28 疑心暗鬼
翼が部屋から連れ出されて、どれくらい経ったのだろう?
「簡単なことだろ。自分だけ助かりたいと言え」
スピーカーから聞こえてくる声は、なんどもなんども空に言った。
自分だけを助けて下さいと、犯人に屈して空が言おうとしたとき、「僕が必ず君を守ってみせるよ」という翼の言葉が頭をよぎった。
騙されるな。翼君を信じるんだ。
空の心の奥から小さな声が聞こえた。とてもとても、小さな声だった。その小さな声に空は耳を傾けた。
翼と、姿を見せないこの敵のどちらを信じるのか。
空の答えはすでに出ていた。翼に決まっている。
翼が独りで逃げていたとしてもかまわない。でも、犯人が嘘をついていたら?
自分だけ助かっても、翼がひどいめにあわされたら嫌だ。どんなことがあっても自分は翼を裏切らない。
空は心を強く持ち、闇を追い払った。
「強情だね。君は」犯人は笑った。「まあ、いいや。そのほうが私の手に堕ちたときの喜びは大きい。いいか、何が得かよく考えてみろ。危険から身を守るために人に危害を加えても、その危険が大きければ犯罪にならないと法律で決まっているんだ。例えば、難破した船の乗客がひとりしか掴まれない板にふたりで掴まっていたとしよう。このままでいたら沈んでしまう。この乗客は相手を蹴落として溺れさせても罪にならないんだ」
「罪とか法律とか、関係ないです。僕は翼君と一緒がいい。もう、その手にはのりません。僕は翼君を信じることに決めました」
「馬鹿なやつだな。後悔するぞ」
「サキが必ず助けてくれます。サキは昭和のツッパリだからものすごく強いんですよ。平成の不良は逃げだします。あなたこそ後悔しますよ」
「ふんっ」と犯人は鼻を鳴らした。「まあ、いい。そのうち気が変わるだろう」
「気持ちは変わりません。さっき、自分だけ助かろうとしてわかったのです。そうやって助かっても僕は幸せではないからです」
「くだらない。良心なんて邪魔なだけだ。嘘つきめ。もうすぐ、私はおまえを支配する。そんな状態で、いつまでもきれいごとが言えるもんか」
「こんなことをして、本当にあなたは楽しいのですか?」
「楽しいよ、ものすごく。おまえが助けてくれと、頭を下げた姿はぞくぞくしたね。ざまあみろって思ったよ。人間は欲望に勝てないんだ。善人ぶっているやつは、みんな偽物だ」
「僕には難しすぎてわかりません。でも、一つだけわかります。翼君が家に帰ったというのは嘘です」
「ちぇっ」と犯人は舌打ちして、ふてくされた。
「翼と取引したというのは嘘だ。翼には身代金を受け取りに行かせた。このまま翼は帰って来ないだろうな。ざまあみろ。おまえは一生、この暗闇の中だ」
「翼君はメロスです。絶対に僕を見殺しにしません。僕は翼君を信じてます」
「おまえのそういうとこが大嫌いだ。いいか、もしおまえがここから無事に脱出できたとしても、私はおまえの家を知っている。一生、おまえを付け狙ってやる。一生だぞ。覚悟しておけ。それが嫌ならあの街から出て、どこか遠くに引っ越すんだな」
声は笑った。
少しすると扉がゆっくりと開く音がした。人が連れて来られる気配がする。
「空、まだここにいるかい?」
翼の声を聞いて空はほっとした。
「ここにいます。翼君は大丈夫ですか?」
「良かった。独りで心細かっただろ」
「ちょっとだけ。でも、僕は翼君を信じていました」
空は一旦黙ってから、小さな声で付け加えた。
「ほんとは、一瞬だけ疑いました。そして自分だけ助かろうと思いました。メロスのように僕を殴ってください」
「何を言うんだい。そんなことは出来ないよ。第一、僕は縛られているからね」
翼は静かに笑った。
「どっちかひとりを帰してやる。帰りたいと言うほうを帰してやるよ」
声がスピーカーから聞こえてきた。
「ぼくは翼君と一緒でなければ嫌です」空が怒鳴った。
「痩せ我慢していると後悔するよ」
声はさっきと違って、どことなくいらいらしている。
「翼君はもどってきてくれました。僕が先に解放されるわけにはいきません」
「どっちでもいいと言ってるだろ。早く決めてくれ」
「空、ここにふたりでいても、どうにもならない。君がもどれば僕が助かる可能性だって広がる。ここは君が先に帰ってくれ」
「さっさと、どちらが先に帰るか決めろ」
声が荒々しい口調で言った。
* * *
丘の上から見た街は美しかった。
前に空たちと訊ねたときはこの景色を見て清々しい気分になったのに、同じ風景がどんよりとして見えるのは天気のせいだけではないだろう。隼人の家の前でサキは立ちすくんでいた。
勢い余ってここまで来たものの、何だか急に馬鹿らしく思えてきた。なぜ、少し隠し事をしただけで、隼人が空の誘拐に関わっているなんてことになるのだろう。確かに隼人の家ならば家の構造上、玄関を通らなくても庭から出入りできる。あの様子では両親は一階に下りることはなさそうだ。
確かめてみよう、そうすればすっきりする。サキは腹を決めて玄関のベルを押した。
すぐに、小さいころに何度か会った隼人の母親がドアを開けた。
「もしかして、サキちゃん?」隼人の母親はサキのことがすぐにわかった。「懐かしいわ。すっかり綺麗になって」
隼人は留守だったので、サキはとっさに嘘をつく。
「隼人君に貸したノートが急に必要になって取りにきました。机の上にあると言っていたので持ってきていただけませんか?」
隼人の母親は困った顔をした。息子の留守に部屋に勝手に入りたくないようだ。
「ごめんなさいね、あの子が暴れると手がつけられなくてね」
暴れる? あの隼人が?
驚きながらも、サキは隼人の部屋のへこんだ壁を思い出した。
隼人の母親はろくに隼人と顔も会わせていないようだ。愛情がないわけではない。接し方がわからないのだろう。
自分がどんなに息子に期待して尽くしてきたか、隼人の母親はサキに長々と語った。
昔はあれこれと口うるさい両親だったのを覚えている。子どもを支配して力で押さえつけるようなところがあり、息子が思い通りにいかなくなると、途端に臭いものに蓋をするように構わなくなった。隼人は学校だけでなく家でも支配されていたのだ。サキは隼人の孤独を想い、その怒りに共感した。
しばらく話を聞いた後、サキは母親に断って玄関の脇の庭へ続く階段を下りた。
ガラスの窓はカーテンが閉まっていて中の様子を知ることが出来ない。サキは少しの間、庭から隼人の部屋の様子をうかがっていた。確かに子どもを連れ込み易い作りだけれど、騒がれれば両親に気づかれる。第一、防音の部屋ではない。
考え過ぎだと思うと、急に可笑しくなった。
カーテンの隙間から中が見えないかとガラスに近寄ってみると、急に窓が開いて隼人が目の前に姿を現した。隼人は窓を開けて無表情でいらっしゃいと声をかける。
「今、帰ってきたんだ。どうぞ、あがって」
サキは警戒しながら隼人の部屋に入った。前に来たときと同じように部屋は蒸し暑い。
部屋の中のどこにも子どもを監禁しておけるところはない。サキは胸を撫で下ろした。
「ねえ、麻生さん」
突然、背後で名前を呼ばれて、サキは肩をびくっと震わせた。
「ところで僕は、君に何のノートを借りているの?」
振り返るとすぐ後ろに隼人が立っていて、凍るような冷たい瞳でサキを見つめていた。
何か答えなければとサキが頭を働かせていると、隼人の携帯が突然鳴った。




