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33 はめられた男

 若菜が連れていった店は、青いのれんに「彩」と小さく書いてあるカウンターに十席しかない小さな小料理屋で、二階は住居になっているようだった。和服が似合うしっとりした女性が店をきりもりしており、若菜はその女性を彩と呼んでサキをあずけた。


 夜の盛り場をふらついてもせいぜい行くのはクラブかバーで、サキはこういうおとなの店に入ったのは初めてだった。彩は着物を着ているので年がいっているように思えたが、よく見ると三十を過ぎてはいないようだ。

 綺麗なひとだと、サキは思った。クラブのママやキャバ嬢とも違うし、旅館や料亭のおかみとも違う。料理は作るがシェフでもない。彩のような女性を見たことがなかった。

 穏やかな顔で客と談笑して時には艶っぽい仕草を見せるが、男がそう簡単に踏み込めない空気を感じる。

 それは拒絶ではなくむしろ寛容であって、男は彩に癒されて関係に不変を求める。

 サキには、そういった男女の駆け引きはわからないけれど、「彩」は疲れた男がつい寄り道をしたくなる、男を癒してくれる店だということはなんとなくわかった。


 独りで来ている客がふたりカウンターの奥のほうに別々に座っていたので、サキは入り口に近いところに座った。

 彩はサキが食事をしてないと聞くとポテトサラダとコロッケをサキの前に置いて、美味しい日本茶を入れてくれた。

 中井という、佐伯の弁護士の助手が店に現れたのは十時を過ぎたころだ。サキの期待を裏切らない、弁護士という職業を絵に書いたような真面目で堅そうな男だ。髪は白いものが混じっていて四十歳前後に見える。助手と聞いていたので、もっと若い男を想像していた。この男とエリカのツーショットを想像するのは難しい。


 中井は食事を済ませてきたと言って酒を飲むのも躊躇したけれど、場を読んでビールを頼んだ。

 いきなり事件の話はしづらかったのでエリカとのなり染めを訊くと、法律家であるエリカの父親の関係で知り合ったと、中井は照れながら答える。エリカの話をするときの中井は、目尻が下がりっぱなしだ。うちとけたところで、サキは本題にはいった。


「佐伯は賄賂を本当に受け取っていたのですか?」

 中井に合わせて丁寧な言葉使いになる。

「潔癖な人だったので、彼を知る人間はみんなショックを受けています。本人は最後まで否定していましたけど、本当のところはわかりません。私たちは立場上、信じるしかありませんから。話をした印象では嘘を言っているようには思えませんでした」

 中井は佐伯の死に困惑しているように見えた。口振りから、佐伯が自殺をするまでは無罪を信じていたのがわかる。

「自殺した日、あの電車に乗るのを知っていた人はいますか?」

「秘書の話だと電話があったそうです。電話を切ると無罪が証明できると言い、急いで横浜へ向かったようです。次の電車に乗らないといけないと慌てていたみたいですね」

「その電話が誰からだったのか、わかりませんか?」

「警察にも聞かれましたが、そこまではちょっとわからないようです」

「ホームに飛び込む直前にかかってきた電話に関してはどうですか?」

「そっちも検討がつきません。目撃者が佐伯さんの様子が急に変わったと証言しているので、呼び出された人物から無罪の証明が出来なくなったと、言われたのかもしれませんね」

「絶望して飛び込んだとお考えですか?」

 中井はちょっと考えてから「そうですね」と答えた。


「佐伯さんの仕事ってどんな仕事だったのですか?」

 サキは空になったグラスに気づいて中井にビールをついだ。

 中井は、すみませんと言って丁寧に頭を下げる。ビールを一口飲んでから答えた。

「iPS細胞は今や注目の的です。製薬会社をはじめ、いろんな研究機関がiPS細胞を使って新薬の開発や再生医療の研究に取り組みたいと思っています。大学は特許などの知財を管理して、企業への使用の許諾を判断しなければなりません。iPS細胞の研究は、世界中で取り組んでいて日々新しい成果が報告されています。海外も含めて、他の大学や研究機関が持つiPS細胞関連の特許などもあり複雑なのです。研究の中心人物である、赤木教授と佐伯さんに交流があったので、佐伯さんが特許の管理を代行していたのです」

「佐伯さんは、便宜を図って恩恵を受けることが出来る立場にあったと?」

「それがそうでもないのです。実際に使用の承諾を決定するのは大学で、佐伯さんは手続きを代行していたにすぎない。それは従来の大学での特許の管理と何ら変わらないのです。佐伯さんの一存でどうにかなるものではない」


「それなのになぜ、佐伯さんが疑われたのですか?」

 サキは身を乗り出した。佐伯に力があって、てっきり佐伯の一存で特許の使用が企業に与えられるのだと思い込んでいたからだ。

「特許を申請する企業が大学に提出する内容に虚偽があったのです。その書類は佐伯さんの指導の下に作られた。つまり、許可を取り易くするように手を貸したと疑われています。決定的だったのは、企業の担当者と会って何かを受け取っているところをゴシップ雑誌の記者に写真を撮られたことです」

 ゴシップ誌というのが気になり雑誌の名を訊くと、やはり霧島が持っていた雑誌だった。


「佐伯さんは、企業のことや写真のことをなんて言っていたのですか?」

「その企業を少しも疑っていませんでした。普段と同じように手続きを取ったそうです。いつもは佐伯さんのオフィスで会っていたのですが、先方の都合でその日は呼び出された場所へ行き、鳥の写真が入った封筒を受け取っているところを撮られたようです」

「鳥の写真をですか?」サキは不思議そうな顔をした。

「佐伯さんにはバードウォッチングの趣味があり、鳥の写真を集めていました。企業の担当者も偶然同じ趣味を持っていて、連休に撮った写真をもらっただけだと佐伯さんは言っていましたが、鳥の写真が何者かによって盗まれてしまい、証拠として提出できません」

「偶然、週刊誌に撮られるなんて、出来過ぎてませんか? はめられたとは思わなかったのですか?」

「佐伯さんははめられたとは思っていなかったようです。疑うことを知らないんでしょう」

 サキは佐伯という男の人となりを垣間見たような気がした。


「遺書があったのですよね?」

「遺書と言えるようなものではありません。すべて私がやりましたと書かれた、走り書きのようなものです。私はこれを遺書ではないと見ています。佐伯さんの自殺は突発的なものです」

「その企業は何と言って弁明しているのですか?」

「それが、事実無根でそのような特許の申請すらしていないと言うのだから驚きです」

「申請書もあって、担当者の写真まで撮られているのに?」

 サキは驚いて目を大きく見開いた。

「ええ、その男は会社の人間ではないというのです。その人物は姿を消して、今も行方がわかりません。実際に社員の中にそのような人物はいませんでしたが、だからと言って会社が全く関係ないとは言いきれません。外部の人物に委託したとも考えられます。佐伯さんが亡くなられなければ、この会社も知らぬ存ぜぬではいられなかったでしょう」

「中井さんはその企業をどう思っていますか? ふたりは殺されたとは思いませんか?」

 サキは躊躇して、少し間をあけてから質問した。


「殺したかは別としても普通に考えれば佐伯さんが無実であろうとなかろうと、この企業がすべてを仕組んだと思います。しかし、この会社に限ってはそうとも言えないのです。経営が悪化していて、例え特許を取れたとしても莫大な資金がかかる新薬の開発や研究に資金を費やせない。もちろん、ライセンスが取れれば銀行が融資をしてくれたりもするでしょうが、そんなに甘いことを言える状況にないのです。だからと言って、消えた担当者が勝手にやったとしたら、いったい何のためにそんなことをするのでしょう?」

 中井の言う通りなら、この企業にはメリットがないように思える。サキは首をかしげた。


「佐伯さんが恨まれていたとか、仕事上のトラブルを抱えていたようなことは聞いていませんか?」

「恨まれるどころか誠実な人柄で多くの人に慕われていたようです。しかし、特許を扱う以上、揉め事はあります。佐伯さんが代行して特許を申請した会社に発明を盗まれたと、男に怒鳴り込まれたことが過去にあったと聞いています。最近ではiPS細胞の使用許可を申請していた会社の研究に倫理的問題があり、許可がおりずに揉めたことがあったようです」

「その程度のトラブルなら、誰にでもありそうですね」

 サキはそう言ってぬるくなったお茶を飲んだ。

 事件を解く鍵は消えた男が握っている。佐伯ははめられたのだと直感した。


「また、いらしてくださいね」

 彩の声がして、サキの後ろでドアが開いた。

 奥にいた客が帰って、気づくと店の中に客はサキと中井のふたりだけになっていた。

 柱の時計は十一時を過ぎている。

「そろそろ終電ですね」と言って、サキは若菜と十二時前には帰ると約束したのを思い出した。

「最後に一つ。コスモワールドという団体を知っていますか?」

「コスモワールド?」と中井は聞き返して、「いいえ、知りません」と答えた。


 サキが中井と帰ろうとすると、彩がタクシーを呼ぶからサキに待つように告げた。必要ないと断ったが、若菜に頼まれて金も預かっていると言うのできくしかない。

「エリカと仲良くしてやってくださいね」中井は少し照れた顔で言った。「あいつ、無茶するところがあるから心配で」

 一瞬、目の前のおじさんが同級生の男子のように思えた。話していた相手が弁護士から急にエリカの彼氏に変わった。

「エリカはああ見えて、しっかりしてます」とサキは答えて、エリカのために忙しい中、時間をさいてくれた中井が少し気の毒になった。こういう真面目な男をたらし込むエリカはどうかと思うが、その恩恵を充分に受けているサキは何も言えない。

「新人賞、取れるといいですね。小説を楽しみにしています」

 中井が手を差し出した。

 サキは、がんばります。と答えて、それに応じるように握手をしたが、自分はどんな話を書くことになっているのだろうと、首を捻った。


 彩が入れ直してくれたお茶を飲みながらサキはタクシーを待った。中井と話している間に何杯もお茶を飲んだので、タクシーに乗る前に用を足しておくことにした。

 洗面所に入ると、二階から人が下りて来る気配がする。下りて来た人物が、のれんをしまっている彩に話しかけた。

「早いな。今日はもう閉めるのか?」

「ええ。すぐに後片付けを終わらせますから、ゆっくりしていらして」

「いつも、すまない」

 サキはその声に聞き覚えがあった。

「いいのよ。何かお飲みになる?」

「いや、今日は帰るよ」

「泊まっていってもいいのよ」

「ありがとう。充分休めたよ。仕事にもどる」


 鼓動が速くなっていくのを感じた。声の主に心当たりがある。サキは洗面所のドアを少しだけ開けて隙間からその人物を見た。

 思った通り、あの男だ。男が振り返ったのでサキはとっさに顔を背けた。

 彩が男に上着を着せて肩のほころびに目をやった。

「省吾さんのこの上着も、だいぶくたびれてきたわね。今度いらしたときに直しておくわ」

「助かるよ」と霧島が答えた。

 サキは心の奥がキュンとして苦しくなった。なぜ、自分が隠れているのかわからない。心臓は今までにないほど激しく波打ち、なぜだかふたりの姿を見るのが辛かった。

 ドアがガラガラと音をたて、ふたりが店の外に出た。サキは彩が店の中にもどるまで、その場に立ち尽くしていた。


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