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16 ゲームをしかける男

 空の名を叫びながら公園を走っていると、誰かに名前を呼ばれた気がしてサキは立ち止まった。耳を澄ましても何も聞こえない。サキは左右を見渡して大きな声で空を呼んだ。


「サキ! ここですよ」

 木の陰から空の声が聞こえた。声のするほうを見ると、空がジャングルジムの横にあるベンチに立ち両手を大きく振って笑っていた。サキは一目散に空にかけより、それを見て空はベンチから飛び降りる。空を前にすると左手が勝手に動いて、サキは何か言いかけた空の頬を勢いよく叩いた。手のひらがジーンと痺れる。


 反射的に空は右の頬を抑えた。泣くかと思ったが、驚いて声も出ないようだ。

 空を見つけたら言おうと思っていた言葉がたくさんあったのに、何ひとつ出て来ない。「勝手にいなくなるんじゃねえ」と言うのが精一杯だった。


「空君を叱らないでやってください。私が空君と話したくて、ここに連れてきてしまった。許してください」

 背中を曲げてベンチに座っている貧相な男がサキに謝った。

「あなたは?」

「翼の父親です。チラシを配っていただいて、ありがとう」

 佐藤は憔悴しきった顔を幾分明るくして言うと、隣に座るように勧めた。


「サキ、心配をかけてすみませんでした」

 ぼうっと突っ立っていた空が、神妙な顔でサキを見て頭を深く下げる。

 気をつけろとだけ答えて、サキがベンチに座ると、空もサキの隣に座った。


「私はね、こんなことになるまで、長い間翼のことをほったらかしていたのですよ。翼がどんなことに興味を持っていて、本当は将来何になりたかったのか。そういうことを全く知らない。翼のことを知りたくて空君に声をかけたんだ。すまなかったね」

「いいんだ。こいつが何も言わないで姿を消したのが悪い。あんたのせいじゃないよ」

 サキは身体から力が抜け、自分を偽る気力もなくなって普段の口調で続けた。

「どこの家もオヤジなんてそんなもんさ。あんたはそれでも教育熱心だったんだろ?」

「いや、ひどい父親だ。私はあの子をいつも厳しく叱って一度も抱いてやったことがない」 

 佐藤は許しを請うように語り始めた。


「私はずっと一番でね。翼には日本のトップに立つ力強い指導者になって欲しくて、あの子にも一番であることを強要したのだ。人は優れた遺伝子を持って生まれても環境によっていかようにも変化してしまう。優しい感情なんてものは、支配する者には時として邪魔になる。だから私は翼に一切の愛情表現をしないで徹底的に厳しく育てた。それなのに、私は落ちぶれてこんなに弱くなってしまった」

「病気だろ? 仕方ないじゃないか」

 翼の父親が身体を壊していると栄子が言っていたのを、サキは思い出した。


「違うのですよ」佐藤は背中を丸めて悲しそうに笑い、小さく首を振った。「私は、ある男に負けたのだ」

 佐藤は空を仰いで話すのを止めた。

 サキたちは黙って佐藤が話を続けるのを待った。


「その男は教え子でね。大学では目立つ存在で感じが良く、教授たちにも評判が良かった。彼が困っているとみんなほっとけなくて誰もが力を貸してやる。そう、あの男はひとを思い通りに動かす力を持っていたんだ。そのころ私には優秀な助手がいて、彼女を私の研究チームに入れるつもりだったが、急にその助手は研究室を辞めた。代わりを探すことになって、その男を研究チームに入れたのが始まりだった。私はすぐに彼を気に入り、目をかけて私の片腕となるように育てようとしていた」

 そこまで話をすると再び佐藤は黙った。右手の親指を噛んで足を小刻みに揺らし始めた。


「その人はどうなったの?」

 空が続きを聞きたがり、佐藤は足の震えを手で押さえて小さく一回息を吐いた。


「男は私の大切な研究を奪って学会で発表したのだ。気づいたときは研究室の人間も、私を支援していた人たちも男の味方になっていて、私はやつに取って代わられた。男は私の研究だけでなく、私が築いた地位も権力も名声もすべてを手に入れた。お飾りの私は研究室のやっかいものだった。私はその状況に絶えられなくなって大学を去ることを決意してクリニックの仕事に専念した。このころはまだ、あの男に負けたことを認めたくなくて一番でいられる道を選んだのだ。しばらくして、私の最初の助手が男に騙されて自殺したと聞いた。彼女は研究室を辞めて、あの男と同棲をしていたというのだ。その死には不信なことが多かった」

「チームに入るためにあんたの助手に近づいて、用が済んだから殺したっていうのか?」

「そのころはまさかと思ったが、今となってはそうとしか思えん。あいつは人を平気で殺すことが出来るやつだ」

 佐藤は悔しそうな顔で訴えた。


「私が大学を辞めると、すべてを手にしたにもかかわらず男はいとも簡単にそれを捨てた。あいつはただ、私からすべてを取り上げたかったのだ。いや、それも正しくないな。私とゲームをしたかったのだ」

「何のために、そんなことをするんだ?」

「理由はないよ。楽しいからだ」佐藤は悲しそうに笑った。「男は大学を辞めて私の後ろ盾になっていたある政治家の秘書となった。やつの執拗な挑発に私はまた乗ってしまった。どうしてもあいつに勝ちたかった。一番でいたかったのだ。私はむきになった。だが、それこそがあいつの狙いだったのだ。必死にもがく私を見てやつは楽しんでいた。ゲームは私の心が破滅するまで続いた。私が鬱病を発症して、やっと終結を迎えたのだ。最後にあいつは言ったよ。なあんだ、もうギブアップ? こんなんじゃ、つまんないよ。とね」


 冷たい風が吹き抜けた。遠くで子どもたちが楽しそうに笑っている声が聞こえた。

 サキは佐藤の突拍子もない話に、何て口を挟んでよいかわからずに黙っていた。


「鬱病になってからは何もがどうでもよくなって、翼のことも叱ることはおろか、気にかけることもなくなっていたのだ」

「あんたはそれを悔いているんだろ? だったら、それでいいじゃないか」

 佐藤が初めてサキに視線を合わせた。悲しい目をしていた。


「行方不明になった日、翼はどこに行こうとしたのだろう? いなくなって初めて、あの子の存在がどんなに大きかったのか気がついたよ。ちゃんと、抱きしめてやれば良かった」

 佐藤は肩を落としてうつむくと、それ以上は何も語らなかった。


「サキさん!」

 公園をまたぐ形でかかっている橋の上から、サキを呼ぶ若菜の声がした。見上げると、若菜とエリカが橋の上に立っていた。

「空が見つかったよ」サキは手を振って叫んだ。

 若菜たちは橋を渡って公園に入ると、空にかけよった。

「無事で良かった」若菜が空の肩に両手をあてて言った。

 エリカが口をへの字に曲げて今にも泣き出しそうな顔で若菜の後ろから顔を見せる。空がいなくなった責任を感じているようだ。


「心配をおかけして申し訳ありません」

 空がふたりの顔を交互に見て謝った。若菜が現れて事の重大さを理解したのだろう。サキのほうを振り返り、ごめんなさいと、もう一度言った。

 若菜が捜査本部に電話をかけて報告している間に、佐藤はサキに軽く会釈をして立ち去った。


 捜査本部との電話を切った若菜が、とんでもないことを口にした。

「今夜は霧島さんがおふたりの護衛にあたるそうです」

「今、何て言った?」

 サキは耳を疑った。

「ですから、霧島警部補が……」

「なんだってあんな偏屈オヤジに守られなきゃいけないんだよ」

 サキは露骨に嫌な顔をし、若菜が話し終わるのを待たずに子どもみたいにむきになって抗議した。

「嫌だよ、あんないけすかないやつ。ねえ、お願い。あんたじゃ駄目なの?」 

「意外ですね。あなたは、そんな風に駄々をこねるひとに見えませんでしたよ」

 若菜が楽しそうに言った。

「なんとかなんないのかよ」

「霧島さんの決定は絶対ですから」若菜は笑って答えた。「家まで送ります。ああ見えて、あの人は意外と良いひとですよ」

 若菜は完全にこの状況を面白がっている。

 サキは急に憂鬱な気分になった。足取りは重く、家に帰る途中に何度も溜め息が出た。


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