26 取引の日 後編
モニター上の赤い点滅はものすごい速さで広場を抜けると、三つ目通りを北上し、永代通りに差しかかったところで急に点滅が弱くなった。
「奥さんは地下鉄の駅に入り、後を追って今サキさんも地下に降りました。このまま私もふたりを追います」
霧島に呼ばれた現場の近くにいる若菜が応答する。
「東西線沿線の各駅に捜査員を待機させる。絶対に見失うな。俺たちも車で後を追う」
霧島が声を張り上げた。
数分後に若菜から中野方面の電車に乗ったと連絡が入った。
最終目的地はどこなのか? 地下鉄の路線図を霧島は睨みつける。
再び若菜から、大手町で下車して丸ノ内線へ移動していると連絡が入り、霧島は大手町の駅に待機させていた人員を丸ノ内線ホームへ向かわせた。
「池袋方面です。今から乗ります」
若菜の合図で、霧島は捜査員を電車に乗せる。
間に合ったのは五名。若菜を含めて六名が電車に乗った。霧島も車で後を追う。
十分もしないうちにモニターに赤い点滅がはっきりと現れて、「後楽園です。降ります」と若菜が早口で言った。
捜査員も一斉に電車を降りてサキたちを遠巻きに尾行する。
霧島はヘリを後楽園上空に飛ばして、全警察車両を後楽園へ移動するように命じた。
* * *
サキは東西線の車内で栄子を捕まえた。
栄子は興奮さめやらぬ様子で車内をうろうろしていたが直に落ち着きを取りもどして、今はサキと一緒に行動している。
地下鉄を降りて、メトロエム後楽園という駅ビルに入るとすぐに携帯が鳴った。
「後楽園に着いたか?」
犯人はさっきより落ち着いた口調だった。
「改札を抜けたらメトロエムという駅ビルの二階に出た」
サキも冷静を装って答える。
「外に出てビルに隣接している歩道橋をあがれ。歩道橋は東京ドームと、ラクーアというビルに繋がっている。三つのビルを結ぶ橋の中央に来い。誰も陸橋に近づけないようにと刑事に言え」
犯人は用件だけ言って手短に電話を切った。
「おっさん、どこにいる? 聞こえているかい?」
サキはマイクに向かって話しかけた。
「心配するな。俺はいつもおまえの近くにいる」
「あたしたちは今から陸橋の中心に行く。やつは誰も橋に近づけるなと言っている。通行人を止めて刑事たちを遠ざけてくれ」
わかったと答えて霧島は無線で刑事たちに陸橋に近づかないように言い、橋の上から金を落とさせないために陸橋のある四三四号線を封鎖。警察車両で陸橋を囲むように指示して、ライフルを所持した重装備の特殊部隊をメトロエムとラクーアの屋上に向かわせた。
栄子の腕を支えてサキが陸橋の階段を上りきろうとしたときには、多くの歩行者がまだ橋の上にいて視界を塞ぎ、橋の中央は見えなかったが、警察が陸橋から遠ざかるようにマイクで呼びかけると、人々は歩みを早めて三方へ散り、サキが歩道橋を上り終えるころには視界が開けていた。
サキは歩みを止めて目を大きく見開いた。栄子の動きが一瞬止まる。橋の真ん中に翼がこっちを向いて立っていた。
サキが翼の名を呼ぼうとしたとき、栄子がサキを振り切って橋の中央に向かって走った。
「翼! 翼!」
息子の名を泣きながら大声で叫ぶ栄子の後を、サキは必死に追う。
間違いない。橋の中央に立っているのは巨人軍のジャケットを着た翼だ。サキと栄子は全速力で翼にかけ寄ろうとした。
「これ以上、近づかないで!」
栄子が翼に触れようとするのを、翼が怒鳴って止める。
その時、タイミングを見計らっていたかのように突然携帯が鳴り、サキは飛び上がった。心臓が止まってしまいそうなくらいドキっとする。
栄子もその場に凍り付いてサキが手にした携帯を見た。一息ついて、サキは携帯の着信ボタンを押す。電話が繋がると、犯人が携帯をスピーカーにしろと命じた。
「翼、ジャケットの前を開けて、みんなにベルトを見せるんだ」
犯人が電話で翼に指示する。
翼は言われた通りにジャケットの前を開けた。翼の胴体には爆弾が巻かれている。
爆弾で作られた帯の中央に時計が設置されていて、時間は五十五分を切っていた。カチカチという音と共に、残された時間がどんどんと減っていく。それを見た栄子は悲鳴をあげた。
「誰も翼に近寄るな。爆弾の威力は知ってるだろう? この前、公園で爆発したものと同じだ。警察が橋に近づいたらリモコンのスイッチを押す」
「卑怯者、姿を見せろ!」
サキは怒鳴って、辺りを見渡した。
「これはゲームなんだ」犯人が静かに言う。
少し間をあけてからその声は翼に指示した。
「翼、金を巨人軍の記念バッグに詰め替えて。さっさとしないとタイムアップになるよ」
「おっさん、聞こえたか。どうする? 爆弾は本物かどうかわからない」
サキは霧島に判断を仰ぎ、霧島はしばらく考えていた。
「仕方がない。バッグを渡せ」
サキは半狂乱の栄子からバッグを取って翼に向かって投げる。
「空は無事なんだろうな?」
「その子が金を持ってもどらなければ、弟の命はないよ。警察が尾行をつけたりしたら、爆弾を爆破する。ふたりとも帰れなくなるよ」
「お姉さん。僕がちゃんとお金を届けます。信じてください。僕は空と約束したんだ」
翼は冷静な顔でそう言うと、持っていた巨人軍のバックに金を移しかえた。
その間栄子は、おろおろして翼の名前をただ呼び続けている。
犯人は翼に携帯を回収するように言うと、電話を切った。
サキは始終淡々としていた犯人の態度が気になった。ゲームだと言いながら最後まで見届けもせずに電話を切るのは、今までの犯人の言動からは考えられない。
「お母さん、犯人の言うとおりにすれば大丈夫だよ。金さえ渡せば僕も空も家へ帰れる。だから僕の後をつけるようなことはしないで。リモコンを押されたら、僕は死んじゃうよ」
栄子は何も言葉に出来ずに、ただ涙を流しながら何度もくり返しうなずいている。
翼は携帯を受け取って時計を見た。風が強く吹いて、今にも雨が降り出しそうだった。
その時、東京ドームから歓声が聞こえた。
「僕は行くよ」
歓声を合図に翼は東京ドームのほうへ歩きだしたが、サキと栄子はもちろん、陸橋の階段で待機している刑事たちも武装した特殊部隊も手が出せない。
翼が陸橋を渡り終えると、刑事たちは一斉に階段を駆け上り翼の後を追った。栄子はドームへ渡ろうとする彼らの前に飛び出して、泣きながら捜査員の行く手を阻む。
ヘリも上空から翼を追跡しているが、ジェットコースターとドームの屋根がじゃまして翼の姿を追うのは困難だった。
その時、試合が終わってドームの扉が開き、観客が一斉に出て来た。みんな同じような巨人軍のジャケットにバッグを持っている。しかも雨が降り出したので、地上は色とりどりの傘で一杯になり、翼はあっという間に人の群れに飲まれて姿を消した。ヘリも刑事たちも、ただ指をくわえて見ているしかなかった。




