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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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想定をしない看護師と、看護における『観察』の重要性。

作者: ぽぴ
掲載日:2026/09/12


最近、書けなくなった。


下書きは、36個もある。

ただ、完成させることができなくなった。


いまはこれが限界だ

たぶん、あとがきのほうが長い。




 昨日、彼女と病院へ行った。

 彼女は、激しい痛みを伴う検査を頑張った。


 彼女は突然、怖い検査をすることになって、恐怖や不安を感じていたようで、検査が終わった後に泣いてしまった。


 私は彼女を抱きしめることしか出来なかったが、それを見て、目を見開くほどに驚き、「具合悪いですか?」と聞く看護師が現れた。


 私はその問いに、「泣いているだけなので大丈夫です。」と答えた。

 

 看護師はその返答を聞くと、まったく何の反応もせず、業務としての書類運びへ戻っていった。自分が動く必要があることなのか、判断するための情報が欲しかったらしい。



 私はその様子を見て、――まぁ、泣く人間なんて業務上、邪魔になるよな、感情労働は業務上の義務ではないしな――と考えていたのだが、そこにもう1人の看護師がやってきた。


 その看護師は、うつ向く彼女を見て「どうかしましたか?」と聞いてきた。


 私は「検査が怖かったので泣いているだけです。」と答えた。


 すると、看護師の目は激しく泳いだ。

 その目の動きは、「狼狽した人間」という言葉の例として、極めて適切だと感じた。


 看護師は、「今日でね?検査が全部終わったと考えてみると良かったよ。」と言った。


 私はそれを聞いて、――この人はそうやって困難を乗り来えてきたのか――と考えた。


 彼女は、とても泣いている。

 私は彼女の背中をさすりながら、「泣いているだけなので大丈夫ですよ。」と、看護師に向かって答えた。


 看護師の目はまだ動揺している。 

 顔にライトが当たり、瞳孔が下限的な収縮をしている。


 

 私は感情的に言えば、一人目の驚いた看護師はとても嫌いである。「業務・労働」として看護師をしているように見えたからである。


その振る舞いは、人の人生を扱う『看護師』を職業に選んだ動機やその後の生活態度に、何らかの冷たいものが挟まっているように感じさせ、私はそれに寒気を感じた。



 一方で、狼狽した看護師に私は好感を抱いた。それが狼狽した頼りない姿だとしても、泣いている人間は、身内以外の人間からの温かい言葉や行動で救われることが多々ある。


それは身内にはできない、極めて特別なケアであり、その看護師の立場をも考えると、泣いている人間へのケアは努力業務の範疇、かつ賃金に直接影響しないものであるからこそ、『人の人生を扱う看護師』という責任を果たそうとしているように感じられた。


私はその看護師へ、尊敬の念を抱いた。



――とは言え、2人の看護師に共通する「病院内で泣いている人間がいる」という状況に、『驚く』という様子には全く共感ができない。



 病院は、さまざまな理由や感情を抱えた大人や子供が訪れる場所だ。


 来たくないのに、生きるために来ている大人もいるし、不安を抱え、それを乗り越えようと頑張っている子供や大人もいる。

 

 誰かの心配を解消したり、何かの理想を成し遂げるために来ている大人もいるだろう。


 こうした異なる理由で病院を訪れる人間たちに、共通していることが1つある。


 それは、「どんな思いを持って病院を訪れているのか、表面的にはまったく分からない」ということである。



 近代看護の土台を築いたフローレンス・ナイチンゲールは、著書の『看護覚え書き』で「観察ができない看護師は患者に近づくな」「観察ができない人間は看護師になるな」といった“看護における観察”について、厳しい主張を何度も繰り返し書いている。


それだけ看護には、「観察が重要だ」と、ナイチンゲールは自身の経験を基に激しく痛感していたのだろう。



 たとえば、空気の入れ替えは大切なことだが、入れ替える空気がPM2.5や黄砂、大きな工事現場の排気などで淀んでいた場合、入れ替えた空気が患者に悪さを働くことがある。


しかし、入れ替えを実施した人間は、「空気を入れ替える」という善良なタスクを達成した、という認識をもっている。


そのため、自身の善良な行動の問題点と患者の状態変化が結びつかず、患者自身もまた、なんで症状が悪化するのか分からない。


 仮に、患者がそれに気づいていたとしても、「お世話をしてもらっている」という立場上、自身の疑念を相手に伝えない場合がある。


だからこそ、看護には『観察』が大切だ。


問題の起因と患者の変化にいち早く気づき、患者の命を守り続けるために。 


国家試験に合格し『看護師』という資格を与えられたプロフェッショナルならば、尚更、観察するスキルを磨くべきだと、私は感じる。



 そのため、泣いている人間に『驚く』という表現を行なった2人の看護師は、まるで「病院で泣く人間はいない」といった認識を持っているように感じさせ、観察によるパターン認識や自分の職務を把握する能力が未成熟なように見える。


 驚き、大事無いと分かれば、私の返答に何も答えず書類運びに戻った看護師。


 驚き、狼狽し、不器用にも自身の価値観で慰めてくれた看護師。


 痛みを伴う検査を実施している病院で、検査後に泣いている患者が現れることは想定しているべきであり、目を見開いて驚いたり、狼狽えた目を見せるような、素直な感情表現はプロフェッショナルとしてありえない。



 あらためて言うが、「病院は、さまざまな理由や感情を抱えた人間が訪れる場所」である。


人間の多様な感情を迎える想定をしていないように見える看護師に、あなたは大切な人の命や自身の命を預けることができるだろうか?


 私はできない。


 泣いてしまった彼女を抱きしめて、背中をどれだけさすり、「頑張った」と励ましたとしても、彼女が怖い思いしたという事実は、消えないからだ。





【あとがき】


 ナイチンゲールは、「患者が看護師に不安を感じていれば、患者は自身で自分の症状を調べるようになる。しかし、病気の状態にある人間の想像力は逞しく、むしろどんどん気が滅入ってしまう。」といった内容も語っている。


 この現象は、現代の医療方針と患者を取り巻く状況にも当てはまると私は考える。



 医療は患者の意思を尊重するようになった。これは患者の選択する権利を尊重、医療の選択という自由によって患者の人生の質を上げるためである。


しかし、その「選択の自由」を受けた患者の中には、それが『放任』、あるいは『冷たさ』と感じたために、医療への不信感を募らせてしまう人間がいる。


 それなりにレビューが付いている病院のレビューを見てみると、「ネットで調べた内容を否定された」といった内容が目に入る。


 あなたも病院へ関わる前に、自身が何の病気なのかをある程度調べた経験があるはずだ。


それは、自身の不安を解消するためであるが、その『不安』は「病院にいってもミスがあるかもしれない」という医療への不信から発生しているのではないだろうか。


 ネットには医療ミスの話がたくさんある。それが医療への不信を募らせ、病院で接した医師や看護師の表面的に冷たい態度や、プロフェッショナルではない感情的な言動を目の当たりにして、その不信はさらに大きくなってゆく。


そうすると、ますます調べるようになり、医療が信じられない悪循環に陥る。



 この一連の流れは、ナイチンゲールが主張した「患者が看護師に不安を感じていれば、患者は自身で自分の症状を調べるようになる。しかし、病気の状態にある人間の想像力は逞しく、むしろどんどん気が滅入ってしまう」という状況に似ている。


 つまり、医療が親切心から尊重した患者の自由は、助かる患者もいる反面、ネットが発達し、悪い医療の話を見て不安を募らせている人にとって、突き放しや放任に感じられ、誰かの孤独や苦しみをさらに強めている面があるように思える。


 「自由」を考える身としては、医療のような専門知識が必要、かつ人生を大きく左右するような「選択の自由」は、考えるだけの情報を与えられていない患者にとって、不信が生じやすいのだと思う。



――と、このままでは、私もただ医療への不信を訴える人間になってしまうので、個人的な「いい病院の見つけ方」も書いておこうと思う。


まず、「新しくできた病院か?」という視点は大切だ。


これは、CTやMRIなどの機器が最新である可能性を高めるためであり、機器の精度の悪さから起きる診断ミスを防ぐためである。


同時に、病院には鮮度や士気のようなものがあるため、新規に開院したばかりの病院はやる気が満ち、診断が丁寧な場合が多いと、個人的には感じている。



2つ目は、「HPが作り込まれているか?」という視点だ。


これは本当に大事だと思ってる。


新規に開院した病院や、開院してそれなりに経つ病院のHPが、「未完成のまま放置されていたり」、「ごちゃごちゃして分かりにくい、ハウルの動く城状態」であるならば、その病院は少し注意が必要だと思う。


悪い病院ばかりではないことの方が多いのだろうが、多忙による雑な診察や、患者の事情を想像できない病院である可能性があり、私の彼女のような、とりわけ不安を感じやすい人間には向いていないようだった。


逆に、HPのブログが更新され続けている病院は、個人的な経験としては、いい病院である可能性が高いと思っている。


少なくとも、HPを訪れた患者に医療情報を継続的にブログで伝えようとしている行動からは、「医師として人を助ける」という目的意識が感じられる。


ただ、ブログの更新については1つ注意点があって、ネットを閲覧しているときに表示されるような「お金を稼ぐための広告」としてブログを書いている病院は注意が必要だ。


「他病院よりも安く」といった言葉や「独自に編み出した治療」などの言葉がある病院に、私は行かない。


なぜなら、私の彼女は若い頃に、「独自治療」と称したものを病院で受け、糖尿病になってしまったからだ。


当時の彼女は、10代の健康体であったにも関わらず、その治療によってHbA1cが13.6になっていた。


この「13.6」という数値は、糖尿病に詳しい人間からすると、その独自治療の異様さが際立つと思う。


一般的な医療行為とは、言えない。


まとめると、


・新しくできた病院か?

・HPが作り込まれているか?


という2点は、経験上、病院を選ぶ上で大切な視点だと思っている。それが、大切な人の人生を守ることに繋がると私は思ってる。




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