔で見ている。


 女性の研究員に講義の感想を訊かれたサキは、率直に感じたことを述べた後に赤木教授がどんな人物なのか訊ねた。

 研究員たちはそれをきっかけに、教授の人柄やiPS細胞の研究についてそれぞれ熱く語り始める。研究の話で場は盛り上がり、北村もいつのまにか前のめりになっている。教授がどんなに素晴らしく尊敬に値するか、iPS細胞の未来がどれほど希望に満ちあふれているかを北村が語った。研究の話になると、北村は全くの別人だ。その純粋な研究への情熱がサキには眩しくて、熱中するものが何もない自分が、情けなく思えた。


 自殺した佐伯については全員がショックで信じられないと言い、話は自然に木戸博士や天童に及んだ。天童とはまだ付き合いが浅いようだが、すでに研究員たちは天童のカリスマ的なオーラに魅了されている。北村は天童が研究員全員の名前やプロフィールを覚えていると感激していたけれども、サキにはそれがかえって不気味だった。


「佐伯さんの会社が赤木教授とうまく業務を行っていたのに、どうして政府指導で天童さんのハンズオンって会社が作られていたのですか?」サキが質問した。

「政治的なことが背景にはあるみたいだよ。佐伯さんがあんなことにならなくても、近いうちに、iPS細胞関係の活動を特許業務も含めて見直す計画があったらしい。世界が競争している一大事業だからね、国も本腰を入れてかかっているんだ。国がハンズオンを推しても赤木教授はあくまでも大学主体で研究も事業も行いたいとして、頑として佐伯さんの会社を変えるつもりはないと言っていたけれど、こうなってしまってはしょうがないね」

 サキは北村の説明にうなずいて、昨夜、中井から聞いた話を持ち出した。


「佐伯さんが、倫理的な問題で特許の申請を承認しなかった会社があったようだけれども、知っていますか?」

「ああ」と言って、女性の研究員が口を挟んだ。「確かあれは、『トゥモロー』っていう怪しげなバイオベンチャー企業よ。表面的には何も問題がなかったのだけど、ES細胞を使ったヒトのクローンの研究をしているという噂がある会社だと、佐伯さんのおかげでわかったの」

「クローン人間の研究が禁止されているのにですか?」サキが質問した。

「法律はあるのだけど違反しても罰則が軽いの。確か十年以下の懲役、若しくは一千万円以下の罰金だったかな? 研究者の熱意を押さえ込むには充分な罰則とは言えないわ」


「実際にES細胞で人間のクローンって作れるの?」

 エリカが北村の方を向いて訊いた。

「健康な子宮を持つ女性を何千人も用意できるなら可能性はあるだろうね」

「そんなの独裁国家でない限り無理よ」女性の研究員が笑った。「クローンがすべていけないというわけじゃないけど、赤木教授はそういうことには反対の姿勢をつらぬいておられるから、佐伯さんはお断りしたってわけ。後でわかったのだけど、同時多発爆破テロを起こした”いのちの樹”で研究をしていた科学者たちが関わっているようなの。けっこう業績がよくてうなぎのぼりの会社だけど、何だか得体が知れないわ」

 いのちの樹の名前が出てサキは動揺した。もう少し突っ込んで話を訊きたかったが、話は赤木教授の最新の研究に移ってしまった。


 一時間ほど話をして全員でカフェを出た。サキが研究室にもどる女性の研究員と並んで歩いていると、彼女は言いにくそうな表情で話を切り出した。

「さっき話した『トゥモロー』という会社のことなのだけど、木戸博士が関わっていたという噂があるの」サキが興味を持ったのがわかると彼女は話を続けた。「木戸博士は天童さんの口効きでオールジャパンに入ったのだけれど、バックグランドがはっきりしないの。五条元首相は文部科学大臣をされていたから、秘書をしていた天童さんは文部科学省と太い繋がりがあるのよ」

 五条の屋敷にふたりが来ていたのは、そのためだったのか。サキは合点がいった。木戸博士の顔を思い出し、確かに小さいころに会ったことがあると改めて思う。

「これは本当に何の根拠も無い噂なのだけど、天童さん自身が、あのバイオベンチャーと深く繋がっているという噂もあるの。多分、妬んでいる人たちが言いふらしているのでしょうけど」

 女性の研究員は声を小さくして言った。

 天童と木戸が、いのちの樹の研究者が多くいるという「トゥモロー」と関係している? ふたりの後ろ盾は五条元首相に違いない。いのちの樹には佐藤も関わっていた。あそこで何の研究が行われていたのだろう?

 サキはあれやこれやと推測を始めて次第に無口になった。


 研究所の門の前でみんなと別れて、サキはエリカと駅へ向かった。

「コスモワールドを調べていて耳にしたのだけど、いのちの樹が解散して、信者の多くがコスモワールドに流れたみたいなの。それが本当なら、出所したての青木が昔の仲間を頼って、すぐにコスモワールドに入ったのもうなずけるよね」

 女性の研究員の話に衝撃を受けたサキは、エリカの話をぼんやりと聞きながら木戸の記憶を辿っていた。木戸のことを考えていると、母が家にいなくて麻生とふたりだったころのことをサキは急に思い出した。三、四歳のころだ。昔は無意識にそのことを思い出さないようにしていた。口にすると、また母がいなくなってしまいそうだったからだ。

 サキの母は家を出て行く前に麻生とよく喧嘩をしていた。あるとき、麻生がものすごく怒って物を母親に投げつけたことを、サキはよく覚えている。麻生が怒鳴って、サキの母は泣いて家を出て行った。


 そうだ、博士はあの男にとてもよく似ているのだ。サキは記憶の片隅に木戸の顔を見つけた。一年ほど経って母がもどって来たときに母と一緒にいた男だ。母が帰ってきてから、変な男につけられたり見張られたりしたので、サキはとても恐ろしかった。あの男に母がまた連れて行かれそうで不安だった。


 信号が変わり、立ち止まっていた人々が一斉に歩き出した。交差点に音楽が流れてサキは我に返った。

「合コンで会ったコスモワールドの女の子の誰とも、連絡が取れないんだ」エリカが口をへの字にして言った。「だからと言って、エリカを無能だとは思わないでね。天童と木戸の繋がりを調べていたら、すっごいことがわかっちゃったんだ」

 エリカは勿体ぶって言った。

「すごいことって?」

「木戸博士と翼のお父さんは、同じ大学の同期なんだよ」

 サキは驚いて思わず立ち止まった。


「いのちの樹」を中心にパズルのピースが繋がっていく。それは確実に母や弟にも繋がっているのだ。そう考えるとサキは真相を知るのが急に恐ろしくなった。


京都大学をモデルにしていますが、小説上では東京にある大学のように描いています。

実際にはiPS細胞をめぐる贈賄事件は創作したもので実際には起こっていません。


iPS細胞研究所(2009年5月以前はiPS細胞研究センター)で幹細胞研究に焦点をあてた高校生向け実験教室が年に一度開催されています。作品では2007年9月ですが、2009年11月講義の様子を 参考にしています。 講義中に、iPS細胞から精子や卵子などの生殖細胞を作ることを当面は禁止していると書いていますが、人の生殖細胞を作る研究は2010年5月に解禁されました。

2011年にiPS細胞から作った精子での受精と出産に成功。

2012年10月に、京都大の研究グループがマウスのiPS細胞から卵子を作成し体外受精によって正常な子供を誕生させることに世界で初めて成功したと、報じられたばかりです。

理論上では、ips細胞で人工的に作成した精子と卵子によって子供を作ることが可能になりました。


追記、これまで自分の細胞で作ったiPS細胞の移植では拒絶反応が起きないとされていま したが、免疫による拒絶反応を引き起こす例があることを、米カリフォルニア大サンディエゴ 校のチームがマウスの実験で明らかにしたと2011年、5月14日に読売新聞が報道しまし た。

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