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10 嫌な予感

 栄子は駅に着くとバス停を目指して一目散に走った。

 八時三十分のバスに乗りたい。これを逃してしまうと次は二十分後だ。バスに乗れば、家まで歩いて二十分のところを十分で帰ることが出来る。

 こんなに遅くなるはずではなかったので食事の支度をして出なかったのだ。きっと、翼はお腹をすかしているに違いない。


 ホームの階段をかけ下りると駅のロータリーにバスが止まっているのが見えた。前の客がパスネットを機械に入れて改札を抜けようとすると残高不足で扉が音をたてて閉まった。栄子は仕方なく隣の機械へ移動して改札を通る。全速力でバス停に向かったけれども寸でのところでバスは発車した。


 栄子の身体から力がどっと抜けた。タクシー乗り場に目をやると五人ほど並んでいる。例え、並んでいなくてもタクシーにお金は使えない。栄子は目の奥が熱くなっていくのを感じて奥歯をしっかりと噛みしめた。


 こんなはずではなかった。良家の子女が通う女子大でミスキャンパスの称号を持ち、秘書課で一番の人気を誇っていた自分。社内のエリートたちはもとよりセレブと呼ばれる多くの優秀な男性からも求婚されていたのに、なぜ、今、こんな思いをしているのだろう? 栄子は頭を激しく左右に振った。


 結婚退職をして二十年、今になって働かなければならなくなるなんて想像もしなかった。

 女は幸せな結婚をするのが一番だった時代。栄子も例外ではない。人よりも数倍可愛く生まれてチャーミングな自分は、誰よりも裕福で魅力的な相手と一緒になるのが当然だと思っていた。


 栄子は常に流行りの高価な物を身につけて自分を美しく飾るのにお金を惜しまなかった。キャリアを目指して語学を学んだり資格を取ったりするのは、恵まれない容姿の女がすることで、女としての魅力が充分に備わっている自分には関係ない。その時間をエステや合コンに費やした。その甲斐あって投資した分よりも遥かに高い贈り物を受け取ることになっても、それは栄子にとって当然の報酬だった。


 大学に入学した日から九年もの歳月をかけて、栄子が選りすぐった相手が佐藤だ。もっともっとと、上を狙った分だけ婚期が遅れて、遅れた分、相手は極上の男でなければならなくなる。二歳年上で大学の講師だった佐藤は、栄子のそんな理想をすべて満たしていた。


 佐藤は精神医学の分野において早くから論文が認められ、若くして自分のクリニックをお茶の水に開業した。今思えば青山や新宿で開業していたら、通勤も楽だったし、患者も獲得し易いが、当時は大学の近くのほうが何かと便利だったのだ。


 素人向けに書いた心理学の本がミリオンセラーになり、東大卒の若きイケメンエリート医師として注目されて、雑誌やテレビにちょくちょく取り上げられた佐藤は、三十になるころには5LDKの豪邸を世田谷に建てた。栄子は欲しいものは何でも手に入れ、半年前まで自分の選択は間違っていなかったと信じていた。それが、くたくたになるまで働いて家に歩いて帰ることになるなんて。



 薄暗い公園を足早に通り過ぎて、栄子は腕時計に目をやった。時計は八時四十分を示している。

 翼に電話をしておこう。心配しているかもしれない。

 栄子は携帯をハンドバックから取り出して翼の携帯に電話をかけると、電源が入っていないか圏外にあるというメッセージが流れた。不思議に思った栄子はすぐに家に電話をかけてみる。携帯は発信音が鳴ったあと、しばらくして留守番電話に繋がった。


 お風呂にでも入っているのかしら? 

 栄子は首をかしげた。心がざわめき、自然に足が早くなる。やはり、遠くに働きに出たのは間違いだった。翼のことを考えると家の近くで働いたほうがいいけれども、近所の奥さんたちにスーパーやコンビニで働いている姿を見られるのは絶対に嫌だったのだ。何の資格もなく二十年以上も働いていない栄子に人が羨む就職口などあるはずがない。


 家に収入がなくなっても生活レベルを下げることができず、貯金はあっという間に底をついた。仕方なくビルの清掃員として働くことを決めたのは、佐藤が仕事に行けなくなって半年を過ぎてからだった。仕事について聞かれると、子どもの手が離れて家でじっとしているのはつまらないから会社に復帰したと答え、栄子は毎日着飾って家を出た。

 近所の奥様方は栄子が一流会社で秘書をやっていると思っている。そんな栄子を、同じ年頃の専業主婦たちは羨ましがった。


 自分はともかく、翼に恥ずかしい思いをさせたくない。翼はいつだって一番でなければいけないのだ。翼の母親も、いつだって美しく気高くなければならない。


 なかなか子どもが出来なかった栄子は、結婚して三年たったころから不妊治療を始めた。五年もの間、何度も辛い体外受精をくり返しては失敗して、心も身体もぼろぼろになっていた。出口の見えないトンネルの中をずっと走り続けるような日々が、ある日突然終わった。治療が成功したのだ。


 諦めきっていた栄子は、初めて神という存在を信じた。息子の足を引っ張ることは断じてしてはならない。あの子は神様が授けてくださった大切な贈り物なのだから。そう思うと、栄子はどんな辛いことも我慢出来た。どんなことでも。


 急いで歩きながら、栄子は仕事場で起きた今日の事件を思い出して両手を強く握った。

 こんな屈辱的な思いをしたことはなかった。思い浮かべるだけでも腸が煮えくりかえる。栄子が担当している部署で十万円が入った封筒がなくなって、部屋でゴミを片付けていた栄子が疑われたのだ。


 栄子が金に困っていると聞いた封筒を無くした社員が、このおばさんが取ったに違いないと、大きな声でまくしたてた。

 社員は栄子の持ち物を調べたいと言い出して、栄子は素直に応じた。もちろん金など出てくるはずもなく、全員で封筒を探すことになって帰宅時間が大幅に遅くなったのだ。帰っていいと言われても自分に疑いがかかっている以上、栄子もおいそれと部屋を出るわけにはいかない。あの社員はまだ栄子を疑っていた。


 そうしているうちに、机の上に置き忘れてあったと、総務の女の子が十万円の入った封筒を持ってきた。栄子の疑いは解けたが、男は一言も謝らずに、疑われる態度の栄子が悪いと言ったのだ。悔しくて泣きたかった。こんな仕事は辞めてやると、叫びそうになるのを、翼の笑顔を思い出して栄子は必死に堪えた。翼のためならどんなことも我慢しよう。


 次の角を曲がればもう我が家だ。栄子は気をとり直して足を速めた。

 自分はみずぼらしい顔をしてないだろうか? 

 両手で髪を整えた。いつでも美しい翼の母親でなければならない。清掃員としての姿を、誇り高い翼に想像させてはならない。


 角を曲がると家の灯りが見えるはずだった。

 おかしい。二階にある佐藤のベッドルームにだけ電気がついている。普段はリビングやダイニングのほかに、翼の部屋にも灯りがついている。翼が電話に出なかったことが気になった。


 栄子の不注意で熱湯を浴びた翼を抱いて病院に走った遠い昔の夜のことが、ふと頭に浮かんだ。心が砕けそうになり、翼が死んでしまったらその場で命を絶とうと決め、赤ちゃんだった翼を抱いて夜道をひたすら走った。

 結局のところ、命には別状がなかったが、翼の背中にはその時の火傷の痕が今でも痛々しく残っている。


 それまで栄子は、翼をお人形のように可愛がるだけで子どもを育てる責任の重さがわかっていなかった。その夜、栄子は注意を怠った自分を責めて、生涯をこの子に捧げようと固く誓った。


 あの子にもしものことがあったら生きてはいられない。急に一抹の不安が栄子を襲い、栄子は走り出した。


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