1 2007年
なんで昭和に生まれなかったのだろう?
白くなった黒板消しで日本史の年表を消しながら、麻生サキは思った。
平和に成るはずの平成に生まれてこのかたずっと世の中は不景気だ。だいたい景気がいいっていうのがどんな感じなのかもわからない。
クラス全員で仲間のために授業をボイコットするドラマを見て、「こんなの絶対ありえなくない? 昭和っぽーい」などと同級生たちが言うのを聞くと、サキはなんだか空しくなる。
Alwaysなんとか、という大ヒットした映画を見たせいか、昭和ってどこか生き生きとしているイメージがあって、サキはなんとなく憧れる。
バブルで国が富んでいたときは当然かもしれないけど、戦後の貧しいときでも活力がみなぎっていた感じがする。古き良き時代とでもいうのだろうか。
きっと昭和という時代は誰もが信念ってやつを持っていたのだろうと、サキは漫画を読んで勝手に想像している。
昭和の漫画を見ると必死に生きているはみだし者がかっこいい。昭和のツッパリは一本筋が通っていてダチのためなら命をかける絆があるけれど、平成の世ははみだし者を認めちゃくれない。
ゆとりの子どもは優しいなんてよく言われるけれど、競争をさけて生きてきたから争いごとが苦手なだけ。誰もがひとにいい顔をして自分を抑えて生きている。
「息苦しい」
チョークの粉がサキの気管支に入った。
窓を開けて大きく息をする。代わり映えしない校庭を眺めてふっと溜め息を一回つくと、サキは顔を背けて黒板消しをはたいた。
「それが終わったら少しいいかしら? 進路の面接、次はあなたの番なの」
教室のドアから顔だけ出して担任の遠藤がサキに声をかけた。
大学を出て三年目の若い女教師は、生徒のことよりも流行のファッションのほうが気になるタイプだ。
サキが返事の代わりに軽く会釈をすると、「後で会議室に来てね」と担任は作り笑いをして教室の扉を閉めた。
「進路ねぇ」
サキは黒板消しを元の場所に置いてつぶやく。
サキの頭に、街で知り合ったキティが、エクステをいじりながら大袈裟に驚いた顔が浮かんだ。
あれはまだサキが街をふらついていたころのことだ。
「えっ、サキ、高校に行くの? あんた、中学だってろくに行ってないじゃん」
キティは大きな目をくりくりさせて呆れた声を出した。
「だから行くんじゃん」サキが鼻で笑うと、キティは「意味、わかんねえし」と肩を竦める。口元でふっと笑っただけで、それ以上は何も言わない。
街では誰も干渉しない。サキはキティの年齢も本名も知らなければキティと呼ばれる理由を訊ねたこともない。そんな関係が心地よかった。
街を出て高校という檻に入ってからサキはずっと息苦しい。
新しいチョークを並べ終えるとサキは廊下へ出た。
模擬試験の結果が張られた壁の前には人集りができている。サキはその前を素通りして洗面所へ向かった。
結果なんて見なくてもわかる。どの科目も五番から十番の間に入っているはずだ。計算してほどほどに間違えを書いたから、トップの成績をとって目立つなんてへまはしてない。学校の成績は十番以内に入っていれば誰にも文句を言われないし、五番以下なら妬まれることもない。
蛇口をまわして白くなった手を洗う。冷たい水が気持ち良かった。
ハンカチで手をふき、サキは全身を鏡でチェックする。
肩甲骨まである髪を二つにきちんとしばって、眼鏡をかけているあか抜けない少女。人目を惹く端正でシャープな顔立ちは見事に隠されている。セーラー服のスカート丈は校則より若干短めだ。規則通りにガチガチの優等生を気取っていたら、それはそれで目立つ。制服は手足が長くすらっとしたサキのスタイルの良さを隠して、やぼったいどこにでもいそうな普通の女子高生が鏡に映っていた。
張り紙の前はだいぶ人が減っていた。サキは立ち止まって素早く自分の名前を探すと、唇の端だけをあげて微笑む。満足そうにうなずいてその場を離れた。
会議室に入ると、開いた窓から野球部の声援と金属バットにボールがあたる心地よい音が聞こえてきた。窓を背にして腰かけている遠藤先生は、ドアが開いたと同時に顔をあげてサキに前の席に座るように促す。
「受験まではまだ一年以上あるしだいたいの大学は狙えるけれど、志望校は決めた?」
遠藤が長い雑談の後に質問した。
「まだ、絞れていません」
サキは、胸元を大きく開き女らしさを強調している担任のふくよかな胸をじっと見て、簡単に答える。
大学なんてさらさら行く気がない。祖母との約束で高校だけは通うことにしたが、高校生活に意味を見いだせないでいる。しかし、大学に行かないと言えば行かない理由をしつこく聞かれる。あれこれと干渉されるのがサキはめんどうだった。
担任も事務的に訊いているだけで本気で心配しているようにも見えない。綺麗に塗られたネールを気にしながら「これから一緒に考えて行きましょう」と表面的に笑う。
サキも愛想笑いで返したものの、こんな風に男に媚びるような女にはなりたくないと、内心で強く思った。大学を卒業してこんな頭の弱そうな教師になるくらいなら、大学なんて行かないほうがマシだ。この女に指導という名目でつきまとわれるのはごめんだった。
「柴田君とは幼なじみよね?」
担任は進路の話が終わると、唐突に不登校のクラスメートの名前を告げた。
「小学校三年生まで一緒でしたけど、今はよく知りません」
そうよねと、担任は残念そうにうなずく。「学校に来るように、誘ってもらえないかしら」
子どものころによく遊んだ隼人の顔を、サキは思い出した。
ひとりっ子で笑顔が印象的だった男の子。どんなに暑い日でも長袖を着ていたのを覚えている。あの事件のあと、ただひとりサキに優しくしてくれた少年だったけれど、サキが転校してからは音信不通で、高校で再会したものの一年のときはクラスが違った。
サキが転校してから隼人を取り巻く環境は大きく変わったらしい。中学にあがるころから隼人はその優しさと弱さにつけこまれ、いつのまにか虐げられるようになったと聞いた。隼人は、高校生活を新しい環境でやり直そうとしたけれども、隼人を中学から知る人物によってここでもまた虐げられるようになった。
隼人が不登校になる前に、パンを買いに行かされたり掃除当番を押し付けられたりしている姿を、サキは何度か見かけた。だが、どんなに嫌がらせを受けても笑顔でいた隼人をサキは助けなかった。自分でなんとかするしか抜け出す方法がないことを、サキはよく知っていたからだ。そのうち隼人は高校に姿を見せなくなった。
「わかりました。一度、柴田君の家に行ってみます」
サキがそう答えると、担任はあからさまにほっとした顔をする。
「幼なじみになら、心を開くかもしれないわ」
担任は言い訳するように言ってサキの顔色をうかがうと、急に思い出したかのように訊いた。
「お父様が再婚されて引っ越したのよね。お相手は旧華族の家柄で五条元首相のお嬢さんだそうね。どんなひと?」
「明るくて気さくなひとです」
「兄弟も出来たのよね。まだ小さいのでしょう。いくつ?」
「小五です。男の子で、仲良くしています」
遠藤の好奇心丸だしの態度に、サキは気分が悪くなる。
義弟の空と一緒に住み出して三ヶ月になるが、実際は殆ど口を利いたことがない。
「本当の弟さんも生きていたらそれくらいよね。麻生さんも、やっと普通の家族の温もりを味わうことが出来るわね」
普通の家族って何ですかと、訊いてやりたい衝動にかられた。
サキの家族に起きた悲劇を、周囲は極力口にしないようにしている。それはそれでサキを傷つけるけれど、勝手にわかった気になって土足で踏み込んでくる、この女の無神経なところが、サキは一番嫌いだ。
「たらい回しにされて大変だったけど、もう安心ね。昔の家にもどって辛くない?」
“大変だった”そんな簡単な言葉で片付けて欲しくない。
叔父の家にはサキの居場所はなかった。家でも学校でも従姉妹たちは陰湿にサキを苛め、彼らの嘘を真に受けた叔母には疎まれ、折檻を受けた。おかげでサキは十歳にして生きていくための強さと要領を身につけた。
「家のことは、あまり覚えてないので平気です」
これ以上は話したくない。サキは適当に答えた。
覚えてないわけがない。キッチンはいつもいい匂いがして、学校から帰ると母が優しく迎えてくれた。庭で小さな弟と走りまわって、食卓にはいつも家族の笑顔があった。出来ることなら、楽しい想い出が詰まったこの家になど帰ってきたくない。だが、新しい家族四人で住むには、今まで住んでいたマンションでは狭すぎた。
「先生はあなたの味方よ。こんど、お義母さまにも……」
「もう、いいですか?」サキは腕時計を見て話を遮った。「継母の手伝いをすると、約束しているのです」
この女の偽善的な自己満足に、いつまで付き合えというのだろう?
優等生に拒絶されて戸惑っている担任の顔を見たら、少しすっきりした。
「先生には感謝しています」
最後にサキは少女らしい微笑みを浮かべて、担任のために、頭を下げてやった。
サキが家に帰ると、空がひとりでアニメを見ていた。三毛猫のモカが奥の部屋から出て来てサキの足下にまとわりつく。サキはモカの両脇に手を入れて伸びをさせると、ただいまと言って優しく笑いかけた。
モカを降ろして辺りを見ると、どことなく家の空気がいつもと違った。父と継母の茜の姿が見えない。
普段なら、ふりふりのワンピースを着た茜がにこやかな顔でドアを開け、ろくに仕事がない貧乏探偵の麻生は夕飯の支度をしている時間だ。
嫌な予感がした。ふと、テーブルに目をやると、ピンクのメモが目に入った。
『サキへ、今日の飛行機でバリに飛ぶ。茜さんと近郊の島々を放浪して愛を育んでくるぜ。十日にもどる。おまえが話をちゃんと聞かないのがいけないのだ。空を頼む』
「ハネムーンって、今日から行くのかよ。十日って二週間も先じゃねぇか!」
サキはメモを見て思わず声を出した。麻生がハネムーンについて、ああだこうだと言っていていたのは、なんとなく知っている。
でも、ガキをおいていくなんて聞いてない。熱中してテレビを見ている空の背中に目をやってサキは溜め息をついた。ろくに言葉を交わしたこともない空と、二週間もふたりだけだと思うと気が重い。あいつのメシはどうするんだよ。サキは心の中で麻生に抗議した。
気をとり直そうと朝いれたコーヒーをカップに移して電子レンジに運んだ途端に、電話が鳴った。
「アローハー」
ノウテンキな麻生の声が受話器から聞こえてきた。
「いい年をして、ハネムーンとか行ってんなよ」
「あれ、妬いてんの? 再婚してもおまえを愛しているこの気持ちに変わりはない」
「ばっかじゃないの」
サキは電話を首にはさんで電子レンジからコーヒーを出すと、ミルクも砂糖も入れずに一口飲んだ。あまりの苦さに顔をしかめて、チッと、舌打ちをする。
「飲めねえくせに、ガキがいきがって」
「うるせえな。熱かったんだよ。つうか、なんでわかるんだよ」
「朝のコーヒーをチンしてブラックで飲んだんだろ? ちゃんと聞こえてるんだよ。探偵を舐めるんじゃねえぞ」
金は稼げないが元刑事だけあって鼻は利くと、サキは感心する。
「ハネムーンに行くのは勝手だけどさ、ガキを置いていくなよ」
「仕方ないだろ学校があるんだからよ。茜さんを喜ばしてやりたいんだ。協力してくれ」
麻生の気持ちもわからないではない。生粋のお嬢様が、よくもあんな十歳以上も年上の貧乏探偵と再婚したものだ。もちろん、ふたりの結婚に周囲は猛反対したが、茜は息子の空を連れてあっさりと家を捨てたのだ。ハネムーンくらい連れていってやりたいだろう。
「茜さんが楽しんでいるならいいよ。こっちはなんとかする」
お母さんとは呼べないが、おっとりとして一緒にいるだけで癒されるような茜をサキは気に入っていた。この人でなければ、死んだ母の代わりに家に入れるのは絶対に嫌だったに違いない。
「帰ったら、旨いもんを作ってやるからさ、空にちゃんとメシを食わせてやってくれ」
確かに麻生の料理の腕はプロ級だ。あの男の価値は料理だけと言ってもいい。
サキも叔母の家で家事はすべてやらされた。空の食事を作るくらいはめんどうなだけで、たいしたことはない。
「わかったよ、楽しんでこいよ」そう言って電話を切った。
母と弟が殺されて八年だ。麻生に好きな人が出来たことを喜んでやらないといけない。
あの事件は遠い過去のことなのだと、頭ではわかっていた。