第6話:電話帳(タウンページ)の呪い
コツン。コツン。コツン。
階段を降りる二人の足音が、地下に反響している。
一段降りるごとに、空気が変わっていく。
カビの匂い。
古紙の匂い。
そして、濃縮されたインクの匂い。
まるで、何十年分もの印刷物が腐敗して、その瘴気が充満しているかのようだ。
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SCENE 01 ― 電話帳の墓場 / AM 11:22
地下3階。
非常灯の赤い光だけが、かろうじて空間を照らしている。
「……なんだ、これは」
ケンザキが、息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、「迷宮」だった。
何万冊もの電話帳が、うず高く積み上げられている。
ハローページ。タウンページ。職業別電話帳。
黄色い表紙、白い表紙、青い表紙。
それらが、天井に届くほどの壁を作り、複雑な迷路を形成していた。
「電話帳の墓場だ」
ギバが言う。
「2020年代に廃止された時、処分しきれなかった在庫がここに集められた。それから20年以上、誰も手を付けてねえ」
空気が、重い。
いや、「重い」という表現では足りない。
古紙のカビ臭さと、濃縮されたインクの匂いが、肺を圧迫している。
息を吸うたびに、何十年分もの「情報の残滓」が体内に入り込んでくるようだ。
「息が……しづらい……」
「当たり前だ。ここは『情報の濃度』が高すぎる」
ギバが、アルミホイルで覆った腕で口元を覆う。
「電話帳ってのは、ガンガンとは比較にならねえ。何十万人分の名前と住所と電話番号が、一冊に詰め込まれてる。情報の密度が、桁違いだ」
ケンザキが、足元を見る。
床にも、電話帳が散乱している。
その表紙は、奇妙に黒ずんでいた。
「なんで、こんなに黒いんだ……?」
「情報の重さだ」
ギバが言う。
「あまりの密度に、紙自体が『重く』なってる。光すら吸い込んでるんだ」
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SCENE 02 ― 禁忌の一頁 / AM 11:28
迷宮の奥へ進む。
電話帳の壁が、両側から迫ってくる。
古紙の匂いが、さらに濃くなる。
「ISAバスは、この奥だ」
ギバが先を行く。
ケンザキは、注意深く足元を見ながら進んでいた。
だが。
ズルッ。
「うわっ!」
足を滑らせた。
咄嗟に手を伸ばす。
電話帳の壁に手をついて、なんとか転倒を免れる。
その時。
開いた。
ケンザキの手が、壁の電話帳の一冊を押し、そのページが開いてしまった。
「しまっ……」
遅かった。
ページが見えた。
びっしりと並んだ、名前と番号の羅列。
アイカワ、アイザワ、アイダ、アイハラ、アオキ、アオヤマ、アカイ、アカギ、アカサカ、アカツカ、アカマツ、アキヤマ、アクツ、アサイ、アサカワ、アサクラ、アサダ、アサノ、アサヒナ、アサミ、アシダ、アズマ、アダチ……
「あ……ああああ……」
情報が、流れ込んでくる。
意味のない、膨大なデータの奔流。
何万人分もの名前と番号が、ケンザキの脳に直接ぶち込まれていく。
アベ、アマノ、アミヤ、アラカワ、アラキ、アライ、アリイ、アリガ、アリマ、アンドウ……
「うあああああああ!」
ケンザキの鼻から、血が流れ出した。
眼球が、勝手に痙攣している。
ページに並んだ文字の羅列が、蠢く蟲の群れのように見える。
一つ一つの名前が、黒い蟲になって紙面を這い回り、ケンザキの視界に侵入してくる。
イイダ、イイノ、イケダ、イケベ、イシイ、イシカワ、イシグロ、イシダ、イシバシ、イシハラ、イシヤマ、イズミ、イソガイ、イタガキ、イチカワ、イトウ、イナガキ、イナバ、イノウエ、イマイ、イマニシ、イワサキ、イワタ……
「や、やめろ……やめろやめろやめろ!」
脳が、悲鳴を上げている。
7Gに最適化された彼の脳は、この「意味のない高密度データ」を処理しようとして、オーバーヒートを起こしている。
【警告:情報過負荷 クリティカル】
【神経回路の熱暴走を検知】
【緊急シャットダウンを推奨】
「閉じろ! 目を閉じろ!」
ギバの声が、遠くから聞こえる。
だが、ケンザキの目は閉じられなかった。
眼球が、勝手にページを追い続けている。
脳が、「情報」を求めて、自動的にデータを取り込もうとしている。
ウエダ、ウエノ、ウエハラ、ウチダ、ウツミ、ウメダ、ウラベ、エグチ、エトウ、エノモト、エビナ、エンドウ……
「が、ああああああああ!」
ケンザキが、頭を抱えてのたうち回る。
脳が焼ける。
情報の奔流に、神経回路が焼き切れていく。
その時。
バシッ!
何かが、ケンザキの顔面を覆った。
「……っ!」
視界が遮られる。
電話帳のページが、見えなくなる。
「落ち着け」
ギバの声。
彼は、自分の着ていたボロボロのジャンパーを脱ぎ、ケンザキの顔に被せていた。
「情報を遮断しろ。何も見るな。何も考えるな」
「は……はぁ……はぁ……」
ケンザキが、荒い息をつく。
鼻血が、顎から滴り落ちている。
「死ぬかと……思った……」
「だから言っただろ。電話帳は『禁書』だ」
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SCENE 03 ― 90年代の耐性 / AM 11:35
「お前は……平気なのかよ……」
ケンザキが、顔を覆ったまま呟く。
「平気じゃねえが、耐えられる」
ギバが、開いたままの電話帳を無造作に閉じる。
「俺は90年代に、毎日電話帳を使ってた」
「使ってた……?」
「エロ本の出版社を探してたんだよ」
ギバが、鼻で笑う。
「インターネットがねえ時代だ。エロ本を通販で買うには、まず出版社の電話番号を調べなきゃならなかった。毎日毎日、タウンページとにらめっこだ」
「そんな……バカみてえな理由で……」
「バカみてえな理由だから、耐えられるようになったんだ」
ギバが言う。
「電話帳を『読む』ってのは、膨大な無意味データの中から、たった一つの意味を探し出す作業だ。お前らみてえにストリーミングで『最適化された情報』だけ食ってた奴には、絶対にできねえ」
ギバがケンザキの腕を引っ張り、立ち上がらせる。
「この程度のデータ量、俺には日常茶飯事だ。さあ、行くぞ。ISAバスはもうすぐだ」
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SCENE 04 ― 黄金のISAバス / AM 11:42
電話帳の迷宮の最深部。
そこに、一台のPCが鎮座していた。
埃まみれのタワー型筐体。
1990年代の、ベージュ色のケース。
側面パネルは外され、内部のマザーボードがむき出しになっている。
「あった」
ギバの声が、震えている。
マザーボードの拡張スロット。
そこに、一枚のカードが刺さっていた。
鈍い、金色の輝き。
接点部分が、本物の金メッキで覆われている。
「黄金のISAバス……」
ケンザキが呟く。
「16ビットの拡張カードだ」
ギバが、恭しくそのカードに手を伸ばす。
「こいつがあれば、1990年代のネットワークカードを動かせる。『生きたインターネット』に接続できる」
ギバの指が、カードに触れる。
そして、ゆっくりと引き抜いた。
カチッ。
その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
周囲の電話帳が、震え始めた。
「な、何だ……!?」
「共鳴だ」
ギバが舌打ちする。
「ISAバスは、この電話帳の山全体と『同期』してやがった。引き抜いたせいで、バランスが崩れた」
電話帳の壁が、崩れ始める。
何万冊もの禁書が、雪崩のように二人に向かって押し寄せてくる。
「逃げろ!」
ギバが叫ぶ。
二人は、崩れ落ちる電話帳の山から必死に逃げる。
足元で、ハローページとタウンページが砕け、ページが舞い散る。
その時。
ケンザキは、見た。
崩れ落ちる電話帳の山の中から、「何か」が這い出してくるのを。
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SCENE 05 ― 情報ゾンビ(インフォ・デッド) / AM 11:45
「ギバ……あれ……」
ケンザキが、震える指で指し示す。
電話帳の山から這い出してきたのは、人間だった。
いや、「人間だったもの」だ。
その全身に、文字がびっしりと浮かび上がっていた。
名前。住所。電話番号。
電話帳の情報が、肌に刺青のように刻み込まれている。
顔にも、腕にも、足にも。
隙間なく、びっしりと。
「情報ゾンビ(インフォ・デッド)か……」
ギバが呟く。
「電話帳の『情報』に汚染されて、人間をやめた奴らだ」
情報ゾンビが、口を開いた。
その喉から漏れ出したのは、死のアナログ音ではなかった。
ガガガガガ……ピーーーーッ……ジジジジジ……
壊れたプリンターの印刷音だ。
インクジェットヘッドが紙を引きずる、あの不快なノイズ。
それに、ファックスの受信音が重なっている。
ピーーーヒョロロ……ガガガガ……ジジジジ……
機械的なノイズが、五十音のリズムで区切られている。
人間の声ではない。
壊れた事務機器をサンプリングして作った、不気味な音声。
情報ゾンビが、ケンザキに向かって手を伸ばす。
その手にも、びっしりと文字が刻まれている。
ガガガガ……ジジジ……ピーーーッ……
「来るな!」
ケンザキが叫ぶ。
だが、情報ゾンビは止まらない。
その口が、大きく開いた。
そして。
ブワッ!
口から、電話帳のページが吐き出された。
何十枚もの紙片が、ケンザキの顔に向かって飛んでくる。
「うわっ!」
ケンザキが顔を覆う。
だが、紙片の一枚が、彼の頬に張り付いた。
「ぐ……っ!」
張り付いた紙片から、情報が流れ込んでくる。
ヤマダ、ヤマグチ、ヤマザキ、ヤマシタ、ヤマモト、ヤマナカ、ヤマノ、ヤマムラ……
「はが……っ!」
ケンザキが、頬の紙片を剥がそうとする。
だが、紙が皮膚に溶け込んでいる。
無理に剥がそうとした瞬間。
ベリッ。
皮膚が、一緒にめくれた。
「ぐあっ!」
だが、傷口から流れ出したのは、血ではなかった。
黒いインクだ。
ドロリとした、粘性の高い黒い液体が、ケンザキの頬から滴り落ちる。
「な……なんだこれ……俺の血が……」
「情報汚染だ」
ギバが叫ぶ。
「電話帳のインクが、お前の血液に混じり始めてる。早く全部剥がせ!」
「こいつらの攻撃方法だ」
ギバが、リュックからガンガンを取り出す。
「電話帳のページを吐き出して、相手の顔に貼り付ける。情報を直接脳に流し込んで、窒息させるんだ」
情報ゾンビが、さらに口を開く。
次に吐き出されるページは、もっと多いだろう。
顔全体を覆われたら、ケンザキの脳は情報過負荷で焼き切れる。
「下がれ、ケンザキ」
ギバが、ガンガンを構える。
「月刊の重さを、こいつにも教えてやる」
情報ゾンビが、口からページを吐き出そうとする。
その瞬間。
ギバが、ガンガンを振り下ろした。
ドゴォォォォン!
900ページの鈍器が、情報ゾンビの顔面を直撃する。
カビ臭い粉塵が舞い上がる。
だが。
情報ゾンビは、倒れなかった。
顔面が陥没しているのに、まだ立っている。
そして、奇妙なことが起きた。
情報ゾンビの顔面に、ガンガンのページが張り付いていた。
パプワくんのギャグシーン。
不条理な表情をしたキャラクターが描かれている。
だが、そのページが、見る間に変色していく。
黒いインクが、端から侵食してくる。
パプワくんの顔が、文字の羅列に書き換わっていく。
アイウエオカキクケコサシスセソタチツテト……
ギャグシーンが、電話帳の索引に変わった。
「クソッ、ガンガンが侵食されてる……!」
ギバが舌打ちする。
「こいつは、電話帳で『強化』されてやがる。月刊程度じゃ、情報密度が足りねえ。逆に飲み込まれちまう」
電話帳の山から、さらに情報ゾンビが這い出してくる。
二体、三体、四体……
全員の喉から、壊れたプリンターとファックスの音が漏れている。
全員の手に、電話帳のページが握られている。
ガガガガ……ピーーーッ……ジジジジジ……
「逃げるぞ!」
ギバがケンザキの腕を掴む。
「ISAバスは手に入れた。ここにいたら、情報の海に溺れ死ぬ!」
二人は、崩れ落ちる電話帳の迷宮を駆け抜ける。
背後から、情報ゾンビたちの機械音声が追いかけてくる。
ガガガガ……ジジジジ……ピーーーヒョロロ……
階段を駆け上がる。
地下3階から、2階へ。
2階から、1階へ。
地上への出口が見える。
その向こうには。
紫色のノイズ雲が、秋葉原の空を完全に覆っていた。
ピーーーーーーーーーーーーーヒョロロロロロロロロ……
死のアナログ音の大合唱。
帯域喰いの嵐が、ついに秋葉原を飲み込もうとしていた。
「……上も地獄、下も地獄か」
ギバが、黄金のISAバスを握りしめる。
「だが、俺たちには『箱舟』がある」
―――――――――――――――――――――
[ブツッ]
[砂嵐……]
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▶ 第6話「電話帳の呪い」完
次回予告:
「『生きたインターネット』を起動させる。それが、人類最後の希望だ」
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