《500文字小説》風が吹く時
不意に風が鳴った。黒雲が一気に走り、雪が舞う。
「しとめたな」
父ちゃんが、ぼそりと呟いた。じいちゃんが山に入ると必ず風が吹く。外に出ると、肌を刺すような風が全身を貫いた。
去年の秋、俺は茸を採りに行って、大きな羆に遭遇した。昔、人が羆に襲われた話や、凄まじい力の強さ、大きさは寝物語として聞いていたが、本物を見たのは初めてだった。絶対的な恐怖と遭遇した時、人は逃げたり大声をあげたりしないのだ、という事をその時知った。俺は石のように固まったまま、一歩も動くことができなかった。
羆は俺をじっと見つめたままだった。が、大きな背中を向けて、ゆっくりと山奥へと消えて行った。
緊張が解けた瞬間、俺はその場に座りこんだ。情けないほど身体が震えていた。それでも、ヤツの深く澄んだ目の色が脳裏に焼きついていた。己の力だけで過酷な状況の中を生き抜いているものの目。野生の生き物に共通する、強い光。
じいちゃんが仕留めた羆は、あの時のヤツに違いない。理由などないが、そう思った。
「羆嵐か……」
かつて山の神と崇められた羆。その羆を仕留めると山が哀しむかのように強い風が吹く。俺は空を見上げた。厚い雲が凄まじい勢いで流れていった。
人受けする話ではない、という自覚はありますが、私の子供の頃の好きな話の一つが「シートン動物記」でした。人と野生の生き物との、命とプライドをかけた駆け引きをドキドキしながら読んでいました。変な子供でした。
最近吉村昭氏の「羆嵐」を読んで、子供の頃のオマージュとして書きました。