11 失踪
「ガスの点検にまいりました」
作業服を着た二人組の若いほうの男が、翼の家のインターホンに向かって言うと、少しお待ちくださいと、返事があった。
すぐにドアが開き、お入りくださいと言って、扉を開けた栄子が頭を下げる。
霧島は周囲をざっと見渡して家の中に入った。
「さきほど電話で話をしました、警視庁特殊班の霧島です」
霧島は警察手帳を栄子に見せる。
「若菜です」
若い刑事も初々しく警察手帳をかざして、笑顔で挨拶した。微笑むと八重歯が目立って年よりも若く見える。刑事が持つイメージとはほど遠い華奢な体つきで、甘いルックスにサラサラした長めの髪がその辺の若者と変わらず親近感がわく。鋭い目つきで背が高く、がっちりとした、一見、やくざのような強面の霧島とは正反対だ。
ふたりの刑事は高そうな調度品が飾られているリビングルームに通された。部屋の中は、コーヒーの良い香が漂っている。
「さりげなく、カーテンを閉めてください」
霧島に言われたとおりに栄子はカーテンを閉めると、リビングに隣接した対面式のキッチンのほうへ歩いていって趣味の良いカップを棚から出した。
「コーヒーでよろしいかしら?」
覇気のない声で栄子が訊ねると、「おかまいなく」と若菜が答えた。
「翼君の失踪に気づいたのは、一昨日の夜の八時半過ぎで間違いはありませんか?」
若菜が手帳を見ながら栄子に確認した。
栄子は機械的にコーヒーカップを刑事たちの前に置いて黙ってうなずく。
化粧もしないで髪を無造作に束ねている栄子は、普段よりも五歳は年を取って見えた。目の下には大きな隈が出来ていて顔色が悪い。
一昨日から寝てないのだろうと、霧島は思った。
「奥様が家にもどられたとき、翼君が帰って来た気配はなかったのですね?」
栄子は若菜のほうをチラッと見て、コクンと顎を下げた。
「警察は、一昨日の夜十時に奥様から連絡を受けて学校と家の周辺を捜索しましたが、これといった手掛かりはまだありません」
「誘拐されたのでしょうか?」
栄子は小さく声を震わせて言った。
「現時点では何とも申し上げられません。身代金目的の誘拐では二十四時間以内に犯人から何らかの接触があることが多いです。金銭が目的でないとなると連絡がないこともあります。学校と家を中心に半径二十キロのエリアを隈なく捜索していますが、事故にあった形跡は今のところありません」
若菜は言葉を選びながらも、きっぱりと状況を説明した。
「犯人から何も連絡がないので公開捜査に切り替えたほうがより多くの情報が得られると思いますが、いかがでしょう?」
「警察が動いていることが知られてしまっても大丈夫かしら。主人は警察に届けることも反対していたのです」
犯人から連絡がないのに栄子が警察の介入を拒む理由が霧島にはわからない。脅迫されてもないのに不自然だ。
「このままだと捜査は進展しません」若菜が説得を始めた。「犯人から連絡がないのですから警察が動いても問題ないでしょう。ご主人にも相談したいのですが、今はどちらに?」
「主人は、その……」栄子は言葉に詰まった。「仕事に出ていまして」
「車が二台ともあるようだが?」
ずっと黙っていた霧島が口を挟んだ。鋭い目を栄子に向ける。
「出張に……そう、出張に行っているのです」
「ほう、出張ですか。どちらに? 息子さんが行方不明だというのにお忙しいことですな」
霧島はじっと栄子を見つめたまま、ゆっくりとカップを持ち上げてコーヒーを一口飲む。
「どこだったかしら。会議があるって……」栄子はしどろもどろになって目を左右に泳がせた。「どうしても抜けられない学会があると聞いています」
「奥さん、嘘はやめましょうよ」
霧島は口の端を持ち上げて皮肉な笑みを浮かべると、ドスの利いた声を出した。
「旦那は出張どころか、ここ数ヶ月は診療所にも顔を出してないじゃねえか」
三十半ばだというのに、修羅場をくぐってきた貫禄と図太さが霧島には備わっている。
霧島に凄まれて、栄子は顔を強ばらせた。血の気のない顔が一段と蒼くなる。
「正直に話してください。我々は味方です。一番大切なことは翼君を探し出すことです」
若菜が優しく諭すと、栄子は「主人は病気なのです」と言い、両手を顔にあててその場に泣き崩れた。
「半年ほど前に鬱病にかかって、ベッドから起きられなくなりました」
栄子は抑えていた感情を全部吐き出すと、落ち着きを取りもどしてぽつりぽつりと話し始めた。
「心療内科の医師が鬱病なんて、誰にも言えないじゃないですか」
「鬱病は心の風邪だと聞きます。外科の医者だって癌になるのですから、精神科のお医者様が鬱病になっても不思議じゃないですよ。こんな世の中ですし」若菜は栄子を気遣った。
「翼君がいなくなったとき、ご主人は家にいたのですね? ご主人と話はできませんか?」
「どうでしょう? 人に会うのが恐いようです」
「奥さんが家に帰ったときの、ご主人の様子を聞かせてください」
霧島が感情のない声で栄子に訊いた。
夫が鬱病だという秘密を告白した栄子は、包み隠さずにあの夜のことを話し始めた。
家の灯りが消えているのを不審に思った栄子は鍵を開けて中に飛び込んだ。大きな声で翼を呼んだが返事はなく、家のどこにも息子の姿はない。
もしかしたら、友達のところに遊びに行っているのかもしれない。
冷静さを保つように自分に言い聞かせて夫の部屋をノックした。
「翼が帰っていないの。ランドセルもないのよ。何か連絡はなかった?」
夫は答えない。部屋からは不気味な静けさが漂っている。栄子は苛立って声を荒げた。
「ねえ、聞いているの? 入るわよ」
「入るな!」
栄子がノブに手をかけると、夫が大声をあげた。
「知らないよ。携帯にかければいいじゃないか」
「繋がらないから訊いているんじゃない」
夫はまた黙ってしまった。栄子の心を悪い予感がどんどんと占めていく。とうとう我慢が出来なくなり、ドアを開けて部屋に入った。
夫はベッドの中にもぐりこんで丸くなり、布団を頭から被って小さくなっていた。
そんな夫の姿を見て栄子は涙が出そうになる。感情的にならないように自分を抑えて、夫を怖がらせないために静かに話かけた。
「具合はどう? 大きな声を出してごめんなさい」
夫が何も答えないので栄子は話を続けた。
「今日はずっとここにいたの?」
微かに聞こえるくらいに小さな声で夫が返事をする。
「学校が終わってから、翼が帰って来たかどうかわかる?」
「知らない。二階には来なかったよ。テレビの音も聞こえなかった」
栄子はそっとベッドの端に座ると、布団の上から夫の身体を撫でた。
「今日は調子が良くなかったのね。いいのよ、そういう日があっても。翼のお友達から、電話はなかった?」
「電話? 気づかなかったけど。留守電に入ってないの?」
「もう、九時よ。どこで何をしているのかしら」
「男の子だから大丈夫だよ」
栄子は夫にすがりたいのを必死に我慢する。
「警察に電話したほうがいいかしら?」
「それは、まだ早いだろう」
そういいながらも、夫は事の重大さがやっと飲み込めたのか、或は気持ちが落ち着いたせいか、ベッドの中から顔を出して上半身を起こした。
「もし誘拐だったら、警察に連絡するとまずいことになるかもしれない」
「誘拐?」
不安が言葉になった途端、急に現実を帯びてきて栄子は恐くてたまらなくなった。
「友達の家に行ってないか、電話してみるわ」
栄子は部屋を出て翼のクラスメートに電話をしようとリビングへ急いだ。何かをしていないと不安で押し潰されそうになる。プッシュボタンを押す指が小刻みに震えていた。
最初に電話をした家の子どもから、麻生空という児童と一緒に帰ったことがわかった。空の話を聞くと、学校を出たあと家のすぐ近くの公園で一時間ほど翼と遊んでいたらしい。少年の姉が通りかかって五時ごろ翼とそこで別れたという。その時は翼の様子に変わったところはなかったようだ。
栄子は鬱病の夫に話しても不安がらせるだけだと思って、夫に何も言わずに警察に電話をかけた。
「隠していて申し訳ありませんでした」
あの晩の真実を語り終えた栄子は深々と頭を下げた。
「翼君の行方がわからないと告げたとき、ご主人に変わった様子はなかったのですね」
「変わった様子と言われても……」
若菜の問いかけに、栄子は考え込むように首をかしげた。
「鬱病も最近はだいぶ良くなって来ているのです。ベッドから出られない日もあるけれど、息子と公園でキャッチボールが出来るほど調子の良いときもあるんですよ。いつもそんな不安定な状態ですから、なんとも申し上げられません」
「ご主人を呼んでもらえませんかね?」
霧島が冷たく言うのを若菜がフォローした。
「今後のことを、ご主人を交えて話しておいたほうがいいと思います」
「誘拐だとしたら旦那を恨んでいるやつの仕業かもしれないだろう? 息子が殺されてもいいのか?」
「霧島さん!」
若菜が、霧島の言い草を咎めた。
「わかりました。呼んできます」
顔色を変えて栄子が階段を上がっていく。しばらくすると、痩せてひょろっとした夫の佐藤が栄子と一緒に現れた。
佐藤は軽く会釈して、刑事たちが座っているソファーの向かいに静かに腰をかける。
「息子さんは、家出をしたとは考えられませんか?」
霧島が佐藤に訊ねると、むきになって栄子が答えた。
「翼が家出なんて、あり得ません」
「ご主人に訊いているんだ」
霧島が厳しい口調で栄子を制した。
「家出をする気配はなかったと思いますが、よくわかりません」
佐藤が小さな声で答えた。
「麻生空という少年に話を聞いたところ、放課後、駅前のアニメ専門店に翼君と一緒に行ったそうだ。空の姉が店に現れるまで三十分ほどそこにいて、姉が姿を見せてすぐに駅の近くで翼君と別れたと言っている」
「嘘です。あの子はアニメの店になんて行くわけがありません」
栄子が興奮気味に言った。
「ご主人がアニメや漫画を見ることを厳しく禁じているそうですね。それで奥様と電話で話したときは嘘をついたと、空君が証言しています。店に確認したところ、翼君は数日前から何度か店を訪れていたようです。大概はふたり一緒のようですが、独りで現れることもあったようです」
若菜が栄子を気遣って霧島の話に補足した。
「あんたたちに反発していたんじゃないのか? それで家出した可能性は?」
霧島がもう一度、同じ質問を佐藤に投げかけた。
「わかりません。昔はあの子のためを思って多少手荒なことをしましたが、お恥ずかしいが、今はすべてがどうでもよく思えてしまって」
佐藤は肩を落として下を向いたまま弱々しく答えた。痩せて髪が白くなっているので年よりも老けてみえる。下に降りて来てから一度も霧島たちの顔を見ようとせず、おどおどして落ち着かない。息子のことなど、どうでもいいように見えた。
「では、あなたを恨んでいる人に心当たりはありませんか? よく思い出してください」
佐藤は頭をあげて霧島の顔を見た。死んだ魚のような目に突然光が宿って、佐藤の動きが止まった。
「あなたはもしかして」
「お久しぶりです。こんな風に、またお会いするとは思いませんでした」
霧島は柔らかな口調で答えた。
「まさか」佐藤は急に何かを思い出して顔色を変えた。「翼は誘拐されたのですか?」
「まだ誘拐と決まったわけではありません。むしろ、事故や何かしらの事件に巻き込まれた可能性のほうが高いかもしれない」
霧島が静かに言った。
「行方がわからなくなって、もう二十四時間以上経ちます。犯人から連絡がないので公開捜査に切り替えたほうがいいという声が捜査本部でも高くなっています」
若菜が懸命に説得をする。
「公開捜査なんて駄目だ。誘拐だとしたら、あいつらを刺激することになる」
佐藤は激しく首を左右に振った。
「今のままでは、情報が少なすぎるのです」
若菜は必死に説得を続けたが佐藤夫婦はがんとして首を縦に振らない。やっとのことで、今日一日様子を見て犯人から何も連絡がないようなら公開捜査に切り替えることを納得させた。
霧島は犯人から連絡があることを想定して家の電話に逆探知をつけることにした。
若菜が逆探知をセットするために席を立つと、佐藤が霧島に小さな声で話しかけた。
「息子のことは、その……くれぐれも知られないように」
「わかっています。心配は無用です。絶対に誰にも言いません」
霧島は力強く言った。




