30 敵か味方か
午後四時きっかりに、翼の家のドアを開けたのは意外にも佐藤だった。
「安定剤を飲ませて眠らせています。あいつの心も限界だったのでしょう」
夕べから栄子は泣いたり暴れたりで手がつけられなかったと、疲れた顔で佐藤は言った。
霧島は昨夜から何度もくり返したであろう謝罪の言葉を口にして、頭を深々と下げる。
「頭をあげてください」佐藤が辛そうな顔をして言った。「警察の失態については言いたいこともありますが、現場に行くことすら出来なかった私が、どうしてあなたを責めることが出来ますか。もう二度とその頭を下げないでいいように、今は翼を探して下さい」
佐藤の言い分はもっともだが、空は帰って来たのに、爆弾をつけられて取引に現れた翼は今でも犯人と一緒にいる。父親ならばもっと不安や怒りを爆発させるんじゃないかと、サキは佐藤の態度を不審に思う。
佐藤は、あがってくださいと愛想なく言うと、ついて来いという態度で背を向けて歩き出し、ふたりをリビングへ通した。
リビングにはところどころに家族の写真が飾られており、フォトフレームの中で若いころの栄子が微笑んでいる。それらはサキが見たことがない笑顔だった。生まれたばかりの翼を抱いた栄子の写真を見て、サキは同じ年ごろだった母と弟の姿を思い浮かべた。家は建て替えられているとはいえこの場所でふたりが死んだことを思うと、急にもやもやっとしたものが心の底から沸き上がり吐きそうになる。
「奥様が倒れてしまわれては、何かと大変でしょう」
霧島が本心とも社交辞令ともわからぬ口調で言った。
「すっかり妻に世話になっていたので、こういう時くらい何とかしないとね。仕事もしてないわけですし」
佐藤は申し訳なさそうな顔で答えると、どうぞと言って右手を差し出し、ソファーに腰をかけるように勧めた。霧島は軽く会釈をしてソファーに座る。サキもそれにならった。
「クリニックはどうされているのですか?」霧島が訊いた。
「閉めてしまうわけにもいかないし、かと言って働けるようになる目処もたたない。掃除もしないでほったらかしですよ。滅多に行くこともありません」
霧島は佐藤を気遣う言葉をかけてから空が見つかった経緯を説明した。翼が元気でいると空が話していたことを告げて、手掛かりが増えたので救出は時間の問題であると力強く言う。
佐藤はその間、無表情で話を聞いていた。
「もうひとつ、今日はお伝えしなければなりません」
深刻な顔でそう前置きして、霧島は来週発売のゴシップ雑誌の見本をテーブルの上に置いた。
「警察は掲載を見送るようにと出版社に抗議しているのですが、力が及ばず申し訳ありません」
表紙を飾る、水着のグラビアアイドルが悩ましい目つきで口を半開きにした顔の横に、大きく赤い字で書かれた見出しがサキの目にも入った。
『A君誘拐事件の全貌。狙われていたのは大物政治家の孫だった。警察の初動捜査ミスか? 衝撃、間違えられたA君は、あの精神科医の息子! 哀れ、エリート医師は今……』
それを見た佐藤の顔が真っ青になった。
霧島は何か言おうとした佐藤に、強い口調で大丈夫です。と告げて、佐藤の言葉を遮る。「ご心配されるようなことは何も書かれていません」
サキは、その短いやり取りの中にふたりの間の親密な空気を感じとった。
佐藤が目を走らせて机にもどした雑誌にサキは手を伸ばした。雑誌には記事に付け加えられる最新の情報が書かれた訂正用の原稿が挟まっている。
記事は名前を出してないだけで佐藤とその息子のことだとすぐにわかる内容だったが、翼の家が八年前の立て籠り事件の舞台だったことには触れてない。誰かが雑誌社に圧力をかけたのかもしれないと、サキは疑った。
「夕べのことが、なんでこんなに詳しく書いてあるんだよ?」サキが差し替え用の原稿を人差し指で二回、こつんこつんと叩いた。「空が見つかったのは今日の午前中だよね?」
霧島は、ああ、と答えて小さくうなずく。
「雑誌社に犯人からタレコミがあったのだろうな」
「犯人? 警察の関係者から漏れたんじゃないの?」
「犯人らしき男から電話があったと、学校から警察に連絡がきたのは今朝だ。すぐに我々はその情報に従い空を救出した。だが、ほぼ同時刻にこの雑誌の記者が空を発見したことについて警察に確認の電話をいれている。記者は、空を見つけたおおまかな場所と時間も知っていた」
「どういうことですか?」
佐藤は訂正用の紙をもう一度手に取ると、霧島に視線を移して訊ねた。
「事前に犯人からおおよその内容を聞いていたんでしょう」
霧島は佐藤の方に向いて答える。
「犯人から聞いたんなら、なんで警察に電話をするんだよ」
サキは訳が分からないという顔で霧島を見た。
「タレコミを鵜呑みに出来ないから警察に連絡して裏を取ったんだ。その男は情報にかなりの確信を持っていた。話しの感じから今までも犯人が一方的にこの雑誌社に接触していた節がある。ネタ元をやつらは隠しているが、犯人がタレ込んだのはほぼ間違いないだろう」
「雑誌社と犯人がグルなのか?」
「グルという言い方は正確ではない。犯人の指示で動いているのは確かだろうが、雑誌にとってもおいしい話だってことだ」
サキが少し躊躇って、佐藤に質問した。
「もし、犯人がサイコパスなら、面白がってタレ込んだりする?」
「犯人がサイコパスだと、なぜ思うのかい?」
「やつは、これはゲームだって言ったんだ」
「それだけではサイコパスとは決められない。愉快犯の多くがそういった輩だ。サイコパスの言うゲームの目的は世間を驚かすことではなくて、人を支配することだ。彼らは意外に子どもっぽくて心理戦が好きなのだよ。周りの人間を上手く操って自分は手を下さずに、その執拗な性格で必ず目的を達成する。この事件の犯人は、ただ自己顕示欲が強い人間かもしれないし、サイコパスを偽ることで捜査の攪乱を狙っている可能性も考えられるね」
佐藤の目に光が宿った。医者らしく、てきぱきとした口調で答える。
「やつは支配という言葉をよく使うんだよ。支配したいという欲求が強いと思うんだ」
「支配したいと思うのはサイコパスの特徴だけど、支配したいと考える人がすべてサイコパスではないよ」サキを見て佐藤は付け加えた。「支配され続けてきた人も、人に認めてもらいたいという欲求が強い人も、支配には敏感なんだ」
サキは犯人と接触したときのことを詳しく思い出そうとして黙り込んだ。
「翼君がコスモワールドに出入りしていたのを知っていますか?」
霧島が急に話題を変えると、佐藤はあからさまに驚いて、顔からは血の気がひいた。
「本当ですか? それなら、やっぱり翼はあいつらに連れ去られたのでは?」
佐藤は興奮して声が震えている。
「落ち着いてください。それはこれから調べます」
「いや、きっとそうだ。そうに違いない。あの子は特別な子なのだ。それは、あいつらも知っている! そうでしょ、刑事さん。あなただって知っているはずだ」
佐藤は両手で頭を抱えて子どもがいやいやをするように大きく左右に振った。その豹変振りは尋常でなく、演技のようにも見えなくはない。佐藤に霧島の声は聞こえていないようだった。
「あなたが取り乱してどうするんですか」
霧島が大きな声を出した。声に驚いた佐藤は、飛び上がって急に静かになった。
「いいですか」霧島が諭すように言った。「翼君はコスモワールドに興味を示して熱心に通っていたようです。これから、その情報が事実かどうか調べます。本を団体から借りていたようなので、翼君の部屋を見せてもらえませんか?」
「なぜ、翼がそんなことに……」そうつぶやくと、うな垂れて可哀想なくらい落ち込んでいる佐藤は、返事の代わりに頭をコクンと下げた。
いのちの樹に母と弟を殺されたサキなら、宗教やこういった団体に嫌悪感を抱いてもおかしくないが、なぜ佐藤は翼がコスモワールドに興味を持ったというだけで、こんなにも取り乱すのだろう? サキには、佐藤の過剰な反応が理解できない。
コスモワールドの何を、佐藤はこんなにも恐れているのだろうか?
サキも霧島と一緒に二階の翼の部屋へ入った。
部屋は広くて綺麗に片付いている。玩具や漫画といったものは一切見当たらない子どもらしくない部屋だ。この部屋はすでに警察が捜査していた。
父親の影響からか難しい心理学の本は幾つかあるけれども、どこを探してもコスモワールドに関係するようなものは出てこない。サキは机の上の最新型のパソコンに目をやった。二十四インチの大きなモニターを見て眉をよせる。翼のモニターは、隼人の部屋で見たモニターよりも新しくて大きかったのだ。こんなに良いものを持っているのに、なぜ翼は隼人のパソコンを見てあんなに興味を示したのだろう?
「警察はパソコンを調べたのか?」
サキが霧島の方に顔だけ向けて訊ねた。
「ネットによる犯罪が増加しているからな。メールや閲覧したサイトの履歴は調べたはずだ。特に不審な点があったという報告は受けていない」
霧島の感心はパソコンにはないようだった。
サキたちは何の収穫も得られずにリビングにもどると、ぼんやりとソファーに座っている佐藤に、霧島が声をかけた。
「翼君は立派なパソコンをお持ちですね。佐藤さんの部屋にも、パソコンをお持ちで?」
「仕事で使っていましたから。寝室にも一台、ありますよ」
「そうですか」霧島は満足そうにうなずいた。「では、昨日の夜から今日の午前中にかけて、何をしていらっしゃいましたか?」
「アリバイという意味かね?」
佐藤は霧島の問いに驚き、すぐに顔をしかめた。
「決まりですから」
霧島はうっすらと笑みを浮かべたが、サングラスの奥の瞳は笑っていない。
「妻がもどってきてからは、なだめるのに必死でしたよ。家からは一歩も出てない」
佐藤がむっとして答えた。
霧島は一通りの質問をしている間、メモも取らずに追い込むような視線で佐藤をじっと見つめていた。
質問を終えると気分を害した佐藤に口先だけで謝って、霧島はサキを連れ翼の家を出た。
「あんたはあの人の味方だと思ってたよ」
帰りの車の中でサキは翼の記事が載る週刊誌の見本をぱらぱらとめくって言う。
「疑ってかかるのが仕事だと前に言ったはずだ。あの男は疑うだけの根拠がある」
「根拠?」
「あの男のクリニックはお茶の水だ。空が発見されたビルから八百メートル。歩いても十分足らずだ。東京ドームからも一・四キロと近い。薬で奥さんを眠らせている以上、夜中のアリバイは成立しない。部屋にパソコンがあれば昨夜の犯行も可能だ。金に困っているという動機もある」
誘拐はあの親子の狂言だと言うのか、と言おうとしてサキは言葉を飲み込んだ。
ページをめくるサキの手が止まる。サキは雑誌を食い入るように見た。
『天童佑二、知的財産管理会社「ハンズオン」社長。iPS細胞の未来を託された男の顔』と書かれた見出しのすぐ横で、五条の家で会った若い男が笑っている。サキの瞳はその男の顔に釘付けになった。
天童という男のプロフィールには、コスモワールド特別顧問と書いてある。どこかで見たことがあると思ったはずだ。コスモワールドのビルの前で演説をしていた、あの爽やかな笑顔の男だ。
雑誌の笑顔を見てサキは鳥肌が立った。
知的財産管理会社ってことは、この男が自殺した佐伯の仕事を引き継いだのか?
サキは内心でつぶやく。
「ねえ、五条の爺さんは総理大臣になる前に、なんかの大臣をやっていたよな?」
「文部科学大臣だ。それがどうかしたか?」
「文部科学省……」
サキの背筋に冷たいものが走った。




