17 ときめきと戸惑い
若菜に車で送ってもらうと霧島はすでに門の前に立っていた。
でかいサングラスをかけた、どう見ても堅気に見えない霧島を見て、家の周りをこんな男がうろついていたらそれこそ不審者として通報されるのがおちだと心配してサキは周囲を見渡した。
「俺がそばにいてやるから心配するな」
サキが怖がっているとでも思ったのか、霧島が偉そうにサキたちに告げる。
霧島の顔を見ると再び気持ちが揺さぶられて居心地が悪くなり、サキは皮肉がかった言い方をした。
「あたしを疑っていたんじゃねえの?」
「形式的なものだと言っただろ。おまえみたいな中途半端なガキが誘拐なんて大それたまねをしでかす頭も度胸もないだろ」
「あんた、喧嘩を売っているのか?」サキがかっとして言った。
「サキちゃん、霧島さんは誰にでもこういう話し方なんだよ」
若菜が苦笑いをして仲介に入った。いつのまにか、サキをちゃんづけで呼んでいる。
「じゃあ、サキと同じですね。きっと、いいコンビになりますよ」空が無邪気に笑った。
霧島と交代した若菜は、仲良くね、とサキに告げて空に手を振り、署にもどった。
空が家へ入ってサキがそれに続くと、霧島は若菜の乗ってきた車に向かう。
「入らなくていいのか?」サキが振り返って訊いた。
「ここに居るから、何かあったらすぐに知らせろ」霧島は車のドアを開ける。
サキがほっとして何も答えないでいると、霧島はサキの目を見つめて穏やかな声で言った。「安心しろ、俺が守ってやる」
予想外の霧島の態度にサキは戸惑った。心臓が突然大きく音をたてる。
「心配なんて、してねえーつうの」
勝手に口が憎まれ口を叩いてサキは玄関のドアを乱暴に閉めた。まだ胸がドキドキしている。
なんだよ、あいつ。あんな顔されたら、調子がくるうじゃないか。
サキは心の中でつぶやき、ドアに身体をあずけて心臓の音が静まるのを待った。
着がえを済ませると、サキはすぐに夕食の支度にかかった。夕飯は空の好きな肉じゃがに決めて、明日のお弁当にも入れるつもりで多めに作った。
空は洗濯機に汚れ物を放りこんでいる。モカの世話の次に教えられた仕事は洗濯だ。
何が面白いのか洗濯機がまわっている間ずっと、空は洗濯機をじっと見つめている。洗濯機が止まると洗ったものを取り出し乾燥機に入れ、空はキッチンに顔を見せた。
「美味しそうです。刑事さんの分も作ったのですね。では、僕が詰めます」
サキの返事を待たずに空が弁当箱にごはんと肉じゃがを詰めだしたので、サキは空の好きにさせた。
空は弁当箱と割り箸を持って外へでる。運転手側の窓を叩くと「どうした、何かあったのか?」と言って霧島が窓を開けた。
「お夕食をお持ちしました。サキが作った肉じゃがです」
「あいつ、料理をするのか」
「サキの料理はどれもとても美味しいですよ。なかでも、この肉じゃがは絶品です」
空が得意そうに言う。
「残念だな。車で護衛をしているときは両手を使って飯は食わないことにしている。食っているときに何かあったらすぐに動けないからな。ドラマの刑事があんぱんしか食わないのと同じ理由だ」
「それはお気の毒です。刑事さんは人生を損していますね。僕なら刑事さんがご飯を食べているときぐらい大丈夫ですが、そういう問題ではなさそうですね」
「わかったら、これを持ってさっさと家の中へもどれ。戸締まりをしっかりしろよ」
空は仕方なく弁当箱を持ち帰った。
しばらくすると、サキが家から出て来て車の窓をノックした。
「今度はなんだ」
「メシ、食ってないんだろ?」サキは霧島から視線を外してぶっきらぼうに言った。「中で食えよ。一緒にテーブルで食うなら、すぐに動けるし問題ねえだろ」
霧島が何も答えずに、サキをじっと見た。
「守ってもらっているのにメシをあんただけ食べずにいるのが心苦しいって、空が夕飯を食わねえんだ。だから、早く入れよ」
霧島が何も言わずにドアを開けるのを見て、サキはさっさと家へもどる。その後を霧島が追った。
家の中に入った霧島は、おかしなことがないか隈なく調べて、すべての部屋の戸締まりを確かめてから食卓に着く。
「僕は間違っていなかったでしょう」
空は、大きなじゃがいもを箸で持ち上げて得意そうに言った。
「確かにこれは絶品だ。料理の腕は認めてやるぞ」
「何を偉そうに言ってやがる」
サキは照れくさくて乱暴な口調になったものの、口元を緩めた。
「もしかして、人参はお嫌いですか?」
空が霧島の皿に人参が残っているのを見た。
サキも視線を霧島の皿に移す。
あらかた食べ終えた皿の上には、人参が三個、手つかずに残っている。
霧島は気まずそうに「いいや」と言って、もの凄く恐い顔で人参を睨みつけると、箸をつきさして人参を丸ごと口の中に勢いよく押し込んだ。霧島の顔が大きく歪む。
それを見た空はぽかんと口を開けて目を大きく開くと、思いっきり吹き出した。
「嫌いなら残せよ。素直じゃねえな」
サキもクックックと腹を抱えて笑う。
「嫌いじゃない、苦手なだけだ」
霧島は残っている人参を一気に口に入れた。顔が真っ赤になって目を白黒させる。それでも霧島はしかめっ面をしながら人参を全部食べ終えた。
「空が狙われているっていうのは本当なの?」
食事を終えて空が宿題をしに自分の部屋へ行くのを待ち、サキは訊ねた。
「わからん。一パーセントでも可能性がある限り、それに対処せねばならん」
「護衛なんて下っ端にやらせりゃいいじゃん」
「iPSがらみの事件に人手を取られて、捜査本部は充分な人員を確保できないでいる。増員の要請もしたが却下された。事件が起きてからでないと本腰をいれないのが警察だ。脅迫でもされれば別だが、おまえの弟から貰った帽子を翼が被っていたというだけでは頭数を増やすことは出来ないというのが、上の判断だ」
「なんだよ、それ。じゃあ、護衛はあんたが勝手にやってることなの?」
「未成年だし、放っておくわけもいくまい。両親が旅行中なら尚更だ。本間の事件が落ち着けば人手をまわしてもらえるだろう」
「テレビも新聞もあの事件のニュースばかりだ。iPS細胞って、そんなにすごいの?」
否応無しに最近耳にするので、サキは言葉だけは覚えたが、実際にどんなものなのか、全くわかっていない。
「機能不全になった細胞や臓器を再生する魔法の細胞を、日本の研究者が人工的に作り出したのだ。世界中が注目している。これが実用化されたらノーベル賞も夢じゃない」
「本間っていう文部科学省の職員の死は、浮気が原因で研究とは関係がなかったんだろ?」
サキが灰皿を棚から取って、霧島の前に置いた。
霧島は礼を言うように軽く顎をひいて、サキの質問に答える。
「金の匂いがするところには悪い輩がハイエナのように群がるものだ。iPS細胞の実用に向けて、世界中がどの国よりも早く成功させようとやっきになっている。最初に成功させた国が莫大な特許を得ることになるからな。日本政府もこの研究に異例の支援を行うつもりらしい。クローン技術に関する生命倫理問題や知的財産の保護とその活用に関しても、政府が関与しようとしている」
「それで、本間の死がハイエナによるものじゃないかと疑われたのか」
ああ、と霧島はうなずいて煙草に火をつけた。ゆっくりと煙草を吸ってうまそうに煙を吐く。満足した顔をサキに向けて話を続けた。
「殺された本間は研究を促進するための重要なポストについていたから、最初は研究に関連があると疑われた。金がこの男にも流れているのではないかってね」
「特許を管理していた佐伯って男が賄賂を貰ってたんだろ。もう解決したんじゃねえの?」
「解決するどころか、事件の中心にいる佐伯が死んで、贈賄疑惑は確証を得られなくなっちまった。これで、佐伯に賄賂を贈ったと疑われているバイオベンチャー企業にはメスを入れられない」
「随分、都合よく死んでくれたね。佐伯は本当に自殺なの?」
「遺書もあるし目撃者もいる。佐伯は電車に飛び込む直前に、携帯にかかってきた電話に出ると、急に様子が変になって吸い込まれるように電車の前に飛び出したらしい。その辺のことはワイドショーが報じている通りだ」
「電話で話していたやつは、わかっているのか?」
「公衆電話からで相手は特定できない。他殺を疑う要素はないし解剖もしていないだろう」
「解剖しないって、変死にはならないってこと?」
「実際には十四パーセントの検死官しか現場には行っていない。外傷検査だけで検死が終わっているのが現実だ」
「十四パーセント?」
サキが驚いて声をあげた。
「そうだ。解剖医が不足していて、昨年も警視庁は全体の九・七%の変死体しか実は解剖してないんだ。事件性がないと判断した遺体は解剖もされずに心不全として処理される。それが初動捜査のミスに繋がっている」
「事件ってのは、なかなかドラマみたいには解決しないものなんだな」
「だから、俺がおまえたちを守らないといけないってわけだ」
霧島が目を細めた。
この男が微笑むのを、サキは初めて見た。
「昼間は捜査の指揮を取っているんだろ。夜も護衛なんて出来るのか?」
「心配するな。眠りこけるような失態はせん。昼間に仮眠を数時間だけ取ればいいことだ」
「身体を壊すぞ。何でそこまでするんだ」
「おまえには関係ない」
霧島が撥ねつけるように言った。
「関係あるだろ!」
拒絶された気がして、サキはつい、大きな声を出した。
居心地の悪い空気がふたりの間を流れる。
「しょうがねえな」サキは大きく溜め息をつき、表情を和らげて言った。「そこのソファーにいろよ。家の中にいたら、少しぐらい眠っちまっても大丈夫だろ」
サキは押し入れから毛布を一枚出し、「ほらよ」と言って霧島に渡した。
「いいのか?」
「刑事だからな。信用してやるよ」
サキは見つめられて決まりが悪くなった。テレビでも見てろよと言い、リモコンのスイッチを入れ、霧島に背を向けて夕食の片付けを始める。
手早く皿を洗い終えお茶を入れると、霧島はテレビの画面を見つめていた。
「良かったら飲めば」
ソファーに座った霧島にサキは愛想なく告げて食卓の端に湯のみを置くと、霧島が素直に礼を言う。
「ついでだよ。あんたのためにいれたんじゃない」
サキはつい、憎まれ口を叩いた。
心臓が急にサキの意思とは関係なく、また勝手に走り始める。
しばらくの間ふたりがお茶を飲んでテレビを見ていると、急にテレビから電子音が聞こえて、画面の上のほうに速報が流れた。
『インドネシア各地で相次ぐ爆発。連続爆破テロの疑い』
「インドネシアって……」サキが顔色を変えた。
「おまえの父親がいるのはどこだ?」
「スケジュールを置いていかなかったからわからない。島を巡るとしか聞いてないんだ」
霧島は携帯で外務省に電話をかけたが、テロについてのガイダンスはまだ流れていない。夜だから無理もなかった。あちらこちらに電話をかけてみるがどこにも繋がらない。
何度かくり返してかけているうちに電話がどこかに繋がった。霧島は神妙な顔で話をしながら相づちを打っている。そしてすぐに電話を切った。
「テロはジャワ島を含む複数の島でほぼ同時刻に起こったそうだ。ジャワ島は街の中心部の銀行と複数のビルが被害にあっているが、あまり観光客が行く場所ではない。バリ島は高級レストランがやられたが、こっちも日本人はいないと見られている。他の島の詳しい情報は入っていないが、どれも自爆テロでひとつひとつの被害は大きくない」
霧島が淡々とした口調で説明するのを、サキは血の気のない顔で黙って聞いている。
「今のところ現地の領事館に日本人が被害にあったという情報もない。おまえの父親と連絡が取れるように手配したから、あまり心配するな」
乱暴な話し方の裏に、いたわるような暖かさを感じた。
しばらくすると、テレビがニュースを報じて、邦人が被害にあった確率は低いと伝えた。
「あんなオヤジでも生きていて欲しいって思うもんだな」
「当たり前だ」
「もう、誰もいなくなって欲しくない」
サキは弱々しく、声を落として言った。
「だったらしっかりしろ。似合わねえことを言ってないで、さっさと歯を磨いて寝ろ」
「そうだな」サキは笑みを取りもどして答えた。「もう、眠ることにするよ」
リビングのドアを出ようとしたところで、サキは立ち止まり振り返った。
「ねえ、母さんのことを覚えてる?」
霧島はゆっくりと顔をサキに向けた。サングラスの奥の瞳がサキをじっと見つめる。
「やっぱり、いいや」と言って、サキは霧島に背中を向けた。
「勇敢な、美しい人だったよ」霧島は静かに答えた。
「そっか。ありがとう」
サキは蚊の鳴くような小さな声で言い、自分の部屋へ入った。




