最終話
○
深く深く沈んでいったはずの意識が、唐突に上昇を始めた。見えない力が、カロンの意識を引き上げていく――。
そんな、夢を見ていたようだった。
気がつけば、目を閉じたまま横になっている自分自身を認識していた。
「――カロン、カロン!」
カロンは、目を開けた。
ケイトが上体を抱え、何度も名前を叫んでいる。視界の奥の方に、すっかり暗くなった空が見えた。
鼻から息を吸い込むと、身に覚えのある悪臭がした。溝のある路地裏だとわかった。
カロンは半身を起こして、ケイトを見た。
「びっくりした。戸締り確認のついでに確認しに来たら、ここで倒れてるんだもの」
彼女はほっと胸をなでおろし、安堵の表情を浮かべる。
カロンはまだ、意識がぼんやりとしていた。だが、
「生き、てる……」
その当たり前のような実感が、今のカロンにとっては違和感でしかなかった。両手にはもう、何も握られていない。ケイトも生きている。だが、確かにカロンは決断した。翼の男に迫られた決断で、自らの死を選んだはずだ。
「ほんと、生きてて良かった。一体何があったの? あれからずっと此処にいたの?」
「うん、そうみたい」
「そうみたいって、わからないのね」
ケイトは呆れたように言った。
カロンは、苦笑で応じる。
そこでふと、翼の男を探した。彼に何があったのかを聞くのが、一番手っ取り早い。
だが、近くにはいないようだった。
カロンが急に周囲を見回すのを、ケイトは不思議そうに眺める。
「何探してるの?」
「いや、ううん、なんでもない」
翼の男を呼ぼうしたが、カロンは男の名前を知らなかった。そもそも、呼んだこともない。今まで、カロンの方から必要としたことは一度もなかったからだ。
「…………」
何故かはわからないが、カロンはもう二度と翼の男と会えないような気がした。
そして、それがほんの少しだけ寂しいと感じた。翼の男は確かに自分を縛りつけてはいたが、ここまで育ててくれた恩を忘れたわけではない。せめてそのお礼ぐらいは、言いたかった。
そこまで考えて、もしかして自分もケイトも生きているのは彼のおかげかもしれないと思い始めた。まさか、でも、あるいは。
「カロン、本当に平気?」
「うん。ねえケイト、お昼頃に君と会ったとき、僕が仕立て屋の店主に弟子入りしたって言ったよね?」
「え、う、うん」
突然話が変わって、彼女は困惑したようだった。あの時と同じく、目を丸くしている。
カロンも緊張していた。だが、今言わなければいけないと、心が急かすのだ。
「ドレスを作りたいって思ったから、弟子入りしたんだ」
「……」
カロンは、自分の耳が熱くなるのを感じた。ケイトは口を開けたまま、瞳を瞬かせている。頼むから何か言って欲しかった。沈黙が怖くなり、カロンは半ば自棄になって心の内をさらけ出そうとした。
「約束する。一流の仕立て屋になって、君のためにドレスを作るよ」
「……本当に?」
カロンは力強く頷きを返した。唇が震えて、もう一言も喋れなかった。
だが、ケイトの表情は芳しくないままだった。破裂しそうな勢いで暴れ回る心臓に、暗い影が広がり始める。
「ご、ごめんなさい。気持ちの整理がつかないの。夢が叶うかもしれないって思ったら、急に、なんだか……」
苦笑いするケイトを見て、緊張の糸がすうっと解けていくのを感じた。自惚れすぎたのだと、はっきりと自覚する。溝からの悪臭が、あざ笑うかのように鼻腔に響いた。
「いいんだ、別に。僕の方こそ、突然変なこと言って、ごめん」
カロンは立ち上がった。居たたまれなくなり、その場から早く立ち去りたかった。ケイトの顔を見るのが、今はとても苦しかった。
「待って、カロン!」
ケイトが、カロンの腕を掴んで引き止める。そして、そのままカロンを追い越して、路地裏から店の前へと出た。
通りは路地裏よりもわずかに明るかった。悪臭から開放され、吹き抜けていく夜風が肌に心地よい。
そこでケイトはカロンに向き直った。掴まれたままの手から、震えが伝わってくる。
「ねえ、今度、次会うときは、あそこ以外の場所にしよう?」
ケイトが横目で先ほどまでいた路地裏を見る。
同時に心臓が、覆っていた暗闇を吹き飛ばすかのように一際大きく脈を打った。カロンは視線を戻した彼女と目を合わせるのが恥ずかしくなり、思わず空を見上げた。
綺麗な夜空だった。カロンは、椅子を戻しに仕立て屋へと向かった夜のことを思い出した。
そして、ケイトの手を強く握り返した。
「うん。次はここで会おうよ。君の仕事が終わるまで、待ってるから」
○
男は、カロンのすぐそばにいた。もう、背中に翼は生えていない。
そして、男は誰の目にも映ることがなくなっていた。カロンですら、もう男の姿はおろか、気配すら感じなくなってしまっただろう。
互いに、死神の力を失ってしまったからだ。
原因は男にある。死神としてすべきではないことをしたのだ。だから、カロンに分け与えられていた分も含めて、死神の力は消失した。
力を失った今だからこそ、男は思う――早くからこうしていればよかった、と。どうしてもっと以前にカロンを自由にしてやれなかったのか、と。
「……あんたの言うとおりだったよ。これは、ろくな仕事じゃない」
男は自嘲気味に呟いた。
もう何もすることがない――しようと思ってもできない男は、過去を思い返すほかない。
●
「取り引きをしないか?」
死神は不気味に微笑んだ。
「息子の命が、助かるなら……」
「助けてやるよ。その代わり――」
嫌な予感はしていた。だが男は、自らの命捨てる覚悟ができていた。妻だけでなく息子まで失ってしまえば、その後の人生に生きていく価値などない。
もしこのまま息子が死んでしまえば、すぐに自分も後を追うつもりでいた。元より手放すつもりだった命が、我が子の未来と成り得るならば本望だった。
「俺の代わりに、死神になってくれ」
「死神に……?」
死神の持ちかけた予想外の取り引きに、男は思わず聞き返した。
「そうだ。正確には、お前と赤ん坊で仕事を分担させる。人間一人に与えるには大きすぎる力だ」
「でもそれだと息子が……」
「安心しろ。その赤ん坊に与える力は最低限のものにする。それならその子は普通の生活ができる。時々、死神としての仕事を果たせばそれでいい」
「息子は、それで生きられるんだな?」
「むしろ、それしか生きる道はない」
死神の話は曖昧だったが、男の答は既に決まっていた。
「わかった。死神になろう」
「ありがたい。同意がなければ、譲渡できないんでね――」
変化は、一瞬で終わった。
男は、男を見ていた。鏡ではない。男の魂が、死神の体に移ったのだ。男の体には死神が入ったらしく、不気味な笑みを浮かべている。
「もう一度礼を言わせてくれ。ありがとう、人として生きてみたかったんだ」
男は、抱えていた赤ん坊を脇に置いてあった揺り篭に乗せた。いつの間にか、赤ん坊はすやすやと寝息を立てて眠っていた。安らかな顔だった。
「お前が望めば、この子にだけ姿を見せたり話しかけたりすることができる。その体を得た時点で、全てわかってると思うがな」
「ああ、不思議な感じだ」
早速頭の中に、一人の人間の姿が浮かんできた。初めて見る者なのに、それが誰で、何処にいて、生きるべきか死ぬべきかがわかった。二つ山を越えた先の集落にいる村長の妻の命を、受け取りに行く必要がある。
ふと赤ん坊を見ると、その手には蝋燭を乗せた燭台と薬草が握られていた。蝋燭の炎は命を、蝋は寿命を表している。薬草は生命の樹から採れる葉だ。命に力を与える。
「最初のうちはお前が手を貸してやればいい。その子が成長したら、お前は指示するだけだ」
「ああ、わかった」
「じゃあ最後に一つだけ。死神の仕事は、ろくなもんじゃないぞ」
男となった死神はそれだけ言うと、部屋を後にした。
「…………」
死神となった男は、手に入れた力の恐ろしさを知りながらも、息子の命が助かったことに歓喜した。
だが同時に、息子は死神の力を得てしまった。それは、人の生死を決める重要なものであった。最低限と言ったわりに、重たい業を背負わせてしまった。
「カロン、お前は俺が育ててやる。お前が死ぬまで、一緒にいてやる」
死神は、赤ん坊をカロンと名づけた。そして、彼に何一つ不自由をさせぬよう育て上げることを誓った。
○
「そうだ……俺は誓ったじゃないか、あのとき」
男は、死神となったときのことを思い返して気づいた。
目の前では、カロンとパン屋の娘――確か、ケイトという名前だ――が話し合っている。やがてカロンは周囲を見回し始めた。もしかすると、自分のことを探しているのかもしてない。
「カロン、お前は自由だ。死ぬこともない」
その声も、もうカロンには届かない。業から解き放たれたことを伝えられないのが、唯一の心残りになった。
だが、カロンは助かった。それ以上の成果を望むことなどできないくらいだった。
男は、カロンが指示に背いた瞬間、彼の命の炎を別の蝋燭に移し変えた。カロンに、自らの止まっていた命の蝋を与えたのだ。それは、死神の掟に背く行為に他ならなかった。
そして男は翼を、死神の力を剥奪された。天国にも地獄にも連れて行かれず、この世に取り残された。
存在する権利を失ったのだ。
誰にも気づかれぬまま、この世にとどまり続けなくてはならない。それこそが、掟に背いた者に課せられた永遠の償いであり、罰である。
しかし、これでようやくカロンは自由になった。死神としての義務から解放されたのだ。
そんな彼の顔には、いつしか笑みが戻っていた。
「約束する。一流の仕立て屋になって、君のためにドレスを作るよ」
「……本当に?」
二人の話し声が耳に入ってくる。
辛いだろうと思っていたカロンとの別れは、むしろ誇らしく感じた。我が子の成長を実感することが、これほど嬉しいことだとは思わなかった。
男は、これからもカロンのことを見守り続けようと誓った。
やがて二人は通りに出ると、更なる約束を交わした。男はそのときもついて行って様子を見るべきか、少しだけ迷った。
『死神の跡継ぎ』は、これにて完結です。いかがでしたでしょうか?
今回も、どんでん返し的な要素を織り込んでみましたが、ちゃんと機能しているかが心配です;