いつかどこかで
気づいた時には、もう何もなかった。
そこに流れていたはずの時間さえも、息を潜めるように姿を消した。一人になんてなりたくなかったのだと、今更ながら気がついた。
この両手に握られた刀だけが、今の私を存在するものとして受け止めている。
寄りかかることはできない。信じすぎては、自身さえも切り刻んでしまう。自分の足でたたなくてはいけない。分かっている、分かってはいるのに、うまく体が動かない。
刀が手から滑り落ちた。カシャン、と軽い音がして刀が地面に落ちる。いや、地面さえもそこにはなかった。
ゆっくり、ゆっくりと、刀も闇に呑まれていく。多くを殺した私と刀。二つで一つのようで、一つのような二つだった。それ以外なかったし、それ以外を求めようと思ったことはなかった。
彼に会うまでは。
…ただの気の迷いだった。あんなにあどけなく笑う人間を見たことがなかった。いつも手にかける人間はいくら着飾っていようとも、信じられないほど醜く、生きていながらも腐臭がした。
初めてあの笑顔を見た時私は、迷ってしまったのだ。これまで何の躊躇いを見せたことのない生きる術に、初めて、疑問を抱いた。抱いてしまった。私に彼を殺すことは不可能だった。
ずぶずぶと足も闇に呑まれていく。もう、身動きが取れない。でも、それでいい。これは今までの罰だと、そう思えば何も怖くなかった。沈みゆく意識の中、私はただ彼に思いを馳せる。
どうか、どうか、彼の行く先が幸せで溢れていますように…
ー・ー・ー
できるならできるだけ、一緒にいたかった。
初めて会った時の彼女は、とても寂しそうに見えた。寂しさが増えて増えて、体を覆い尽くしてしまって、だから本人はその心の正体に気がつけてないのだと、幼心にそう思った。
気がついたら手を伸ばしていた。彼女が確かに纏っていた殺気も憂いもすり抜けて、彼女に触れてみたいと、そう思った。
たとえこの腕が切り落とされても、きっと僕は悲鳴すら上げなかっただろう。けれど彼女は、僕の腕を、命を、刈り取ろうとはしなかった。
恐る恐る触れた彼女の頬はとても柔らかくて、もしかしたら年が近いのかもしれないと思った。けれど同時に僕は、不思議でもあった。
僕を訪ねて来る人は、大抵は打算まみれの貴族や商人か、僕を密かに殺しにくる刺客だから。彼女は刺客としての仕事を果たす気がなさそうだった。彼らは生きるために殺すしかないのに。僕を殺せなかった人たちは、その代償に死を与えられる。
…では、彼女は?
ざわり、と心を嫌な手が撫でる。おばさまに撫でられた時のように、心の奥底に、隠されたねっとりとした気味の悪さを感じる。
「ねぇ、君は…」
僕を殺さないといけないんじゃないの?
そう、僕は遅かったのだ。僕を殺させるか僕と一緒に逃げるか、その二つに一つをもっと早く決めなくてはいけなかった。でも、僕は半端な気持ちのまま口を開いていた。そのことも大切なことも、彼女には伝わらなかった。
口を半端に開いていたその時、彼女は急に立ち上がると、一度も振り返ることなく部屋から出ていった。
取り残された僕は手を伸ばすこともできずにそこに立ち尽くしたまま、彼女の出て行った窓を眺めるしかできなかった。また、彼女が現れてくれることを祈って、ずっとずっと。
僕たちが相まみえた時間はわずか十数分。それなのに僕は、今でも彼女のことが忘れられない。あの姿が未だにこの瞼の裏に焼きついて離れないし、離れたくない。
「これじゃあまるで悲劇のお姫様みたいだ…」
僕はほんの少し自虐気味な笑みを浮かべる。あまりにそれが的を射た表現だったから。我ながら耳が痛い。
僕はずっとここにいる。彼女に会う前から、彼女に会ってからも、ずっと。忘れられない彼女がまた僕の元に現れることをひたすら信じて。
僕は羽ペンを置くと外の窓を眺めて息を吐く。どうかこの思いが、何処かにいる彼女に届きますように。
「また、会えるかなぁ…」




