表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

第六話

 ○


 七日に一度の、仕立て屋の休業日がやってきた。

 しかし、翼の男は家の中にはいない。普段なら〝仕事〟のために彼が待っているはずだ。

 カロンは昨日の出来事を思い出す。翼の男は言っていた。両手に燭台と薬草が握られたときが、〝仕事〟のときだと。

「…………」

 カロンは、一人で外に出た。太陽がほぼ真上まで来ている。

 街の通りも、人で賑わっていた。だがすれ違う誰もが、昨日よりずっと遠くにいるように感じた。

 ずっと独りで生きていかなければならないと知った今、人ごみの中にいると余計に孤独を感じた。この先、誰とも知り合えないのだ。知り合えば、余計に辛くなる。現状が最善なのだと、自分に言い聞かせるしかない。

 擦れ違いざまの挨拶も、会釈も、カロンには必要のないことなのだ。

 足は自然と、パン屋へと向かっていた。七日に一度パンを買いに来るのが習慣となっていたため、何も考えずにいても辿り着いてしまう。

 いつもとは時間がずれているからか、店の周りは閑散としていた。

 店が視界に入るのと同時に、ケイトのことを思い出す。あれ以来、彼女が仕立て屋を覗きに来なくなってしまった。何かあったのだろうかと思うと心配だが、自分が関わっていい問題ではない。

 だが、彼女のことを容易く諦められるほど、カロンは強くなかった。そして葛藤しているうちに、パン屋の主人と目が合った。

「おはよう、カロン。寝坊でもしたのかい?」

「あ、はい。そんなところです……」

 カロンはとりあえず、いつものようにバゲットを購入した。

 ここの主人――ケイトの父とも、会話を重ねるのは危険かもしれない。カロンはそう考えながらも、話しかけてくれることが嬉しかった。

「ところで、カロン」

「な、なんですか?」

 あまりよそよそしくならないように、カロンは答えた。

「うちの娘が、ケイトが、最近君の働いている仕立て屋に来たことはあるかい?」

「いえ、最近は、一度も」

 カロンは彼の質問の意図が掴めなかったが、正直に答えた。

「本当だね?」

 カロンは黙って頷く。瞳に寂しさを湛えながら。

「そうか。それなら、いいのだけどね」

 一人で納得したパン屋の主人は、腕を組んだまま厨房の奥へと消えていった。

 カロンも帰ろうとしたが、「ゴミを捨てにいきなさい」という声が耳に入り、思わず立ち止まった。ケイトの父が、彼女に指示したのだろう。

 そう思うと、途端にケイトに会いたくなった。彼女ともう一度話をしたい。顔を見るだけでもいい。

 気がつけばカロンは、路地裏へと足を踏み入れていた。溝からの悪臭は、相変わらず酷いものだった。

 そして、パン屋の裏口から出てきたばかりのケイトに遭遇した。

「あ、カロン」

「ケイト……」

 名前を呼ばれただけなのに、カロンの孤独は煙のように立ち消えてしまった。彼女と話していると、路地裏の悪臭も気にならなくなってしまう。

 翼の男や仕立て屋の店主、ケイトの父親にはない特別な力が彼女にはあるのかもしれない。

「こんにちは、久しぶり」

「うん。久しぶり」

 何の変哲もない挨拶だったが、カロンはケイトの微妙な表情の変化を見逃さなかった。

「最近、忙しいの?」

 そう聞くと、より一層、彼女は無理して笑顔を作ろうとした。

「ええ、そうなの。忙しくって。お店にも行けないくらい」

「…………」

 ケイトは何かを誤魔化すかのように、両手に持ったゴミ袋を力任せに溝へと放った。ゴミ捨ては終わったのに、ケイトはその場に立ち尽くしたままだった。カロンと目を合わせようともしない。

「……本当はね、お父さんに行くなって言われてるの」

 やがて、ケイトは独り言のようにぼやいた。視線は相変わらず、悪臭を放つ溝に向けられている。

「そう、だったんだ」

 カロンは、彼女の父がした質問の意図をようやく理解した。しかし、まだわからないこtがあった。彼女の父は、この路地裏に彼女がいることを教えてくれた。彼女に会わせてくれたのだ。それが何故、仕立て屋に行くことを禁じているのだろうか。

 カロンは、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。

「それはね、私が欲を言ったからよ」

 ケイトは自嘲しながら答える。今でもそのときのことを、後悔しているようだった。

「初めてここであなたと話したとき、私が言ったこと覚えてる?」

「うん。勿論」

 忘れるはずがなかった。そのために、カロンは仕立て屋の店主に弟子入りしたのだから。一度でいいからドレスを着てみたいと、彼女は言っていた。

「お父さんの前でも、同じようなこと言っただけなの。でも、お母さんの前でも同じことが言えるのかって、すっごく怒られちゃった。現実を見ろだとか、思ってても口にするなとか」

「お母さん?」

「あ、うん。お母さん、病気なの。二階の寝室で、ほとんど寝たきりなんだけどね。私、お母さんの代わりに働いてるんだよ。慣れるまでは大変だったけど、今じゃ私の方がお母さんより仕事ができると思う。才能あったみたい」

 ケイトはまた、悲しい笑みを浮かべた。カロンには、つられて微笑むことしかできなかった。哀れめば、余計に彼女を悲しませてしまうような気がした。

「お父さんは、私にこの店を継がせようとしてるの。お父さんもお母さんも、勿論私だってパンが好きだから。でも夢ぐらい、持ってたっていいと思わない? お父さん、厳しすぎるよ」

 そこでようやく、ケイトと目が合った。いつの間にか、彼女は泣いていた。

「ケイト……」

「でもね、お父さんもお母さんのために必死なんだと思う。私の夢なんて、大きすぎて、絶対に叶わない。お店にあるパンを全部売っても、ドレス一着買えやしないもの」

 ケイトは、その場にしゃがみこんだ。自分の服が汚れてしまうことを、気に留めていないようだった。彼女はしゃがんだままスカートの裾をつまんで、溝に向かってお辞儀をする真似をしてみせた。

「だから、我慢する。私の居場所は、ここにしかない」

「…………」

「そんな顔しないでよ、カロン。……あー、なんだか愚痴ったらスッキリしちゃった。そろそろ戻らないと、また怒られちゃう」

 空元気だということは、嫌でもわかった。ケイトは立ち上がって、逃げるように裏口の戸に手をかけた。

「ケイト」

 その彼女が、カロンの言葉に動きを止めて、振り返った。彼が力強く、彼女の名前を呼んだからだ。

 ごく自然と彼女を呼び止めてしまったことに、カロン自身が一番驚いていた。

 もう、他人と関わらずに生きようと決めていたはずなのに。そもそも、どうして路地裏に来てしまったのだろうか。答えは、既に出ていた。ただそれを、無意識のうちに抑え込もうとしていただけなのだ。

「僕、仕立て屋の店主に弟子入りしたんだ」

 カロンは、頬が紅潮していくのを肌で感じた。心臓が身体の中を跳ね回っているようだった。

「……そうなの?」

「うん。ドレスを、作りたくなったから」

 緊張して、声が上ずっていた。

 ケイトはカロンの言わんとしていることを察してか、目を丸くしている。

「僕は――」


 カロンが口を開きかけた瞬間、翼の男が上空から舞い降りてきた。

 彼は、ケイトの頭上でぴたりと止まった。

「しくじるなよ、今度は」

 カロンにしか聞こえないその声は、矢のように胸に突き刺さり、心臓を射抜いた。

 両の手に、それぞれ燭台と薬草の感触が生まれる――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ