第3話:オフラインの箱舟
シュゴォォォォォ……
液体窒素が気化する音。
マイナス196度の冷気が、白い霧となって噴き出している。
ブォォォォォン……ブォォォォォン……
冷却ファンの回転音。
それは、この地獄における唯一の「聖なる音」だった。
―――――――――――――――――――――
SCENE 01 ― ファラデーの檻 / AM 09:32
渋谷駅の地下深く。
かつて変電所だった空間が、異様な光景を呈していた。
壁一面に貼り付けられた銅のメッシュ。
床に散乱する古い電子機器の残骸。
天井から垂れ下がる、用途不明のケーブルの束。
ファラデーケージ。
あらゆる電波を遮断する、電磁シールドの檻だ。
その中央に、巨大なタワー型PCが鎮座している。
いや、PCというより、もはや「祭壇」だ。
ケースの側面は外され、内部の基板がむき出しになっている。
そこに、液体窒素のタンクから伸びたチューブが接続され、白い冷気を吐き続けている。
12基の冷却ファンが、地獄の読経のように低く唸っている。
ブォォォォォン……ブォォォォォン……
「ここが、俺の『箱舟』だ」
アルミホイルの男が、中華鍋のヘルメットを脱ぎながら言った。
ギバ(推定40代後半)。
脂ぎった長髪。無精髭。血走った目。
だが、その瞳の奥には、狂気とは別の何か――確信に満ちた光が宿っている。
「箱舟……?」
ケンザキは、床に座り込んだまま呟いた。
彼の視界は、まだ赤く点滅している。
【警告:情報飢餓深度 レベル5】
【神経細胞の自己崩壊まで:あと8分】
「お前、もう限界だな」
ギバがケンザキの顔を覗き込む。
「7G世代ってのは、本当に脆い。お前らの脳は薄っぺらなストリーミングで出来てやがる。バッファもねえ、キャッシュもねえ、ローカルに何も残らねえ」
ギバが唾を吐く。
「クラウドが死んだら、お前らも死ぬ。当たり前だろうが」
―――――――――――――――――――――
SCENE 02 ― 情報の墓場 / AM 09:35
ギバが、サーバーの前に立つ。
「いいか、よく見ろ」
彼が背負っていたリュックを床に下ろす。
中から現れたのは、2020年代の「ポータブルNAS」だった。
ネットワーク接続型ストレージ。
だが、そのLANポートは物理的に破壊されている。
「こいつは、どこにも繋がっていない」
ギバが言う。
「インターネットにも。テラ・リンクにも。お前らのクソみてえな7Gにも。完全にオフライン。独立した『情報の墓場』だ」
その時、ギバの目が、ケンザキの懐に止まった。
「……おい。それ、何だ」
「え? あ、これは……」
ケンザキが、血と汗で湿った少年ジャンプを取り出す。
ギバが鼻で笑った。
「週刊誌か……」
「こ、これで帯域喰いを倒したんだ。紙媒体の情報が、あいつらの脳をフリーズさせて……」
「知ってる」
ギバが手を振って遮る。
「まあ、雑魚(帯域喰い)を追い払うくらいの『牽制』にはなるだろうが……」
ギバがケンザキの目を真っ直ぐ見据える。
「本気で脳を焼きに来る連中には、そんな薄い『友情』は通じねえぞ」
「薄い……?」
「週刊だからな。毎週発行される分、一冊あたりの情報密度は分散される。『友情・努力・勝利』? 結構なこった。だが、そんな予測可能なパターンは、7G世代の脳にとっちゃ『処理しやすい』んだよ」
ギバがサーバーの横に置かれた古い木箱を開ける。
「本物を見せてやる」
―――――――――――――――――――――
SCENE 03 ― 月刊の威厳 / AM 09:37
木箱の中から、ギバが何かを取り出した。
それは、一冊の雑誌だった。
いや、「雑誌」という言葉では表現しきれない。
ボロボロの表紙。日焼けで変色した背表紙。
だが、その厚みは異常だった。
ジャンプの3倍近い。いや、それ以上かもしれない。
『月刊少年ガンガン』1994年7月号。
ギバがそれを床に置いた。
ドスン。
鉄塊のような重量音が、変電所に響き渡った。
「これが『本物』だ」
ギバが言う。
「情報の解像度、ページ数、そして……不条理の密度」
ギバがガンガンの表紙を撫でる。その指先が、微かに震えている。
「月刊の重みを舐めるな」
ケンザキが、恐る恐るガンガンに手を伸ばす。
持ち上げようとして、腕が悲鳴を上げた。
「重っ……! 何だこれ、本当に紙か……!?」
「900ページ超だ」
ギバが淡々と言う。
「しかも、この時代のガンガンは、ジャンプのような『王道』じゃねえ。ハガレン、パプワくん、ロトの紋章、魔法陣グルグル……秩序もクソもねえカオスの闇鍋だ。7Gに最適化された脳が、この『予測不能な情報の暴力』を処理しようとしたら、どうなると思う?」
「……どうなるんだ?」
「即死だ」
ギバがニヤリと笑う。
「これは単なる本じゃない。7Gに最適化された脳を粉砕するための『対戦車ライフル』だ」
―――――――――――――――――――――
SCENE 04 ― 情報の炊き出し / AM 09:40
ケンザキの視界は、まだ赤く点滅している。
【神経細胞の自己崩壊まで:あと5分】
「ま、まず俺を助けてくれ……情報を……何でもいいから……」
「助ける?」
ギバが鼻で笑う。
「お前を『助ける』のは簡単だ。ニューロ・ポートにケーブルぶっ刺して、圧縮データを流し込めばいい。だがな……」
ギバがケンザキの首筋を掴む。
「そんなことしたら、お前の脳は3秒で焼き切れる。ストリーミングしか知らねえ薄っぺらい脳味噌に、ローカルの『重い』データは毒なんだよ」
「じゃあ、どうすれば……」
「昔ながらのやり方だ」
ギバが、サーバーの横に置かれた古いモニターの電源を入れる。
ブツン。
画面が明滅する。
解像度は800×600。
フレームレートは15fps以下。
「お前の脳に必要なのは、『見る』ことだ。生身の目で、物理的な光を」
モニターに、何かが映し出される。
それは、1990年代のアイドルの画像だった。
JPEG圧縮のノイズだらけ。
色は褪せ、輪郭はぼやけている。
解像度は、現代の基準で言えばゴミ同然だ。
だが。
「あ……ああ……」
ケンザキの目から、涙が溢れた。
「何だ、これ……何だ、これは……」
彼の脳が、痙攣している。
7Gに最適化された神経回路が、この「低解像度の情報」を処理しようとして、オーバーヒートを起こしているのだ。
「重い……情報が、重い……」
「そうだ」
ギバが言う。
「これが、本物の『情報』だ。ストリーミングで流れてくる、圧縮されて、最適化されて、お前らの脳に『消化しやすく』加工されたクソとは違う」
モニターの画像が切り替わる。
今度は、テキストファイルだ。
ただの.txt。
黒い背景に、白い文字が並んでいるだけ。
「2003年、私は秋葉原で初めて自作PCを組んだ。CPUはPentium 4、メモリは512MB。あの日の興奮を、私は一生忘れないだろう……」
誰かの日記だった。
匿名の、どこかの誰かが、20年以上前に書いた、ただの日記。
「ぐ……ぅぅぅ……」
ケンザキが頭を抱える。
情報の「密度」が違う。
7Gで流れてくるデータは、脳に負担をかけないよう、徹底的に「薄められて」いた。
だが、このテキストファイルは違う。
書いた人間の感情が、そのまま残っている。
圧縮されていない。最適化されていない。生のままだ。
「痛い……脳が、痛い……」
「当たり前だ」
ギバがモニターの前に立つ。
「お前らは、『軽い』情報しか食ってこなかった。だから、『重い』情報を消化する筋肉が退化してやがる」
ギバがキーボードを叩く。
画面に、新しいファイルが表示される。
「2ちゃんねる過去ログアーカイブ 1999-2004」
「さあ、食え」
ギバが言う。
「これが、情報の『炊き出し』だ」
―――――――――――――――――――――
SCENE 05 ― 帯域喰いの合唱 / AM 09:50
ケンザキの視界から、赤い点滅が消えていた。
【情報飢餓深度:レベル2に低下】
【神経細胞の状態:安定】
「助かった……のか……?」
「一時的にな」
ギバがサーバーの温度計を確認する。
「お前の脳は、まだストリーミング依存から抜け出せてねえ。また『軽い』情報を求め始める。その時、お前は選択を迫られる」
「選択……?」
「このまま『帯域喰い』になるか、それとも――」
その時。
ドンッ。
変電所のシャッターに、何かがぶつかった。
ドンッ。ドンッ。ドンドンドンドンドンッ!
「来やがったか」
ギバが舌打ちする。
シャッターの向こう側から、あの音が聞こえてくる。
ピーーヒョロロ……ガガガ……
……ギギ……ギギギ……
ピーーーーーーッ……
死のアナログ音の大合唱。
「帯域喰い」たちが、ファラデーケージの周囲に集まっていた。
「サーバーの排熱と、冷却ファンのノイズを嗅ぎつけやがった」
ギバがリュックを背負い直す。
そして、床に置いたガンガンを、まるで聖遺物を扱うように慎重に持ち上げ、リュックの外ポケットに差し込んだ。
「ここは、もう使えねえ」
「どうするんだ……」
「決まってんだろ」
ギバが、サーバーから伸びる電源ケーブルを引き抜く。
ブォォォォォン……という聖なる音が、ゆっくりと消えていく。
「地上に出る。『アナログの聖地』を目指す」
「アナログの聖地……?」
「秋葉原だ」
ギバの目が、狂気と希望の入り混じった光を放つ。
「あそこには、まだ残ってるはずだ。ネットに繋がってねえ、純粋な『オフライン』の機材が。俺たちの『箱舟』を完成させるためのパーツが」
シャッターが、ギシギシと音を立てて歪み始める。
「時間がねえ。立て、新規」
ギバがケンザキの腕を掴んで引き起こす。
「お前、そのジャンプは置いてくな。雑魚相手の『牽制』にはなる」
「牽制……」
「本気でヤバい奴が来たら、俺がガンガンで仕留める。お前は露払いだ」
シャッターの隙間から、無数の指が差し込まれる。
爪が剥がれ、血が滴っている。
それでも、彼らは止まらない。
情報を。
情報を。
情報をくれ。
死のアナログ音が、さらに高まる。
ピーーーーーーヒョロロロロ……
ガガガガガガ……
ギギギギギギギギ……
「行くぞ」
ギバが、非常口のハンドルを回す。
「地獄の底から、地獄の表面へ。大して変わらねえがな」
―――――――――――――――――――――
[ブツッ]
[砂嵐……]
―――――――――――――――――――――
▶ 第3話「オフラインの箱舟(Offline Ark)」完
次回予告:
「週刊の『友情』じゃ足りねえ。月刊の『不条理』で殺れ」
―――――――――――――――――――――
[カウンター表示:00:38:27]
[PLAY ▶ ]




