第七話
カロンの口から、言葉にならなかった吐息だけが漏れた。思考が完全に止まってしまう。だが翼の男がそこにいるだけで、考えなくても状況が理解できた。
ケイトは突然口を噤んだカロンに驚き、背後を振り返った。カロンの視線が少しずれていたから、父親が来たのかと思ったのだろう。
「……カロン?」
向き直ったケイトが、心配そうに尋ねてくる。
大丈夫――そう答えたかった。しかし現実は、それで済ませられるほど悠長ではない。
手元の蝋燭を吹き消せば、ケイトは死んでしまう。
薬草を燃やせば、カロンの寿命が尽きる。
単純で、残酷で、どうしようもない選択だった。
少し前にこの選択を迫られていれば、迷わずカロンは自らの死を選んだだろう。だが今は事情が違う。
カロンは、ケイトのことを知ってしまった。彼女と関わってしまった。彼女の現状と夢の隔たりに気づいてしまった。
それだけならいい。知るだけなら、己の無力さに打ちひしがれ、死も躊躇わないで済んだはずだ。
しかし、カロンは可能性を手に入れたのだ。彼女の現状と夢の隔たりを、埋めることができるかもしれない立場にある。仕立て屋の店主の下で教えを受けれ続ければ、いずれはドレスを仕立てることもできるだろう。いや、彼女のためならできる。カロンは、そう確信していた。
思い上がりも甚だしいことは、自覚している。それでもカロンは、ケイトとの関わりを手放したくなかった。
ケイトにドレスを――夢をかなえてやれるのは自分しかいない。そんな独りよがりの思いが、決断を鈍らせている。
だからといって、蝋燭を吹き消すなどという選択は論外だ。カロンはもう、誰の命も奪いたくなかった。翼の男の言いなりは、もう嫌だった。
本当は独りで生き続けたくないし、今ここで死ぬのも御免だ。
カロンは、冷たい視線を浴びせてくる翼の男を睨み返した。
「カロン、もしかして、怒ってるの?」
ケイトの一言に、カロンははっとなって彼女に視線を戻した。
「ううん、違うよ。ただ……」
カロンは己の両手を、それぞれ横目で見やった。燭台と、薬草。自分は一生、これを手放すことはできないのだろうか。
「……ただ、こうしてケイトと話しているのが、すごく不思議な気がするんだ」
「どういうこと?」
「うまく言えないんだけど……君のことを知る度に、僕なんかが知っていいのかなって」
ケイトは首を傾げた。カロンも、自分で言っておいて意味がわからないなと苦笑する。
「ええと、つまり……僕に、君と仲良くなる資格みたいなのって、あるのかな、なんて思ったりしてね」
彼女に全てを打ち明ける勇気は、さすがに持っていない。だが、不思議と本音で話していた。ケイトのために何かしてやりたいと思う気持ちの陰に隠れた、悲観的な考えだ。
「資格……私は誰かと話をするのに、資格なんてものがあるとは思わないかな――だけど」
カロンが一瞬戸惑ったのを見て、ケイトはおかしそうに笑った。
「カロンと私に限定するなら、あなたには、その資格があるよ」
「……え?」
「もう折角だから、全部言うね。私が毎日毎日、仕立て屋の窓から中を覗いてた理由」
ケイトは明るく言ってみせたが、少し緊張しているのがカロンにもわかった。
「ああして毎日来て、毎日お店を覗いていれば、いつかはこう、誰かが話しかけてきてくれるんじゃないかなって……そう思ってたの。店主さんに取り入ろうとしてたんだ。それと、あなたにも」
「…………」
カロンは耳を疑った。彼女の告げた真実は、少々理解に苦しむものであったからだ。ケイトと話しているこの瞬間が、偶然ではないというのか。
ケイトはカロンの心境を察して、目を逸らした。片手で自分を抱くようにしながら、それでも言葉を紡ぐ。
「初めてあなたが店の外に出ようとした時、椅子を置いていったでしょ? あれも実は、わざとだったの。店主さんの方がきたら持ち帰るつもりだったし」
「じゃあ、夜中に店の前にいたのも……」
「あれは、椅子がそのままだったらどうしようって不安になったから。そしたらあなたと出会っちゃうんだもの。本当は次の日に、椅子を口実にお店に入ろうって魂胆だったのよ?」
半ば、何かを諦めたような口ぶりだった。
「だから、僕には資格があるの?」
「そう。私がそうなるように仕向けたようなものだから」
カロンもまた、ケイトのことを見ていられなくなった。気持ちの整理がつかなかった。どうして出会いが偶然じゃなかったからといって、胸がざわつくのだろうか。資格を求めていたのは、自分の方だったというのに。
「カロン、ごめんなさい。でも、どうしても話しておきたかったの。あなたに嘘を吐いたままじゃ、いられなかったから」
「ケイト、遅いぞ。何をしている?」
二人の間に割って入ったのは、ケイトの父の声だった。戸越しだが、声に怒気が混じっているのがわかる。
「私、もう行かなきゃ」
「うん…………」
カロンは、両の手の燭台と薬草を見つめていた。彼女に全てを打ち明けられても、答は見つからないままだった。
「カロン、早くしろ」
状況を見かねた翼の男の声が降ってくる。
「ねえ、カロン」
しかしカロンは、裏口の戸に手をかけたケイトの声に反応して、頭を上げた。
「今だから言えることだけど、私は、こうして出会って話すのが、あなたの方で良かったって思ってるよ」
「……本当に?」
「勿論。ありがとう、私の夢を聞いてくれて」
ケイトは最後に自然な笑みを浮かべ、裏口から店の中へと消えていった。
「カロン、いい加減にしろ。その火を消すんだ」
翼の男の言葉など、耳に入ってこなかった。
カロンの中で、まるで氷が溶け出すようにして、両手の答が零れ落ちてきたからだ。
既に、選択は決まっていた。ただ、それを自分で閉じ込めていただけだったのだ。
「僕も……」
「何だ?」
翼の男が聞き返したが、カロンの言葉は彼に対してのものではなかった。
「僕も、君に会えてよかった」
そしてカロンは、蝋燭の火で薬草を燃やした。
瞬間、瞼が急に重くなった。足元がふらつく。家の外壁に手をつくが、膝ががくんと落ちるのを止められない。
「なんてことを――!」
翼の男の、今までに見たこともないほど切迫した表情と、聞いたこともない叫びを最後に、カロンは暗闇へと落ちていった。




