第四話
○
「遅かったじゃないか」
家に帰ってきたカロンを、翼の男は顔を顰めて出迎えた。
「別に。少し話してただけだよ」
素っ気無く言った途端、翼の男が詰め寄ってきた。眉の間に皺が寄っている。
「また関わろうとしたのか、他人と」
「だったら、どうなのさ」
店主から話を持ちかけられたことは、その直後こそ動揺してしまっていた。だが、帰路についていると、段々とそのことが嬉しく思えてきた。
カロンは、店主の弟子になるつもりだった。弟子になれば、彼女の、ケイトのために服を作ってやれるかもしれない。
店主がカロンの気持ちを、どこまで知っているかはわからない。だが、もし自分が、昔の店主と同じ目をしているのなら……カロンは、そう考えていた。
「俺は、他人と関わるなと言ったはずだ」
「…………」
「カロン、自分でもわかっているだろう。お前は他人とは違う。お前の側には、俺がいるんだ」
今まで、疑問を抱かなかったことが不思議なくらいだった。翼の男の言葉が持つ、鎖で巻かれるかのような束縛感。初めて自分の気持ちで動きたいと思った瞬間、それまでの自分はなんと不自由だったのだろうと思い知らされた。
「……なんだよ」
「え?」
それまで聞いたことのない、押し殺したかのようなカロンの声に、翼の男は思わず聞き返した。
かえってそれが、カロンの逆鱗に触れた。
「なんなんだよ、お前! どうして僕にしか見えないんだよ! 僕に付きまとうんだよ!」
「カロン……」
「黙れよ! もう喋らないで、話しかけないでくれよ…………どうして、僕なんだよ……」
カロンの最後の言葉は、翼の男に対してのものではなかった。彼はもう、翼の男を見ようともしていなかった。ただ、独り言を吐き捨てただけだ。
カロンは口を閉ざしたまま、寝室へと向かった。
「頼むよ、カロン。俺には、お前しかいないんだ」
残された翼の男は、部屋で一人、小さく呟いた。
○
翌日、カロンはいつも通り仕立て屋へと向かった。昨日の誘いもあって緊張していたが、店主の様子に変化はない。黙々と仕事をする姿に、カロンは言葉をかけるのを躊躇った。
まるで、昨日のことが夢か何かであるような気がした。彼の願望が見せた、一瞬の幻覚だったのではないか。
「カロン、そこの布を」
「は、はい」
ケイトは、今日も店を覗きに来ることはなかった。
名前を教えて以来、彼女とは出会っていない。彼女の父が経営するパン屋に足を運ぼうかとも思ったが、そこまでする勇気がない。理由もなしに――正確には彼女に会いたいというだけで――赴くことは抵抗があるし、何より恥ずかしい。
彼女は今何をしているのだろう。気が抜けると、すぐにそんなことを考えてしまう。不思議な感覚だった。今まで何も考えていなかった、空っぽの時間が、ケイトのことで満たされている。心の隙間を埋めながら、彼女が海の様に広がっていく。
それでも、彼女への渇きはやまない。また会いたい、一目でいい。自分がこんなにも欲深かったとは、カロン自身驚きを隠せなかった。
しかし、同時に思う。今まで自分は、能動的に何かを行動を起こしてきただろうか、と。
すると、翼の男の言うことに従って生きてきた人生が、ひどく虚しいものに思えてきた。
彼女を、ケイトを知ってからは、違う。無機質に見えていたはずのドレス達は、鮮やかで美しいだけではないことがわかる。今にも踊りだしそうな、躍動感に満ち溢れている。ケイトの言っていたことが、少しだけわかったような気がした。飾られたドレス達の、舞踏会だ。
「あの」
「うん?」
一握りの勇気で話しかけると、店主は意外にも穏やかな返事をくれた。緊張感を作り出していたのは、カロンだけだったのかもしれない。
「昨日の、ことなんですけれど」
「ああ、その気になったかい?」
店主は顔を綻ばせた。その間も、手が止まることはなかった。彼の仕立てる服が素晴らしいのは、黙って集中しているからではないようだった。カロンは、少しだけ安心した。
「いえ、どうして僕を弟子に誘ってくれたのかが気になって……」
「それは昨日も言ったじゃないか。昔の私と、同じ目をしているからさ」
「その、同じ目って、どういうことなんですか? 昔のってことは、今は……」
「ああ。今は違うよ」
店主の手が止まった。服はまだ出来上がっていない。
「……よし、昔話をしよう。私が、今の君と同じような目をしていた頃の話だ」
店主は作業台の側から動かずに、天井を仰いだ。二階は、居間や寝室など生活には困らない空間になっているはずだ。一人で暮らすには、少し広すぎるくらいの。
「今の君より、少し年上だったかな……私は、ある仕立て屋で働いていた。君と違って、いつまで経っても師匠の要求する布が何か、正確にはわからなくてね。罵声を浴びてばかりだったよ」
その頃のことを思い出してか、店主は笑っている。やはり、彼には笑顔が似合うと、カロンは思った。
「雑用同然に扱われていた毎日だったが、ある時変化が訪れた。なんだと思う?」
「えっ? いや、えっと…………すいません、わからないです」
「恋に落ちたのさ。街道で擦れ違っただけの、名前もわからない女性に一目惚れしてしまったんだよ」
店主が恥ずかしげもなく口にした恋という言葉に、カロンは胸の内が熱くなるのを感じた。
「その日から、私は人が変わったように仕事ができるようになったんだ。心の中で、あの女性のためにドレスを作ろうと決めてからね」
「…………」
「何故そうなったかはわからない。だが、誰かのために何かをしたい――そういう気持ちが芽生えたのは、その頃からだった。大切な気持ちだ。そう思わないかい?」
「……はい」
少し逡巡したが、カロンは頷いた。自分が今持っている気持ちは、失いがたいものだと確信できる。
「そういう気持ちを持っている者は、同じ目をするのかもしれないと、私は思ったんだよ。だから、君を弟子に誘ったんだ」
店主の話に、カロンは納得できた。確かにカロンは、ケイトのためにドレスを用意できないかと考えている。それが自分の手で作り出せるのなら、なおさらだ。
だが一つだけ、疑問があった。
「昔の私って言ってましたけど、今は、違うんですか?」
「……気持ちだけは、今も捨てたつもりはないんだけどね」
店主は溜息と共に言った。そして再び作業に戻った。
カロンも、それ以上は聞かないことにした。
「あの」
「うん?」
「僕を、弟子にしてください」
店主は、無言で頷いてくれた。