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2   翼

 いつもより十分早く佐藤翼は小学校に向かった。

 早く家を出たのには、これといって理由はない。少し早く目が覚めただけだ。家にいると母親があれこれ構っててうるさいので、お気に入りの青いパーカーに手を通して、さっさと登校することにしたのだ。


 外は朝だというのに日差しが強くて暑かった。

 母親の用意したシャツを素直に着てくれば良かったと、翼は後悔する。シャツは薄いピンク色をしていたので着たくなかったのだ。 


 翼はなるべく男の子らしい色の服を着るようにしている。

 長いまつ毛にぱっちりとした大きな目。可愛らしい顔をしている上に翼という名前のせいで、小さいときから女の子と間違えられているからだ。

 特に最近では大ヒットしたアニメのヒロインと同じ名前ということもあり、しょっちゅう女の子と間違われて嫌な思いをしている。


 学校までの十五分の通学路には、まだ早い所為かクラスメートはいなかった。教室に着いたら算数の応用問題でも解いていよう。塾を減らしたからといって成績は下げられない。今度のテストでは一番を取り返さなければ。あんなやつに負けられない。


 それは翼にとって初めての敗北だった。

 翼はいつでも一番でいなければいけないのに、あの転校生が来てから何もかもが思い通りにならない。無邪気な顔で笑う転校生のことを思い浮かべて、翼は拳を強く握りしめた。


 麻生空は六月半ばの中途半端な時期に、私立の有名大学付属小学校から転校してきた。

 身体が小さくておどおどしている空を見たとき、翼は自分をアピールするために優しく転校生のめんどうをみる学級委員を演じた。計算違いだったのは、翼のおかげで空はすぐにクラスに溶け込んで、あっという間に人気者になったことだ。         

      

 友人にだけでなく先生の信頼も厚い翼は、入学してからずっと学級委員を続けていて、来年は児童会長に選ばれるだろうと期待されている。

 ところが、二学期の選挙では、転校してきたばかりの空とわずか三票差での当選だった。常にトップであることを父に要求される翼は、誰にも負けることが許されない。来年は必ず児童会長に選ばれなければならないのだ。


 精神科医として成功を収めた父親に人を操る術を仕込まれた翼は、ライバルが現れると、相手が頭角を現す前に人知れず潰してきた。決して自分が言い出したとわからないように影でターゲットの悪い噂を流し、その子と仲の良い友人に巧みに嘘をついて仲違いをさせる。それでいて表向きには潰す相手の相談にのり、自分は味方だと思わせる。そうやって翼は敵を排除し、友達や先生の信用を深めていった。 


 天使のように愛くるしくあどけない笑顔の裏で、翼が腹黒い計算をしていることには誰ひとりとして気がつかない。人を思うがままに操ることは簡単だった。


 ところが、あの空という転校生には翼の策略が通じない。

 おっとりしている空に、誰かが悪口を言っていたとさりげなく吹き込んでも、空は自分の欠点を認めて笑い飛ばしてしまい全く相手にしない。翼にとって空は目の上のたんこぶだ。


 翼が校門に着いたとき、学校はいつもと違ってとても静かだった。このぶんだとクラスで一番かもしれない。そう思うと心が弾んだ。何でも一番に越したことはない。翼は上履きに履きかえて二階の五年三組へ向かう。


「お早うございます、翼君」

 翼が教室のドアを開けようとすると、後ろから大きな声で呼び止められた。

 手をドアにかけたまま翼が振り向くと、NYヤンキースのキャップを被った空がくったくない顔で笑っていた。 空の高そうな服を見て、翼はますます空が憎らしく思える。


「お早う」挨拶を返して翼がドアを開けると、誰もいない教室の机の上に、ぽつんと空のランドセルがあった。それを見て翼の顔が歪む。


「早いんだね」

 翼はランドセルを睨みつけて言った。

「みんなで植えたチューリップが、今日辺り咲くのではないかと気になって、早く来ちゃいました」

 空のあどけない笑顔が翼をいらいらさせる。

 翼は苛立ちを隠して教室に入った。


「きのうの、『アトランティスの美少女戦士』は泣けました」空はアニメの話をしながら、翼についてくる。

 あんまりうるさいので、翼は話を終わらせようとして「アニメは見ないんだ」と嘘をついた。


 実際、厳格な父親にアニメや漫画を見ることを禁じられている。表だってアニメを好きと言えない翼は、ネット上に違法でアップされているアニメをこっそり見てはファンサイトを訪れて、キャラクターについて語り合ったりイラストを交換したりと、ネットの中だけでおおいに活動していた。


「アニメの世界を知らないなんて翼君は人生を損しています。今度、僕がアニメの専門店へお連れしますよ」

 翼は強引に空に約束させられた。


 始業のベルが鳴り、担任の吉沢先生がいつもの紺色のジャージを着て教室に入って来た。吉沢先生は少し気が弱そうではあるが、熱血漢で児童たちに兄のように慕われている。先生が出席を取り終えると、すぐに国語の授業が始まった。


「走れメロスという小説は、メロスの代わりに人質になったセリヌンティウスを救おうと、メロスが必死に走る話です。先週、みんなで読みましたね。では、この小説の感想を言ってください」

 先生は眼鏡を持ち上げてくるっと教室を見渡すと、翼を指名した。


「メロスを信じて身代わりになったセリヌンティウスは偉大だと思います。心からメロスを信じていなければ、身代わりになることはできません。メロスのように、僕も友達に信じてもらえる人間でありたいです」

 先生は満足そうにうなずいている。

 空が大きな音をたてて拍手をすると、みんなもつられて拍手をした。


「翼君に同感です」空が後ろの席から翼に話しかけた。

「僕もメロスのように命と引き換えにしても、友情を貫きたいです」


「本当にそんなことが君に出来る?」翼がいらいらして言った。

「大きな恐怖を前にすると、良心なんて簡単にどこかにいっちゃうよ。そういうのを偽善って言うんだ」


「偽善?」空が聞き返す。

「いい子ぶっているってことさ」


「そうですね……」空は首をかしげて宙を見た。

「翼君の言うとおりです。僕はまだ弱虫で、今は偽善かもしれませんが、恐怖を前にしても良心に忠実であり続けるのは勇敢で英雄的です。僕は一日も早くそうなれるように、これから身体を鍛えることにします。ありがとう。やはり、親友の言うことは違いますね。厳しい意見は僕のためになります」

 にこにこして言う空を見て、空のこういうところが大嫌いだと翼は思う。


 その後すぐ終業のベルが鳴ったので、先生は次の授業までに男女二人組のパートナーを決めておくように言って授業を終えた。


 音楽教室に向かって翼と空が歩いていると、女の子が三人、後ろからついてくる。真ん中にいるのはクラスで一番可愛いと評判の陽菜(ひな)だ。翼は陽菜が自分のパートナーになりたくて声をかけようとしているとすぐにわかった。陽菜はずっと前から自分のことが好きなのだ。三年のときも、四年のときも、バレンタインに翼にだけこっそりチョコをくれた。


 翼は陽菜に想われて満更ではなかったが、陽菜にだけ良い顔をしたら他の女子から人気がなくなる。それに待ち構えていたように見られるのは嫌なので、気づかない振りをした。

 もう少しこのまま歩いて陽菜が声をかけてきたら、とびっきりの笑顔で振り向いてやろう。


 音楽教室に入る直前に、陽菜が勇気を振り絞るような声で呼び止めた。

 ほうら、来た。翼の顔がほころぶ。


「あの、ちょっといい?」

「なんだい?」

 翼は白い歯を見せて爽やかな顔で微笑む。まるで、雑誌の表紙を飾るアイドルのような笑顔を陽菜に向けた。

「えっと、あの、空君に……」

 陽菜は翼と目が合うと気まずそうな顔をして視線をすぐに空に移した。


「僕?」

 空がきょとんとした顔で陽菜を見る。

「パートナーになってください」

 陽菜の顔がみるみるうちに真っ赤になった。


「いいですよ」空は陽菜に笑いかけ「よろしくお願いします」と言って、ぺこりと頭を下げる。


 陽菜も同じようにぺこぺこと、頭を数回上げ下げし、「ありがとう」と嬉しそうな声をあげて待っていた女の子たちのところに走っていった。


 翼は身体が熱くなっていくのを感じた。

 胸の奥が、ぎゅっと握り潰されるように痛い。頬が真っ赤になっているのがわかる。経験したことがない屈辱感に全身が震えていた。


「許せない」

 翼は空の背中を睨みつけた。


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