12 いけすかない男
翼の失踪は、朝刊の『白昼の公園でゴミ箱が爆発!』という記事の下に、小さく載っていた。
iPS細胞の特許にまつわる汚職事件の続報で文部科学省の担当者が殺された事件や、アイドルの熱愛報道が大きく取り扱われて、翼の記事は小さな顔写真と行方不明だという事実のみが書かれていた。
やっと、警察が公開捜査に踏み切ったというのに、思いのほか新聞の取り扱いが粗末なことにサキは不満を覚える。だが新聞記事は些細なことで、サキの不機嫌な理由は別にあった。
サキは冷たい水で顔を洗ってもむしゃくしゃした気分が晴れなくて、洗面台の鏡に映った自分を見つめる。「いけすかない男!」と、鏡の中の自分に向かって怒鳴った。
畜生! あの刑事。思い出すだけで腹が立つ!
金曜日の夜に空が翼の母親から連絡を受けたことについてはすでに警察から電話で事情を訊かれていたが、もっと詳しく話が訊きたいと要請があったので、サキは日曜日の午後、空に付き添って警察の近くの喫茶店へ出向いた。警察署では空が緊張するだろうと若菜が配慮したからだ。
若菜に勧められてサキと空はボックス席へ座わり、マスターが水をテーブルに置こうとした時にあのいけすかない男が現れた。
古ぼけたコートに大きなサングラスをかけて一目で堅気でないとわかる男は、店の主人に「奥を借りるぞ」と、低い声で言うと、サキたちのいる席に近づいてくる。
「最初に空君から話を訊きたいのだけど、独りで大丈夫かな?」
近づいてくる男をチラっと見て、若菜が空の顔を覗き込んだ。
空が大丈夫だと返事をすると、若菜は男を霧島警部補と紹介し、空を連れて奥の個室へ入った。
空が話を聞かれている間、サキは落ち着かない気持ちのままボックス席で待っていた。若菜という刑事は優しそうだが、後から来た霧島という男は威圧的で敵意を感じる。まじめな高校生を装っているサキを、鋭い目で睨みつけていたのは気のせいではないだろう。
少しするとカランカランとドアに付いている鈴が鳴り、男が数名店に入ってきてサキの後ろのボックス席に座った。
彼らの会話から警察署に働く職員だとわかった。無意識に話を聞いていると、霧島という名が出てきたので、サキは気になって耳を傾ける。身体を深く椅子に寄っかかるようにして話を聞いた。霧島の因縁……。その噂話を聞いて、サキの身体から血の気が引いた。
空の事情聴取は三十分ほどで終わったが、サキの話も訊きたいと言われて、空と交代しサキは奥の個室へ入った。
奥の部屋にはコーヒーテーブルが二台あり、それぞれラブシートと一人掛けのソファーが二つ、テーブルの周りに置かれている。
左側のテーブルに刑事たちは着いていた。にこやかな顔をした若菜とサングラスをかけたまま仏頂面の霧島が、こっちを向いて座っている。コーヒーテーブルを挟んで刑事たちと向かい合うようにして、サキはソファーの前に立った。
「どうぞ、楽にしてください」
若菜が右手を前に差し出して、ソファーに座るようサキに勧めた。
「お話することは特にありませんけど」と静かに言って、サキは若菜の前に座る。
「佐藤翼君が消えて四十八時間近く経つのに、これといった情報がなくてね。君たちが翼君と別れたあと、誰も翼君を見たひとがいないんだよ。不審な人物を見たとか、翼君に変わった様子があったとか、何でもいいんだ。気づいたことはなかったかい?」
若菜が笑顔をサキに向けて穏やかな口調で訊ねる。
サキは左手を顎にそっと添えて考える素振りを見せたが、すぐに首を左右に振った。
「特に思い当たることはないです。お力になれなくてすみません」
「では、翼君が行方不明になった日のことを、もう一度、聞かせてくれるかな」
若菜は質問を変えた。
「ホームルームが終わってすぐに学校を出ました。友人が駅の近くの店で弟と会う約束をしていたので、一緒にその店に行きました」
「何時ごろだい?」
「四時半くらいだと思います。時計を見たわけではないので正確な時間はわかりません。店に着いたときにはすでに弟と翼君はそこに居て、十分くらいしてみんなで店を出ました。翼君とはそこで別れました。私たちは家に帰って、翼君は駅のほうへ歩いて行きました」
「翼君の家は君の家の近くだよね。なぜ、駅のほうへ向かったのかな?」
「理由はわかりませんけど、翼君が、じゃあ、またねって言って、反対方向へ歩きだしたように思います」
「何か用事があるようだった? 変だと思わなかったのかい?」
「さあ?」サキは少し考えてから答えた。「特に気にかけることはなかったです」
「夕方になっているのに子どもが独りで家と違う方角に行くのを見て、何とも思わないのはおかしいだろう」
霧島が口を挟んだ。
「寄るところがあるのだろうとしか思いませんでした」
とげのある霧島の言い方に、サキは内心むっとして答えた。
「本当に君たちは真っ直ぐ帰宅したのか? それを証明出来るかね?」
霧島は厳しい口調になる。
「アリバイってことですか?」
「形式的なことだから」
気分を害したサキに、若菜がなだめるように言った。
「弟が私の友人に渡すものがあったので、友人が家にそれを取りに来ました」
「君の弟もそう言っている。君と、その男の友達とは、どういう関係かね?」
霧島は、男の、というところを強調した。サングラスの奥の鋭い視線がサキを捉えて、サキの顔が険しくなる。
「どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だが」
「そんなことにまで答える必要はないと思いますが」
サキは霧島を睨みつけた。
「必要があるかどうかは俺が決める」霧島が大きな声を出した。「君たちは付き合っていて、君はその少年に嘘の証言を強要出来る立場にあるのではないのかね?」
「霧島さん、やめてください。相手は高校生ですよ」
若菜が見かねてサキを庇った。
「だからどうした。高校生でも、やるやつはやる。男がいればガキひとり簡単に拉致できるだろ。疑わしいものは全部疑うのが、俺たちの仕事だろうが」
「わかりましたよ。僕が訊きますから、霧島さんはしばらく黙っていてください」
若菜は霧島にそう言うと、サキに微笑みかけた。
「ごめんね。これも僕らの仕事なんだ。その友達が帰ったのは何時ごろかな?」
「アニメのDVDを見ながら夕飯を食べたので遅くまで家にいたと思います」
若菜が気を使っているのがわかってサキは仕方なく答える。すると、急にあの夜のことを思い出し、声を大きくして続けた。
「そういえば、翼君のお母さんから電話があったときにはまだ家に居ました。その電話のあと、すぐに帰ったので確かです」
若菜はサキの話にうなずきながらメモを取って、隼人の連絡先をノートに書くと名前を丸で大きく囲んだ。
「翼君は誘拐されたのですか?」
冷たくなった紅茶を一口飲んで、サキは質問をした。
「家出をするような兆候も見られなかったし、今のところ事故にあった形跡もないから、事件に巻き込まれた可能性が高いと我々は見ているんだ。でも、これだけ時間が経っても犯人から何の連絡もないっていうのは、身代金目的の誘拐ではないかもしれない」
「偶然、事件を目撃して拉致されたとか、車にはねられて事故を隠すために犯人に連れ去られたとか、そういうことですか?」
「あの家族に何らかの恨みを持っているやつが、犯行に及んだとも考えられる」
煙草をふかしていた霧島が、急に口を開いた。
霧島のふくみのある言い方に、サキは神経を尖らせる。
「若菜、すまないが外の販売機で煙草を買って来てくれないか」
「今ですか?」
「俺は煙草がないと頭が回らないのでね」
霧島は空になった煙草の箱をくしゃくしゃにして若菜に見せる。
若菜が顔を歪めて渋々部屋を出ると、霧島は刺すような視線をサキに向けた。
「佐藤翼に関して思い出したことはないかね?」
「思い出すも何も、二回しか会ってないのでよくわかりません」
「君の弟とはかなり親しいようだが?」
「弟とは一緒に住み出して日も浅くて、そんなに仲がいいわけでもないですから」
「翼のことは知らなくても、翼の家のことはよく知っているんじゃないか?」
霧島は奥歯に物が挟まったような言い方をして、くたびれた背広の内ポケットから新しいマイルドセブンの箱を取り出した。サキの顔をじっと見つめたまま、煙草を一本抜いてゆっくりと火をつける。
「刑事さんが訊きたいのは、翼君があの家の息子だったってことですか?」
「やっぱり、知っていたんだな。猫をかぶらなくてもいい。おまえのことは調べてある」
霧島は勝ちほこったような口調で言った。
「まるで尋問みてえだな、これは任意じゃねえのか」
サキは溜め息を大きくついてソファーの背もたれに寄っかかった。伊達眼鏡を外して足を組む。
それを見て霧島は満足そうに口元を歪め、薄ら笑いをした。
「やっと、正体を現したか。うまく化けていたが、おまえの目を最初に見たときにピンと来たよ。お互い、回りくどいことはやめようじゃないか。正直に知っていることを話せ」
「随分とあたしを高く評価してくれているようだけど、あたしは刑事さんの手を煩わせるほどのタマじゃないよ。期待を裏切って申し訳ないが、翼があの家の息子だと知ったのはあいつが行方不明になってからだ。あの子に会ったときは、どこかで見たことがあるって思っただけだよ。あの事件の前もたいして親しくなかったからね。あんなガキのことなんて覚えてねえよ。それよりも、あんたこそ、あの事件に関わっていたってほんとか?」
霧島が答えないのでサキは続けた。
「本当なんだな。あっちで警察のやつらが噂をしていたよ。因縁だってね。ぺらぺら事件のことを外でしゃべるなと口止めしとけよ。警部補さん」
「今、俺のことは関係ない」
「八年前の事件との関連性は全然ないのかよ?」
「おまえに答える必要はない」
「あの家で、いのちの樹の幹部が何人も死んだんだ。逆恨みしているやつがいるかもしれないじゃないか」
サキは霧島の態度にいらいらして大きな声を出した。
「逆恨みをするのは、カルト教団のやつらとは限らないぞ」
サングラスの向こうで霧島の瞳が光る。
「何が言いたい?」
「おまえだって、あの家で母親と弟を殺されている」
「ふざけるな!」
「ふざけているつもりはない。八年前の事件の関係者で翼の最後の目撃者であるおまえを疑わないのは、警官として職務怠慢だと思わないか? おまえの父親はバリから帰国していないと確認が取れている。おまえのアリバイも調べるのは当然だろ」
「あたしが翼を連れ去ったといいたいのか? 今更、あいつを拉致してどうするんだよ。翼の家族だって被害者だ。教団は恨んでも、あの家族を恨む理由がない」
「可能性はあるということだ。そもそも、逆恨みとはそういうことを言うんじゃないのか? 高校に入るまでの素行には大いに問題があるようだし補導歴も数回とは言い難い。おまえがやったとわかっても、俺はちっとも驚かないね」
「あたしは事件には関係ない!」サキは霧島の挑発にのって声を荒げた。「隼人に訊いてみろ。あたしたちが口裏を合わせてないか、自分の耳で確かめればいい。家の中も調べたけりゃ、気が済むまで探せよ」
こんなに憤りを感じたのは久しぶりだった。いつもは斜に構えた態度で人と深く関わらないようにしているから感情が揺れ動くこともない。興奮して素顔をさらけ出すことなどなかった。
「おまえに言われなくても我々はするべきことをする」霧島が冷ややかに答えた。「覚えておけ、誰にも過去を消し去ることは出来ない。疑われたくなかったら、自分の行動には責任を持て。ガキみたいに拗ねて半端なことをしているんじゃねえ」
サキは何も言い返せなかった。長い間心を覆っていたガラスに、ひびが入った音が聞こえた気がした。
いけすかない男……。
サキは我に返ると鏡の中に焦点をあわせた。そこには無防備な少女が映っていた。
素っ裸で立っているようで居心地が悪い。あのいけすかない男の前で感情をさらけ出した自分に戸惑っていた。
髪をしばって眼鏡をかけても、今日はなぜか落ち着かない。
サキはあの男に逢って、ずっと閉じ込めていた自分の中の熱いものが、一気に溢れ出てきたように感じていた。




