第六話
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七日に一度の、仕立て屋の休業日がやってきた。
しかし、翼の男は家の中にはいない。普段なら〝仕事〟のために彼が待っているはずだ。
カロンは昨日の出来事を思い出す。翼の男は言っていた。両手に燭台と薬草が握られたときが、〝仕事〟のときだと。
「…………」
カロンは、一人で外に出た。太陽がほぼ真上まで来ている。
街の通りも、人で賑わっていた。だがすれ違う誰もが、昨日よりずっと遠くにいるように感じた。
ずっと独りで生きていかなければならないと知った今、人ごみの中にいると余計に孤独を感じた。この先、誰とも知り合えないのだ。知り合えば、余計に辛くなる。現状が最善なのだと、自分に言い聞かせるしかない。
擦れ違いざまの挨拶も、会釈も、カロンには必要のないことなのだ。
足は自然と、パン屋へと向かっていた。七日に一度パンを買いに来るのが習慣となっていたため、何も考えずにいても辿り着いてしまう。
。
いつもとは時間がずれているからか、店の周りは閑散としていた。
店が視界に入るのと同時に、ケイトのことを思い出す。あれ以来、彼女が仕立て屋を覗きに来なくなってしまった。何かあったのだろうかと思うと心配だが、自分が関わっていい問題ではない。
だが、彼女のことを容易く諦められるほど、カロンは強くなかった。そして葛藤しているうちに、パン屋の主人と目が合った。
「おはよう、カロン。寝坊でもしたのかい?」
「あ、はい。そんなところです……」
カロンはとりあえず、いつものようにバゲットを購入した。
ここの主人――ケイトの父とも、会話を重ねるのは危険かもしれない。カロンはそう考えながらも、話しかけてくれることが嬉しかった。
「ところで、カロン」
「な、なんですか?」
あまりよそよそしくならないように、カロンは答えた。
「うちの娘が、ケイトが、最近君の働いている仕立て屋に来たことはあるかい?」
「いえ、最近は、一度も」
カロンは彼の質問の意図が掴めなかったが、正直に答えた。
「本当だね?」
カロンは黙って頷く。瞳に寂しさを湛えながら。
「そうか。それなら、いいのだけどね」
一人で納得したパン屋の主人は、腕を組んだまま厨房の奥へと消えていった。
カロンも帰ろうとしたが、「ゴミを捨てにいきなさい」という声が耳に入り、思わず立ち止まった。ケイトの父が、彼女に指示したのだろう。
そう思うと、途端にケイトに会いたくなった。彼女ともう一度話をしたい。顔を見るだけでもいい。
気がつけばカロンは、路地裏へと足を踏み入れていた。溝からの悪臭は、相変わらず酷いものだった。
そして、パン屋の裏口から出てきたばかりのケイトに遭遇した。
「あ、カロン」
「ケイト……」
名前を呼ばれただけなのに、カロンの孤独は煙のように立ち消えてしまった。彼女と話していると、路地裏の悪臭も気にならなくなってしまう。
翼の男や仕立て屋の店主、ケイトの父親にはない特別な力が彼女にはあるのかもしれない。
「こんにちは、久しぶり」
「うん。久しぶり」
何の変哲もない挨拶だったが、カロンはケイトの微妙な表情の変化を見逃さなかった。
「最近、忙しいの?」
そう聞くと、より一層、彼女は無理して笑顔を作ろうとした。
「ええ、そうなの。忙しくって。お店にも行けないくらい」
「…………」
ケイトは何かを誤魔化すかのように、両手に持ったゴミ袋を力任せに溝へと放った。ゴミ捨ては終わったのに、ケイトはその場に立ち尽くしたままだった。カロンと目を合わせようともしない。
「……本当はね、お父さんに行くなって言われてるの」
やがて、ケイトは独り言のようにぼやいた。視線は相変わらず、悪臭を放つ溝に向けられている。
「そう、だったんだ」
カロンは、彼女の父がした質問の意図をようやく理解した。しかし、まだわからないこtがあった。彼女の父は、この路地裏に彼女がいることを教えてくれた。彼女に会わせてくれたのだ。それが何故、仕立て屋に行くことを禁じているのだろうか。
カロンは、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「それはね、私が欲を言ったからよ」
ケイトは自嘲しながら答える。今でもそのときのことを、後悔しているようだった。
「初めてここであなたと話したとき、私が言ったこと覚えてる?」
「うん。勿論」
忘れるはずがなかった。そのために、カロンは仕立て屋の店主に弟子入りしたのだから。一度でいいからドレスを着てみたいと、彼女は言っていた。
「お父さんの前でも、同じようなこと言っただけなの。でも、お母さんの前でも同じことが言えるのかって、すっごく怒られちゃった。現実を見ろだとか、思ってても口にするなとか」
「お母さん?」
「あ、うん。お母さん、病気なの。二階の寝室で、ほとんど寝たきりなんだけどね。私、お母さんの代わりに働いてるんだよ。慣れるまでは大変だったけど、今じゃ私の方がお母さんより仕事ができると思う。才能あったみたい」
ケイトはまた、悲しい笑みを浮かべた。カロンには、つられて微笑むことしかできなかった。哀れめば、余計に彼女を悲しませてしまうような気がした。
「お父さんは、私にこの店を継がせようとしてるの。お父さんもお母さんも、勿論私だってパンが好きだから。でも夢ぐらい、持ってたっていいと思わない? お父さん、厳しすぎるよ」
そこでようやく、ケイトと目が合った。いつの間にか、彼女は泣いていた。
「ケイト……」
「でもね、お父さんもお母さんのために必死なんだと思う。私の夢なんて、大きすぎて、絶対に叶わない。お店にあるパンを全部売っても、ドレス一着買えやしないもの」
ケイトは、その場にしゃがみこんだ。自分の服が汚れてしまうことを、気に留めていないようだった。彼女はしゃがんだままスカートの裾をつまんで、溝に向かってお辞儀をする真似をしてみせた。
「だから、我慢する。私の居場所は、ここにしかない」
「…………」
「そんな顔しないでよ、カロン。……あー、なんだか愚痴ったらスッキリしちゃった。そろそろ戻らないと、また怒られちゃう」
空元気だということは、嫌でもわかった。ケイトは立ち上がって、逃げるように裏口の戸に手をかけた。
「ケイト」
その彼女が、カロンの言葉に動きを止めて、振り返った。彼が力強く、彼女の名前を呼んだからだ。
ごく自然と彼女を呼び止めてしまったことに、カロン自身が一番驚いていた。
もう、他人と関わらずに生きようと決めていたはずなのに。そもそも、どうして路地裏に来てしまったのだろうか。答えは、既に出ていた。ただそれを、無意識のうちに抑え込もうとしていただけなのだ。
「僕、仕立て屋の店主に弟子入りしたんだ」
カロンは、頬が紅潮していくのを肌で感じた。心臓が身体の中を跳ね回っているようだった。
「……そうなの?」
「うん。ドレスを、作りたくなったから」
緊張して、声が上ずっていた。
ケイトはカロンの言わんとしていることを察してか、目を丸くしている。
「僕は――」
カロンが口を開きかけた瞬間、翼の男が上空から舞い降りてきた。
彼は、ケイトの頭上でぴたりと止まった。
「しくじるなよ、今度は」
カロンにしか聞こえないその声は、矢のように胸に突き刺さり、心臓を射抜いた。
両の手に、それぞれ燭台と薬草の感触が生まれる――。