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第三話

 路地裏は、家と家の隙間同士が複雑な網目模様を描いて広がっている。路地裏は廃棄物を処理する溝が流れているところが多く、この店の裏にも通っていた。遠くの川まで繋がっているらしいが、臭いまでは完全に流しきれない。カロンは思わず鼻を押さえた。路地裏に入ったのは、これが初めてだ。

 ケイトは、確かにそこにいた。丁度塵取りの中身を捨てきったのか、裏口の戸を開けようとしていた。再び目を合わせた彼女はやはり、カロンを歓迎していない。

「あ、待って!」

 店の中に戻ろうとする彼女を、カロンは呼び止めた。

 ケイトは動きをぴたりと止め、カロンから目を逸らしたまま、エプロンの裾をぎゅっと握りしめている。

「……大丈夫。もう、お店には行かない」

「ちょ、ちょっと待って。別に、怒ってなんかないよ」

 そう言った瞬間、ケイトははっとしてカロンを振り返った。相変わらず、表情は暗いままだが。

「でも……」

「ドレス、好きなの?」

 口ごもっていたケイトは、弱弱しく頷いた。

「うん。ああいうの、着たことないから」

「…………」

「だけど、私には似合わないでしょ? 服はこんなだし、溝の臭いにも慣れちゃった」

「あっ……」

 ぼろぼろになったスカートの裾を摘みあげながら、ケイトは自嘲した。カロンは、慌てて鼻を押さえるのをやめたが、今すぐこの臭いに慣れるのは不可能だと直感する。

 エプロンに隠れてはいるものの、ケイトの服装は汚れていた。白いシャツも茶色のスカートも、染みや解れが目立っている。

「あなたが働いてるお店って、いつもドアが閉まってて何を売ってるのか全然わからなかった。でも、一度だけ誰かが入っていくのを見かけて、そのときお店の中も一緒に見えたの。綺麗なドレスが、いっぱい飾ってあるでしょ? 一度でいいから、着てみたいなあって思ったの」

 彼女は戸に手をかけたまま語り始めた。ぼんやりと空を見上げながら、思いを馳せているのだろうか。

「ねえ知ってる? あの窓からお店の中を覗くと、まるで舞踏会みたいなの。男の人は、あなたしかいないけど」

 そこで初めて、ケイトはカロンに向かって微笑んだ。

「そういえば、あなた名前はなんていうの?」



 ○



「関わるなと言ったはずだ」

 翼の男は、家に帰った途端に口を開いた。パン屋を後にした頃から、不機嫌なのは目に見えていたが。

「カロン、お前は誰とも親しくなりすぎちゃいけない。昨日も忠告しただろう」

「でも、忠告どおりに椅子を戻しに行ったら彼女と出会ったんだ」

「何だって?」

「昨夜も会ったんだよ。その時も全然話せなかったけど」

「ならそこで関係はきっぱりと断つべきだ。何故彼女を追いかけた?」

 しつこく問い詰めてくる翼の男から逃げるように、カロンは台所へ向かった。買ったばかりのバゲットで、昼食を済ませなければならない。

「誤解されたままなのが嫌だっただけだよ」

「本当に、それだけか?」

「うん」

 カロンは即答したが、本心から出た言葉ではなかった。翼の男にそれを悟られないように、昼食の準備に集中しようとしたが、逆に手が滑る。

 皿が一枚、床に落ちて割れた。

「なら、これ以上は彼女には近づくな」

 翼の男は、一切動こうとしない。彼は皿を拾うこともできない。

「どうして、そんなに僕を他人から遠ざけようとするのさ?」

 カロンは慎重に皿の破片を集めながら、独り言のように呟いた。

「〝仕事〟のためだ」

「それ以外にも、何か理由があるんじゃないの?」

「…………とにかく、誰かと親しくなるのはよせ。お前には俺がいる」

 翼の男は無理矢理話を切り上げると、壁をすり抜けて何処かへ行ってしまった。

「なんだよ、それ」

 カロンの心には、彼への不満や疑問ばかりが募った。今までは考えなくても平気だったものが、いつの間にか足かせになっているような気がした。

 間違いなく、ケイトと出会ったのが原因だろう。だが、それが悪いこととは思えない。

 自らの世界の狭さに、一抹の寂しさが拭えない。このまま生き続けて、そこに意味が見出せそうにない。



 ○



「カロン、そこの青い布を」

 店主の言葉が、耳から耳へと抜けていく。窓の向こうに目をやっていれば、この店の中でも、不思議と息苦しさを感じない。

「カロン」

「は、はい」

「そこの布を」

 慌ててカロンは布を取りに行ったが、店主に突き返されてしまった。

「違う。もう一つ隣のものだ」

「あ……」

 カロンが手に持っていたのは、生地の種類どころか、色すら違うものだった。

 いつもなら、仕事中はほどよい緊張感を持っていた。だが今日に限っては、それが欠けている。つい窓に目が行ってしまう。

「何か、あったのか」

 布を取り替えようと踵を返したところで、店主が口を開いた。思わず、足が止まる。

「えっ」

「何かあったようだな」

 その時、カロンには店主が笑ったように見えた。それっきり、店主は口を閉ざして黙々と作業を再開した。

 結局、この日ケイトは舞踏会を覗きには来なかった。閉店の時間になると、店主が再び口を開いた。

「私は職業柄、鏡をよく見る。寸法だけではわからない、服の出来を確かめるためにな」

「……?」

 突然の話で、カロンには理解できなかった。そもそも、この店に鏡など一つも置かれていない。

「鏡を見る度に、私自身の顔も目に入った。今思えば、あの頃の私の目は輝いていたのだとわかった。丁度、私の作るドレスが貴族達の間で噂になった頃だ」

 そこで、店主はカロンを見据えた。まともに目を合わせることに、カロンは緊張を隠せなかった。一体彼に何があったのだろうか。今まで仕事の指示以外で、話しかけてきたことなどなかったというのに。

「カロン、君は、あの頃の私と同じ目をしている。保証も何もないはずの未来を、信じている目だ」

「目、ですか」

「そうとも。君に何があったのか詮索する気はない。だが、もし君が望むのであれば、私の服作りの全てを伝授してやろう」

「そんな……急に言われても……」

 内心、カロンは言葉以上に驚いていた。誰も弟子を取ろうとしなかった店主が、いきなり弟子に誘ってきたのだ。ケイトが店の窓の前にやって来なかったこと以外は、昨日と何一つ変わらない一日だったはずだ。

「そうだな、君の言う通りだ。私は、君がその目をしている限り、いつまでも待ち続けよう。今日はもう、帰りなさい」

 今度こそ、店主ははっきりと笑顔になった。今まで一度も見たことがなかったのに、違和感はなかった。むしろ、今までの無表情こそ異常だったのではないかと感じるほどに。

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