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第二話

 あの子だ。カロンにはすぐわかった。だが、昼間と同様に彼女は彫刻のように動かなくなってしまっている。声をかけたら、また走り去ってしまうかもしれない。そう思うと、迂闊に言葉も発せなかった。

 彼女の顔をちゃんと見るのは、これが初めてだった。長く伸びた赤茶色の髪は、後ろで一つにまとめられている。そこだけが生きているかのように頻りに瞬く瞼の奥で、夕日色の瞳は街灯からの光を湛え、琥珀のように輝いていた。よく見ると、鼻の周囲にはそばかすが散っていて、丸っこい顔立ちもあり幼く見える。

 服は昼間と同じで、エプロンが前面を覆っている。端から覗くスカートの裾は傷んでいて、汚れも目立っていた。

 彼女の体が、びくりと一瞬震えた。思わずカロンは身構えたが、硬直が解けただけのようだった。しかし、互いに探り合うような視線を交差させている状況に変化は訪れない。

 カロンは、どうして彼女がここにいるのかを考えた。こんな夜中に、仕立て屋の前に来る理由――答は、とっくにわかっている。それなのに、今更何か喋るというのも、気が引けた。彼女からの反応を待とうと決めたからには……そんな理由で黙っていても、進展はないとわかっているのに。

 そこで、彼女の視線が手に抱えた椅子に向けられていると気づいた。カロンは、椅子をほんの少し掲げて、様子を窺った。彼女もサインに気づいたのか、無言で何度も首を縦に振る。

 カロンも頷きを返し、椅子をその場にそっと置いた。向こうに警戒されていることはわかっていたので、そのまま数歩後ろに下がる。ただの使い古された椅子だが、石畳の上にぽつんと佇むそれは、不気味だが価値のあるようなものに見えた。

 彼女はカロンが後退しきってから、一歩一歩椅子へと歩み寄った。恐る恐る伸ばした手が椅子を掴んだ瞬間、さっと身を引っ込めて元の位置まで後退する。カロンよりも小柄なため、その姿は木の実を抱えたリスのようだった。

「ご、ごめんなさい」

 彼女は突然頭を下げた。

 いきなり謝罪されても、カロンは彼女に何かをされた覚えがない。

「え?」

「お店を覗いてたの、迷惑でしたよね……」

 頭を上げた彼女の顔は、陰ってよく見えなかった。

「いや、そんなこと、ないけど」

「本当にごめんなさい。それと、椅子、ありがとう」

 本心からの言葉だったが、気持ちまでは彼女に伝わらなかった。暗闇に表情を陰らせたまま、彼女は走り去っていった。

 カロンは追いかけようとしたが、同時にそれが無駄なことだともわかっていた。

 結局、帰路を選んだ。



 ○



 翌日は、仕立て屋の休業日だった。カロンにとっても、週に一度の休日である。

 しかし、それは同時に〝仕事〟の日でもあった。朝起きても、家に翼の男はいない。朝食を終えた頃に戻ってきて「行くぞ」と告げる。昨夜のことで頭が一杯だったが、カロンはそれに従った。

 向かった先は、〝仕事〟帰りにいつも寄っているパン売りの店だった。道の整備されていない外側の地域に唯一あるパン屋で、種類は少ないが安くて美味いと評判だ。カロンも何年と通い続けているが、同じバゲットなのに全く飽きが来ない。

 まだ日は昇ったばかりだが、焼き立てを求める人々で店の前は賑わっている。

「ここなの?」

 カロンは周囲に怪しまれないように、小声で翼の男に問うた。

「ああ、そこにいる男だ」

 翼の男が指差したのは、人だかりではなかった。その先――店の中にいる。

「そんな……」

 カロンは翼の男が示す人物に気づくと、思わず声を洩らした。

 客から銅貨を受け取り、代わりにパンを手渡している男性だ。カロンが週に一度は顔を合わせる相手――彼がこの店の持主なのだろう。肉付きのいい顔に湛えた愛嬌のある笑みは、つられてこちらまで笑顔にさせる。とにかくよく喋る男で、カロンも来る度に質問攻めに遭っているが、悪い気はしなかった。

「安心しろ」

 翼の男は人々の間を縫うこともなくすり抜けていった。彼は、パン屋の主人の足元――カロンからは見えない――に座り込んだようだった。人や物は全て、翼の男をすり抜けている。まるで彼自身が幻か何かであるかのように。

 そんなことより、カロンは内心ほっとしていた。パン屋の主人は、これからも生きていける。見た所普段と変わらないが、それでも蝋燭の灯を吹き消せば一瞬で死んでしまうのだ。カロンはいつの間にか手に持っていた燭台の蝋燭で、薬草を燃やした。弱弱しかった炎が、息を吹き返す。

 一度、翼の男に聞いたことがある。誰を生かし、誰を死なせるのかをどう決めているのかと。

「俺が決めているわけじゃない。頭の中に、突然浮かんでくるんだよ。俺の意志とは関係なく」

 翼の男がそう言って、少し寂しそうに笑ったのを覚えている。もしかすると、あまり本意ではないのかもしれない。

 彼が誰を選ぶのかという基準に対しても、同じ答が返ってきた。病床に伏している者であったり、今回の様に普段通りの者であったり、時には子供の場合もあった。

 カロンは一度も翼の男の言うことを聞かなかったことはない。大抵の人物は見知らぬ他人であったし、仮に背いたとしても何も変わらない。

 だが、今回はどうだろう。もし彼が灯を吹き消せと言ったら、いつものように実行できただろうか。

「お疲れさん」

 翼の男が戻ってきた。彼は一体この仕事を〝仕事〟をどう思っているのだろうか。ふと頭に浮かんでくる生死の決定に、何か疑問を抱いたことは――だが、きっと迷うこともないのだろう。この男には、きっと自分しか話し相手がいないのだ。

 パン屋の前にできていた人だかりが減ったので、カロンもそこに加わった。いつものように、バゲットを二本購入する。

「おはようカロン。調子はどうだい?」

 パン屋の主人は、いつも最初に同じ質問を投げかけてくる。わかっていても、未だに慣れない。

「まあまあです」

「そういえば聞いたぞ。カロン、あの仕立て屋で働いてるんだって?」

「えっ!」

 驚いたのは、カロンではない。声は、店の奥から聞こえてきたが、カロンの位置からでは何も見えない。カウンターと、主人の大柄な体に遮られているからだ。

 パン屋の主人は体ごと後ろを振り返った。

「何やってるんだケイト、大丈夫か?」

「うん、平気。今片付けるね」

 その声に聞き覚えがあると気づいた時には、カロンはカウンターへ身を乗り出していた。

 カロンの記憶は、果たして正しかった。床に散らかった小麦粉を箒で掃っていたのは、昨夜出会った彼女に違いない。来ている服は別だが、エプロンは同じだ。

「ケイト……」

 カロンは彼女を見つめ、先ほど聞いたばかりの名を口にした。彼女――ケイトがこちらを向く。

「あっ……」

 カロンとは対照的に、ケイトの浮かべた表情は気まずさに満ちていた。塵取りに小麦粉を掻き込むと、彼女は近くにあったゴミ袋に捨てた。

「お父さん、私ゴミ捨ててくるね」

 ケイトはゴミ袋の口を縛ると、逃げるように店の更に奥へと消えていった。

「…………」

「知り合いだったのかい?」

 パン屋の主人は、笑みを崩さずにカロンに尋ねた。ケイトがお父さんと呼んだということは、彼の娘なのだろう。

 カロンは力なく頷いた。まるで彼女に避けられているかのような気がしたからだ。

「……ゴミはいつも、店の裏に捨てているんだ。そこの路地を回り込めばすぐだよ」

「え……?」

「ケイトは人見知りが激しくてね。よかったら、友達になってやってくれ。あの子は、君が働いてる仕立て屋の服が大好きなんだよ」

 主人の目はカロンに向けられていたが、どこか遠くを見ているようでもあった。その眼差しが、いつも窓から覗いていたケイトにそっくりだ。やっぱり親子だ、とカロンは確信する。

「……はい、ありがとうございます!」

 カロンはバゲットの入った紙袋を抱えて走り出した。

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